王舎城の悲劇(3)
一方、ディーヴァダッタの権勢は日ごとに大きくなってゆき、彼は世尊に代わって教団を統べようと企てた。
この事態を、そのときコーサンビーのはるか南方にあるチューディ国にいたマウドガリヤーヤナが知った。驚いた彼は急ぎ竹林精舎へ赴き、ディーヴァダッタに逆心あることを報せた。
(マウドガリヤーヤナどの、どうされたのか。顔色が、いかにもお悪い)
世尊の傍らに侍していたアーナンダは、この兄弟子があまりにもやつれ、青ざめているので、病気ではないかと心配した。
ところが彼の師は、
「もう、とっくに知っている」
と、答える。
(ああ、そうであった。案ずるには及ばなかった。我らの師は、あやつの心底をとうに見通しておられる)
そう思ったら、肩の力が抜けた。
いつものように寂かで穏やかな世尊の姿を拝し、マウドガリヤーヤナは、ほっと安堵の息を吐いた。
(よく考えてみれば、いかに悪人のディーヴァダッタとはいえ出家の身である。戒律を犯すような無体なことはいたすまい)
師が害せられるなどということは、考えたくもなかった。ましてやその死に遇うことなど、マウドガリヤーヤナには耐えられそうにない。
(不吉な予感がしたのだが、これは大事に至らぬかもしれぬ)
彼は思った。
そうしているうちに一人の比丘がやってきて、ディーヴァダッタの来訪を告げた。
「愚かな彼らは私に向かい、自らを褒めてその企てを語るであろう」
彼らの師は、静かに云った。
そしてマウドガリヤーヤナが退き、再びチューディ国へ戻るのと入れ違いに、ディーヴァダッタが腹心の弟子であるコーカーリカ、カタモーラカ・ティッサカ、カンダディーヴァーの子、サムッダダッタなどを随えて、世尊のもとへやってきた。
一行が礼を為してから、ディーヴァダッタが云う。
「世尊はもう年老い、七十の歳を数えて力も衰えられた。弟子達を教養せられることも痛々しくおわすことかと思います。今より後は、私が世尊に代わって、弟子達のために法を説くでありましょう。世尊はただ、禅定をお楽しみ下さい」
(なんという恐れ多いことを申し上げるのか)
口上を聞いていたアーナンダは、怒りのあまり目眩がした。このとき世尊は七十三歳、老いたとはいえ、身に病はなく健やかであった。
しかしこの無礼な云い様に、彼らの師は常と変わらぬ声音で応える。
「ディーヴァダッタよ、私はシャーリプトラ、マウドガリヤーヤナのような、智慧明らかに行い円かな偉い聖者にすら、まだこの大衆の教養を委ねてはいない。どうして汝のような利養のために他の唾を喰らうようなものに、この大衆を委ねることが出来よう」
厳しい言葉であった。
ディーヴァダッタとその同朋たちは、一言も返すことができず、そのまま退出した。だが、彼は心に深く怨みを抱いた。
「世尊は大衆の前でシャーリプトラとマウドガリヤーヤナを誉め、私を辱められた。この怨はいつか報いねばならぬ」と。
やがて彼はある日、教団の規律が緩んでいることを楯として、五つの新しい規則を設けたいと、大勢の弟子たちの前で世尊に願い出た。
「一、林の中に住み町の辺に住んではならぬ。二、家ごとに食を乞い招待の供養を受けてはならぬ。三、終生、糞掃衣を着ねばならぬ。四、樹下に住み屋舎に眠ってはならぬ。五、肉を食べてはならぬ。
この五つであります。近頃、僧伽は放逸に流されておりますれば」
ディーヴァダッタは、賢しい顔で師を見上げた。
しかし、いたずらに厳しい規律を設けて行為を縛ることよりも、心の垢を除くことを主としていた世尊は、彼の申し出を許さなかった。
(それなら、それで良い)
ディーヴァダッタは師の前から退きながら、心中にんまりとした。
並み居る弟子たちの顔には、動揺が見えた。確かに気ままな修行者がいて、多くの者たちはそれを苦々しく思っていた。
