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王舎城の悲劇(5)

 数日後、アジャータシャトル王子は軍勢を率いてラージャグリハへ戻ってきた。それを見た門番がただならぬ気配を感じ、王宮へ走って叫ぶ。

「太子さまが、(つわもの)と共に城内へ押し入ろうとされている!」

 王宮は大騒ぎとなった。

「大王よ、どうなされますか」

 大臣たちは広間へ集まり、口々にわめいてビンビサーラ王の指示を仰いだ。

(明らかな反逆であるが、アジャータシャトル王子の他に次の王となるべきものは見あたらぬ。さて……)

 銀色の髭を撫でながら、チャンドラプラディーパ(月光)大臣が王を顧みた。(おみ)の筆頭としてマガダの国政の場にあって五十余年、彼もすでに八十の歳を数えた。一方のビンビサーラ王も六十八となり、主従の上にも時は容赦なく老いを刻んでいた。

(王はいとし子の王子をどのように処断されるのか。よもや、このような事態に直面しようとは……)

 老大臣は、小さなため息をついた。

 だが、セーニヤ・ビンビサーラ王は玉座に坐ったまま無言であった。

 そのうちに人々の騒ぐ声が大きくなり、広間にアジャータシャトル王子が姿を現した。

 抜き身の剣を右手に持ち、阿修羅あしゅらのような形相(ぎょうそう)をしている。

「どうか、お心を鎮めて下さい!」

 周囲にいる者たちが止めようと叫ぶのだが、王子の殺気と付き従う兵士たちに怖気づき、誰もそれ以上近寄っていこうとはしない。

 血走った眼をした王子が前に進み出て、手を伸ばせば触れるほどの距離にまで迫って来た。そのとき、

「太子よ、そなたは、かほどにこの玉座が欲しいのか」

 王が云った。

 広間が静まり返る。

「……ならば、そなたにこれを譲ろう」

 哀しみを帯びた(しず)かな声であった。

 アジャータシャトル王子は驚きの表情のまま、動きを止めた。そして崩れるように、片ひざをついた。

(終わった……)

 傍らにいたチャンドラプラディーパ大臣は慄然(りつぜん)と思った。

(予言は成就するであろう)

 群臣はどよめき、王子の配下の兵たちから歓声が湧き起こる。

 その中でビンビサーラ王はゆっくりと玉座を降り、奥へと歩み去っていった。

 やがてアジャータシャトルは即位灌頂(そくいかんじょう)の儀式を終え、(ラージャン)となった。ところが再びディーヴァダッタの勧めに従って父を捕らえ、宮殿の片隅にある宮の一室に押し込めてその食を断ち、餓死するのを待ったのであった。




 ディーヴァダッタのアジャータシャトル王に対する影響力は強く、彼が百二十六人の兵を()うと、王はすぐにそれを与えた。兵士を必要としたのは、初めに二人を(つか)わして世尊を殺させ、さらに四人を(つか)わしてその二人の帰路を押さえて殺させ、次に八人を(つか)わして先の四人を殺し、この八人を十六人で、というように倍の数で次々と殺させ、最後には三十二人を六十四人によって殺し、誰が世尊を怨んで殺したか、分からないようにしようと企んだためだった。

(今度は、私が仏を葬る番だ)

 ディーヴァダッタはまず二人の兵に仕事を言いつけ、後の者たちを密かに所定の位置に配して吉報を待った。

 このとき世尊は(りょう)鷲山(じゅせん)の岩屋を出て、そぞろ歩きをしていた。二人の兵は鎧を着け刀を取って物陰から世尊に近づこうとしたが、その(しず)かな様子には付け入る隙がない。二人の体は震え、奥歯を強く噛み締めてもそれは止まらず、冷や汗がしきりに流れ落ちた。

「……出来ぬ」

(わし)もだ」

 二人は息を吐いた。そして刀を捨て、世尊の前に姿を現して許しを乞うた。

「善い(かな)

