王舎城の悲劇(2)
マガダ国へ着いたディーヴァダッタは、王のいとし子で十六歳になるアジャータシャトル[阿闍世]王子の帰依を得ようと企てた。彼は王子の日常を調べ上げ、ある日、王宮の奥深くまで入り込んだ。そこでアジャータシャトル王子が出てくるのを、樹の陰に隠れてじっと待っていた。
夕方、涼しくなった頃に王子が侍女たちと庭へ降りてきた。アジャータシャトル王子は、母のヴァイデヒー夫人によく似た面差しをし、利かん気の強い少年であった。侍女たちが世話を焼こうとするのだが、それを煩がり、手近にあった樹の枝を折って振り回して、追い払ってしまった。
「いつまでも童子のように扱いおって……」
王子は憤慨のために頬を赤く染めていた。そして、不機嫌そうに周囲の木々を手にした小枝で払っている。
そこへ、ディーヴァダッタが少年に変化して姿を現した。
「何者だ」
王子の目が険しくなった。手が止まる。
アジャータシャトル王子は眼前の『少年』を注視した。出家姿のその少年の腰には、大きな蛇が巻きついている。
「それは、毒蛇ではないか」
王子が叫んだ瞬間、蛇はかま首をもたげて襲いかかって来た。
(咬まれる!)
と、観念して目を閉じた。ところが、ぱさりと軽い音がしただけであった。
王子が両目を開けると、地面には一本の黒い帯が落ちていた。そして少年の立っていた場所には、姿形の麗しい壮年の出家が佇んでいる。
「初めてお目にかかりまする。偉大なるマガダの世継ぎの方よ」
「……これは、そなたの仕業か」
アジャータシャトル王子は帯を拾い、間近で見た。そして感嘆の声を上げる。
「素晴らしい、何という力! 私は神通を初めて見たが、これは相当なものだ。尊者はさぞ名のある方に違いあるまい。ぜひ、お聞かせ願いたい」
「ディーヴァダッタと申します。師は、ゴータマ・ブッダ」
「ああ、人に知られた世の眼である方の御弟子であられましたか」
王子が顔を輝かせて云う。
「だが、その御名を聞いたことがない。あなたほどの方が世に埋もれているとは、実に惜しいことです。私の父も仏陀を師とし、マウドガリヤーヤナ尊者を心の友としております。それでは父に倣って、私は尊者に帰依いたしましょう。さすれば、御名が広く世に知られることになるでしょうから」
ディーヴァダッタは、その申し出を受け入れた。顔には美しい笑みが浮かんでいる。
神通と幻術の区別もつかない在家の、ましてや世事に疎い少年を惑わすことなど彼にはたやすいことであった。食虫植物が甘い香りを漂わせて獲物を誘い込むように、ディーヴァダッタは王子の心を奪うことに成功した。彼は愛なる語を吐きながら毒を含み、聖者のように見えながら、内に邪心を秘めていた。そのことを知る者は、このとき誰一人いなかった。
そしてアジャータシャトル王子は、ラージャグリハの近くに僧坊を建て、日ごとに大きな車でもって衣や食の供養を行った。
このように若い外護者を得たディーヴァダッタの勢いは日を追って盛んになってゆき、彼のもとへ赴く者も出てきた。
「覚も得ておらぬというのに、ディーヴァダッタは、まるで大沙門のようだ」
「あれは精神を修めるのではなく、利養のために太子の供養を受けておるのだろう」
多くの弟子達が云い騒ぎ、これは世尊の耳にも入った。そこで彼らの師は、弟子等に云う。
「愚かの者は利養の念を本として悪を増してゆく。しかしそれは利き刀が、たちまち手足やその他の処を異にせしめるように、清い功徳の命を断ち切るものである。清い行いを修めることを忘れて、いたずらに人々を招き寄せ、自らその人々の上に立って法の主となろうと望んでも、片方に利養のためにするところがあって、涅槃を得ようとするものは、利養の思いが仇になり、涅槃を求めようとする心すら貪る心と変わらぬことになるものである。そして自らを傷い、他をも傷うて、永く悪道の果てを結ばねばならない。汝等は決してディーヴァダッタを羨んではならぬ」
このような出来事があるうちでも、釈迦牟尼世尊はラージャグリハへ托鉢に出た。そのときディーヴァダッタもまた、街中を行乞していた。
世尊は、はるか彼方にディーヴァダッタの姿を見、すぐさま立ち去ろうとした。
「何故、ここを去り給うのでありますか」
後ろに付いて来ていたアーナンダが、師へ問いかける。彼は、兄の所業は間違っていると、思っていた。
(どうして我が師は、僧伽を乱した兄者をお叱りにならぬのだろう。たとえ諭されぬまでも、この場で師の方が弟子を避ける必要など何処にあろうか)
けれども、彼の師は云った。
「ディーヴァダッタが、この街に在るから避けようと思う」
「ディーヴァダッタを恐れ給うのでありますか」
アーナンダは、あまりにも率直な答えに驚いた。
「いや、彼を恐れるのではない。悪人に遇うてはならないからである」
「それでは、ディーヴァダッタを去らせたらよいではありませぬか」
「去らすにも及ばぬ。彼の思いのままに振舞わせるがよい」
その言葉を聞いて、いかにも納得がいかないといった顔のアーナンダへ、世尊は応えた。
「アーナンダよ、愚かの人に遇うてはならぬ。愚かの人と事を共にしてはならぬ。要らぬ論議を交えてはならぬ。愚か者は自ら悪を行い正しい律に背いて、日に増し邪の見を募らせてゆくものである。ディーヴァダッタはいま利養を得て心が高ぶっている。ちょうど悪い犬を鞭打つようなもので、鞭うてば打つほど凶悪しくなってゆくだけである」
こう云ってアーナンダを連れ、他の巷で托鉢を行ったのだった。