(私は正しいことを述べた。これを否定するなら、誹られるのはゴータマの方である)
彼は師と弟子たちの間に、楔を打ち込んだのであった。
そして釈迦牟尼世尊は直ちにシャーリプトラを呼び出して云った。
「今からディーヴァダッタの組の者の処へ行き、彼の五つの則を受けるならば、真の教えに違うものであると申し伝えよ」
ところがシャーリプトラは、困惑の表情を浮かべた。
「世尊……私は先にディーヴァダッタを誉めたことがあります。今また謗るに堪えません」
「誉めるも実なれば謗るも実である。誤ったものは正さねばならぬ」
理ある師の言葉にシャーリプトラは納得して、ディーヴァダッタの僧坊へ向かった。そしてディーヴァダッタと心を同じくする徒衆へ仏陀の語を伝えた。
しかし、彼らは語り合う。
「ああ、世尊の弟子達も、ディーヴァダッタ尊者が手厚い供養を受けるのを見て、嫉を起こしている」
と、釈迦牟尼世尊の心を分かろうとせず、かえってディーヴァダッタに敬いの念を強くしただけであった。
シャーリプトラはまた、ラージャグリハの在家信者の人達にもこの事を告げたので、世尊に心寄せる者、反対にディーヴァダッタに味方する者、また両者の間で惑う者など、いささかの混乱が生じた。
一方、師に申し出が許されなかったとはいえ、ディーヴァダッタはこの新しい規則を以って進もうと決心していた。そして弟子の中で最も怜悧なサムッダダッタと計り、布薩の日にその新しい規則を唱えて、人々の賛同を求めた。
ちょうどその会には、新たに出家した五百人のヴァイシャリーの人々がいた。彼らはまだ規律を詳しく知らなかったため、ディーヴァダッタの言い出した規則に同意をした。
このとき、生憎とシャーリプトラ、マウドガリヤーヤナ、ウパーリなどの高弟たちはその場にいなかった。ただ、アーナンダが居た。
(兄者は、明らかに師とその教えを害おうとしている)
彼は憤然と、上衣を着けて座から立ち上がり叫んだ。
「この新しい規則は、世尊の定められた律ではない。諸々(もろもろ)の長老たちよ、もし私の言葉を認めるならば、上衣を着けてお立ち下さい」
(あの頼りなかった幼子が、侍者となって云うものよ)
ディーヴァダッタは目を細め、口元には皮肉な笑みを浮かべた。周囲の比丘たちは、ぼんやりとアーナンダを見るのみで、少しも動こうとしない。
けれどもそのうちに、六十人の長老たちが立ち上がった。
(……仕方あるまい)
そして、五百人の新しい弟子を得たディーヴァダッタは機嫌よく彼らに告げた。
「諸々(もろもろ)の長老たちよ、私は世尊の御許を離れよう」
彼は弟子達を随えてラージャグリハの西南十数里の処にある聖地ガヤーへ赴き、そこで弟子達の教養をしようと試みた。
これら五百人の新しい弟子達がディーヴァダッタに連れられ去っていった事態は、僧伽の人々の心を激しく揺り動かした。そこでこのとき霊鷲山にいたシャーリプトラとマウドガリヤーヤナは、師の許しを得て、奪われた弟子達を救い出そうとガヤーへ向かった。
「ああ、あの両人の長老たちもディーヴァダッタの弟子となるのではあるまいか」
ふたりが霊鷲山を去っていく姿を見て、泣き出す者もいた。
しかし、気づかう弟子たちに世尊は語った。
「汝等、憂うるには及ばぬ。両人は必ず彼処において法の威徳を現すであろう」と。
シャーリプトラとマウドガリヤーヤナの二人が聖地ガヤーへ着いたとき、ディーヴァダッタはガヤシーサの丘において法話の最中であった。
先にコーカーリカが彼らを見つけ、ディーヴァダッタに近寄り耳打ちした。
「気をつけることです。あの悪知恵の働くシャーリプトラとマウドガリヤーヤナがやってきます。両人は仏陀をも欺く輩でありますから、油断なさいませぬように」