 世尊は穏やかに微笑み、その二人の兵にさまざまな教えを説いた。

 世尊の言葉は兵たちの心に染み入り、彼らは(のり)(まなこ)開いて三宝に帰依する信者となった。

 やがて兵たちは予定していた道を通らずにラージャグリハへ戻り、ディーヴァダッタに云った。

「尊者よ、我等にはとてもあのような聖者を(そこな)い奉ることは出来ぬ。企ては、あきらめなさるがよろしかろう」

「なんという不甲斐ない奴らだ!」

 計略が全くの水泡に帰し、ディーヴァダッタは怒り狂った。そして自ら(りょう)鷲山(じゅせん)へ登って行った。

「ああ、やつがいる」

 ディーヴァダッタは岩陰から下を見、世尊の姿を認めた。その日も釈迦牟尼世尊は、ひとりで岩屋の辺りを歩いていた。彼は大きな石を持ち上げ、はるか山の上から世尊めがけて投げ打った。

 しかしそれにいちはやく気づき、世尊は大石を避けることが出来た。けれども石のかけらは足を傷つけ、おびただしい血が流れた。

 ところが釈迦牟尼世尊は声を発せず、すぐに岩屋へ入り、大衣(ころも)を四つにたたんでその上へ右を脇にして臥し、一心に痛みを忍んだ。

「何事か」

「世尊はご無事であるか」

 落石の轟音(ごうおん)に驚いた弟子たちが騒ぎ始めた。そこで彼らの師は傷ついた体をおして岩屋の外へ出て、云った。

(そなた)()漁師(すなどりびと)のように(さけび)を出してはならぬ。各々(おのおの)その所に帰って、(こころ)(もっぱ)らにして道を修めるがよい。諸々(もろもろ)の仏は、あらゆる怨みに打ち勝っている。かの転輪王がいかなる敵にも(そこな)われることがないように、どのような敵でも仏に向かってその悪を加えることは出来ぬ」

 弟子たちは静まり、それぞれ自分の修行に戻ってゆく。

「世尊、ひどいお怪我を……」

 そのときアーナンダが師の足の傷に気づき、慌てて手当てをした。けれどもその傷口は()(やす)く治らなかったので、アーナンダを始めとする弟子たちは都から名医のジーヴァカを呼んだ。

 ジーヴァカは化膿した傷口を切り開いて悪血を出し、それを治癒させた。

 このように、企てが二度も失敗したディーヴァダッタだが、次には王に巨象を()うた。

 そして象使いに云う。

「明日、ゴータマの来る道に、象を酔わせて放つがよい。彼は慢心しているから、避けることはないであろう。さすれば踏み殺されるに相違(ちがい)ない」

 ディーヴァダッタが云った通り、翌朝、世尊は衣を着け、鉢を持ってラージャグリハへ入った。(かて)を乞うていると、遠くから象師(ぞうつかい)が様子をうかがっており、機を見て酔った象を放った。

 大きな足音をたてて象が走る。逃れようとして、街角の人々が悲鳴を上げて散った。

「暴れ象がおります。他の道をお行き下さい!」

 街の人々は世尊に避けるように願ったが、目覚めたる人はそのまま象のいる道を進んでいった。

 酔った象は人影を見つけ、耳を奮い鼻を鳴らして駆けて来る。

 しかし世尊は、慈愛を込めて(うた)をうたった。

「汝、大龍を(そこな)うなかれ。大龍の世に()でるや(かた)し。もし大龍を(そこな)わば、(のち)の世、悪道に堕つるならん」

 象は世尊の前で止まり、しばらく凝視していたが、やがて跪き、鼻で世尊の足を(いだ)いたのち、立ち去っていった。

 喝采(かっさい)が湧き起こる。

「さすがは仏陀、尊い方よ」

 その光景を見ていた人々は皆、()めたたえた。

 しかし、

「世尊の()神力(いず)は限りなしといえども、ディーヴァダッタも懲りぬ(やから)である」

 と、ラージャグリハの在家信者たちは、たびたびの襲撃に師の身を案じ、どうか厄災を避けて下さるようにと申し上げた。出家した弟子たちも同じことを強く願うので、世尊はこの地を離れることにした。




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