王舎城の悲劇(4)
ディーヴァダッタの教団は五百人の弟子を取り返されて、再び盛り返すことが出来ないほどの打撃を受けた。今や頼みとするのは、アジャータシャトル王子のみである。
王子はすでに二十歳を幾つか過ぎ、妃も娶って分別のつく年頃となっていた。今は、かつて即位前の父がそうであったように、多くの軍勢を伴ってチャンパーに駐留していた。
ディーヴァダッタはそのアジャータシャトル王子を訪ねてゆき、周囲の人間を去らせてから上座に坐る王子へ近づき、ささやいた。
「太子よ、父君は壮健で、いつまでも王位に就いておられるように見える。父王の生きておられる間、御身は位に就くことが出来ぬ。父王が死なれた後にたとえ王位に就かれてもその楽は甚だ短い。されば、一日も早く父王に代わって王位を継がれるがよい。私もまた、ゴータマを害うて法の王となりましょう。かくて新王と新仏が相並んでマガダの国を治めることとなり、まことに楽しいではありませぬか」
アジャータシャトル王子は驚愕し、ディーヴァダッタから身を引いた。
「父母の恩の重いことは日や月にも勝っている。その長い養育には報いがたい。なのに師はどうしてこのような逆さごとを勧められるのか」
「それは、すでに予言されたことなのです」
こう云われると王子は顔色を変え、暗い物思いに沈んだ。
セーニヤ・ビンビサーラ王が即位したのは十五歳のとき、父の死によってであった。そのとき王子ビンビサーラは軍を率いてアンガ国と戦い、都のチャンパーを占領してそこに駐留していた。しかし彼は父王の死を聞くとすぐにラージャグリハへ戻り、諸大臣の推戴によって王となった。このとき彼の即位には誰も異を唱えないばかりか、大臣達はみな積極的に支持をした。それはセーニヤ・ビンビサーラが他の異腹の諸王子よりも、群を抜いて王としての優れた資質を持っていたからであった。
彼は即位すると無能な役人を放逐し、人々を直接統べるため村長たちを召集して会議を開いた。そして川には橋を架けさせ、堤を築き、マガダの国内を巡察した。また、山頂近くにあった都を下に移し、今のラージャグリハ(王舎城)を築いたのであった。その一方で、遠く離れたガンダーラ国のプックサーティ王とよしみを通じて、西方の進んだ学問と技術を導入し、東に隣接するアンガ国は力でもって征服した。彼は内政外交において果敢な行動をとる天才ともいうべき王で、小国であったマガダを一代で強国にした人物であった。
さらにビンビサーラ王は、その頃マガダと覇を競っていたコーサラ国の王マハーコーサラの姫を正妃に迎えた。妃は沐浴化粧料として一万金の税を納めるカーシー国の村を持参した。カーシー国の一部を併合したことによって国境で小競り合いが起こったが、王はヴァッジ国からヴァッジの有力部族であるヴィデーハ族の王家の姫を娶って、それを収束させた。
アジャータシャトル王子の母は、このヴィデーハ族の王女であった。名をセラーナーといい、後宮ではその出身からヴァイデヒー夫人[韋提希夫人]と呼ばれていた。
ビンビサーラ王は女性を好み、後宮には才美兼ね備えた妻妾が数多いた。そのうえ王は、名高い娼女アンバパーリーとの間にもコンダンニャという男の子をもうけるほどの粋人であった。
女性たちもまた、この雄々しく麗しいマガダの王を愛した。政略的な婚姻であったとはいえ、コーサラの姫もヴィデーハの姫もひと目で恋に落ちた。
マガダに来てからコーサラデーヴィーと呼ばれた正妃マッダーは、王より二つばかり年上の物静かで心優しい婦人であった。子には恵まれなかったが、王への愛は終生変わらず、それは他の妃が産んだ王子や姫にも及び、彼女は後宮の子供たちを等しく慈しんだ。王家では、子供たちは父の妻たちを生母でなくても『母』と呼ぶ習慣があったので、ビンビサーラ王の子供たちはマッダーにとって真の息子であり娘であった。
セラーナーが嫁いできたのは、コーサラの姫よりかなり後、ビンビサーラ王が仏陀との再会を果たした時期のことだった。王はそのとき三十を過ぎていた。その一方、ヴィデーハの姫は花が咲き初めたばかりの年頃であった。すでにビンビサーラ王にはアバヤ[無畏]王子を始めとして数多くの男子があったが、それでもこのヴィデーハ族の姫との間に子を望んだ。後宮で美貌を謳われたケーマー妃が百花繚乱の華やかさであるならば、彼女は実をつける木々の花のような印象を与えた。聡明であるばかりでなく、人を憩わせる緑陰のような安らぎを感じさせる女性であった。
しかし子を望む願いが叶うことなく月日がたち、ビンビサーラ王は男の盛りを過ぎた。マガダの版図は広がり、国は繁栄していた。けれども、後継となる優れた王子がいなかった。そんなときに、ヴィデーハの姫が身籠った。
王は喜んだが、不吉な予言が為される。
宮中の占い師は告げた。
「王よ、生まれる子は父王を敵とするであろう」と。
ヴァイデヒー夫人がつわりの頃、王の肩の血が飲みたいという奇病に罹り、日ごと痩せ衰えたことがあった。王はそれを聞き、自ら肩の血を絞って夫人に飲ませたが、そのとき占わせた結果がこれであった。
夫人はそれを聞くと階段から自ら落ち、また人に腹を踏みつけさせて、幾度も堕胎そうと試みた。だが、王は云った。
「妃よ、どのような予言があろうとも、これは私とそなたの愛しい子である。害のうてはならぬ」
ビンビサーラ王は、すべてを受け止める覚悟を決めていた。
夫への愛と子への想いに引き裂かれ、夫人はただ泣くばかりであった。
そして生まれたのが、アジャータシャトルである。王子は長じてのち、この予言を知った。偉大な父と美しく聡明な母の愛を一身に受けた幸福な子供だと、信じていた自分の存在が崩れていった。
(私が父を害することなど、あろうはずがない)
アジャータシャトル王子は不吉な予言を激しく否定したが、一方で心が揺らいでいた。それをディーヴァダッタが見逃すはずがない。
「……もちろん、太子は王を敬愛されている。しかし、父君はどうであろうか」
「何のことだ」
王子が顔を上げ、ディーヴァダッタを顧みた。
ふっと笑い、ディーヴァダッタが云う。
「先だってのことを、お忘れではありますまい。マガダの国土となった村に太子が税を課された。それを重すぎると、父王は責めた……。また他にも、太子が行う政にビンビサーラ王はことごとく反対される。これは太子を信じていないゆえ。いずれこのままでは太子の位を廃され、他の王子が世継ぎとなりましょう。さすれば御身は、次の王にどのような扱いを受けるであろうか」
「まさか……」
アジャータシャトル王子は、弱々しく頭を振った。それに対してディーヴァダッタは、今まで父王がいかに王子に冷淡であったかと、事例を挙げて述べ立てていった。そして最後に語気を強めて云う。
「太子よ、たとえ父とはいえ、自らを滅ぼそうとするものを害うて、どこが悪いというのか。御身は座して死を待つのか」
このとき、アジャータシャトル王子は身じろぎしなかった。そしてしばらくの後、ディーヴァダッタを真っ直ぐ見つめて云った。
「尊師よ、私は貴方に従います」
王子はディーヴァダッタを拝し、さまざまにもてなした。