コーカーリカは、二人がサンジャヤを裏切ったことと、その元の師が彼等のせいで死んだことを良く思っていなかった。そして世尊に、二人は悪人であると何度も訴えたが取り合ってもらえず、心離れてディーヴァダッタの許へ来たのであった。
「私はゴータマとは違う」
ディーヴァダッタは忠告を一笑に付した。
「だが、あのふたりが弟子となれは、さらに良いことだ。今でもゴータマより両人の声望の方が高いくらいであるからな」
と、彼はシャーリプトラとマウドガリヤーヤナを喜んで迎えた。
「卿等は先に私の新しい規則を認めなかったが、今はよく私の意をさとって来てくれた」
そして、シャーリプトラに向かって云う。
「私はいま労を覚えるから、卿は私に代わって法を説かれるが善い」
と、いつも世尊がするように語り、自らは大衣を四つにたたんで右の脇を下にして臥した。
(目覚めたる人を気取っておるのか)
シャーリプトラとマウドガリヤーヤナは呆れた。そしてこの地、ガヤシーサの丘[象頭山、伽耶山]こそはかつてゴータマ・ブッダがカーシャパ三兄弟と千人の弟子を得た後、彼等に向かって最初の説法を行った場所でもあった。
あまりにも不遜な態度に、他の仏弟子であったら怒り出すところであろうが、シャーリプトラとマウドガリヤーヤナは自分達の心を治めて思惑を表情にも出さず、云われた通りに五百人の弟子達の前へ坐った。
まずマウドガリヤーヤナが宙に浮かんで神通を現し、ついでシャーリプトラが法を説いた。
五百人の弟子達は初めて見るマウドガリヤーヤナの六神足の力に驚き、さらにシャーリプトラの巧みな説法を聞いて夢から醒めたようになった。そして過ちを悔いて彼等と共にガヤシーサの丘をあとにした。
「私が云った通りになった。なんと、悪賢いやつらだ!」
コーカーリカが怒りのあまり叫び、サムッダダッタが自分達の師を揺り起こす。
「尊師よ、シャーリプトラとマウドガリヤーヤナが弟子達を連れ去りましたぞ」
ディーヴァダッタは驚いて目覚め、
「汝、悪人よ、我が弟子を奪い去った!」
と、罵った。彼は地団駄踏んで怒り狂い、鼻から熱い血を吐いた。
そのころ祇園精舎では、シャーリプトラとマウドガリヤーヤナが五百人の弟子を連れ帰っており、それは驚きをもって迎えられた。
世尊は弟子たちに語る。
「弟子等よ、私は前に、樹の芯の喩を説いたことがあるが、この我等の悩み苦しむ生、老、死、憂、悲、苦、悩を無くすために出家しながら、供養と尊敬と名誉を得て、心驕ぶり満ち足りて、自らを讃え他を謗るのは、清らかな行の枝葉を取って樹の芯を得たと思う愚かさであり、放逸に流れて苦悩に陥るものである。また、美しい戒行に酔うて、心驕ぶり満ち足りて、自らを讃え他を謗るのは、清らかな行の外皮を摑んで樹の芯を得たと思う愚かさで、放逸に流れ苦悩に陥るものである。また堅固たる禅定をして、心驕ぶり満ち足りて、自らを讃え他を謗るは、清らかな行の内皮をとって樹の芯を得たと思うものであり、同じく放逸に流れて苦悩に陥るものである。また、明らかな知見を得て、これに眩んで心驕ぶり、自らを讃え他を謗るは、清らかな行の樹の肉を切り取って樹の芯を得たと思うものであり、同じく放逸に流されて苦悩に陥るものである。
供養と尊敬と名誉とに心揚がらず、美しい戒行に酔わず、堅固な禅定に惑わされず、明らかな知見に驕らず、放逸にならずにますます道に進んで動がぬ心の解脱を得るのが、樹の芯を求めて樹の芯を得たものである。この解脱から退堕するということはない。
弟子等よ、供養と尊敬と名誉とは清らかな行の目当てではない。美しい戒行が清らかな行の目当てではない。堅固な禅定も清らかな行の目当てではない。明らかな知見も清らかな行の目当てではない。動がぬ心の解脱こそ清らかな行の目当てである。これが要であり、これが終である」