表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/18

王舎城の悲劇(2)

 マガダ国へ着いたディーヴァダッタは、王のいとし子で十六歳になるアジャータシャトル[阿闍(あじゃ)()]王子の帰依を得ようと企てた。彼は王子の日常を調べ上げ、ある日、王宮の奥深くまで入り込んだ。そこでアジャータシャトル王子が出てくるのを、樹の陰に隠れてじっと待っていた。

 夕方、涼しくなった頃に王子が侍女たちと庭へ降りてきた。アジャータシャトル王子は、母のヴァイデヒー夫人によく似た面差しをし、利かん気の強い少年であった。侍女たちが世話を焼こうとするのだが、それを(うるさ)がり、手近にあった樹の枝を折って振り回して、追い払ってしまった。

「いつまでも童子(こども)のように扱いおって……」

 王子は憤慨のために頬を赤く染めていた。そして、不機嫌そうに周囲の木々を手にした小枝で払っている。

 そこへ、ディーヴァダッタが少年に(へん)()して姿を現した。

「何者だ」

 王子の目が険しくなった。手が止まる。

 アジャータシャトル王子は眼前の『少年』を注視した。出家姿のその少年の腰には、大きな蛇が巻きついている。

「それは、毒蛇ではないか」

 王子が叫んだ瞬間、蛇はかま首をもたげて襲いかかって来た。

(咬まれる!)

 と、観念して目を閉じた。ところが、ぱさりと軽い音がしただけであった。

 王子が両目を開けると、地面には一本の黒い帯が落ちていた。そして少年の立っていた場所には、姿形の麗しい壮年の出家が(たたず)んでいる。

「初めてお目にかかりまする。偉大なるマガダの世継ぎの方よ」

「……これは、そなたの仕業か」

 アジャータシャトル王子は帯を拾い、間近で見た。そして感嘆の声を上げる。

「素晴らしい、何という力! 私は神通(かみわざ)を初めて見たが、これは相当なものだ。尊者はさぞ名のある方に違いあるまい。ぜひ、お聞かせ願いたい」

「ディーヴァダッタと申します。師は、ゴータマ・ブッダ」

「ああ、人に知られた世の(まなこ)である方の御弟(みで)()であられましたか」

 王子が顔を輝かせて云う。

「だが、その御名を聞いたことがない。あなたほどの方が世に埋もれているとは、実に惜しいことです。私の父も仏陀を師とし、マウドガリヤーヤナ尊者を心の友としております。それでは父に倣って、私は尊者に帰依いたしましょう。さすれば、御名が広く世に知られることになるでしょうから」

 ディーヴァダッタは、その申し出を受け入れた。顔には美しい笑みが浮かんでいる。

 神通と幻術の区別もつかない在家の、ましてや世事に疎い少年を惑わすことなど彼にはたやすいことであった。食虫植物が甘い香りを漂わせて獲物を誘い込むように、ディーヴァダッタは王子の心を奪うことに成功した。彼は愛なる(ことば)を吐きながら毒を含み、聖者のように見えながら、内に邪心を秘めていた。そのことを知る者は、このとき誰一人いなかった。

 そしてアジャータシャトル王子は、ラージャグリハの近くに僧坊を建て、日ごとに大きな車でもって衣や(かて)供養(みつぎ)を行った。

 このように若い()護者(もりて)を得たディーヴァダッタの勢いは日を追って盛んになってゆき、彼のもとへ赴く者も出てきた。

(さとり)も得ておらぬというのに、ディーヴァダッタは、まるで大沙門のようだ」

「あれは精神(こころ)を修めるのではなく、()(うけ)のために太子の供養を受けておるのだろう」

 多くの弟子達が云い騒ぎ、これは世尊の耳にも入った。そこで彼らの師は、弟子等に云う。

「愚かの者は利養の(おもい)(もと)として悪を増してゆく。しかしそれは()き刀が、たちまち手足やその他の(ところ)(こと)にせしめるように、清い功徳の命を断ち切るものである。清い行いを修めることを忘れて、いたずらに人々を招き寄せ、自らその人々の上に立って法の(ぬし)となろうと望んでも、片方に利養のためにするところがあって、涅槃を得ようとするものは、利養の思いが(あだ)になり、涅槃を求めようとする心すら(むさぼ)る心と変わらぬことになるものである。そして自らを(そこな)い、(ひと)をも(そこの)うて、永く悪道の果てを結ばねばならない。(おんみ)等は決してディーヴァダッタを(うらや)んではならぬ」

 このような出来事があるうちでも、釈迦牟尼世尊はラージャグリハへ托鉢に出た。そのときディーヴァダッタもまた、街中(まちなか)行乞(こいあるき)していた。

 世尊は、はるか彼方にディーヴァダッタの姿を見、すぐさま立ち去ろうとした。

何故(なにゆえ)、ここを去り給うのでありますか」

 後ろに付いて来ていたアーナンダが、師へ問いかける。彼は、兄の所業は間違っていると、思っていた。

(どうして我が師は、僧伽を乱した兄者をお叱りにならぬのだろう。たとえ諭されぬまでも、この場で師の方が弟子を避ける必要など何処(どこ)にあろうか)

 けれども、彼の師は云った。

「ディーヴァダッタが、この街に()るから避けようと思う」

「ディーヴァダッタを恐れ給うのでありますか」

 アーナンダは、あまりにも率直な答えに驚いた。

「いや、彼を恐れるのではない。悪人に()うてはならないからである」

「それでは、ディーヴァダッタを去らせたらよいではありませぬか」

「去らすにも及ばぬ。彼の思いのままに振舞わせるがよい」

 その言葉を聞いて、いかにも納得がいかないといった顔のアーナンダへ、世尊は応えた。

「アーナンダよ、愚かの人に()うてはならぬ。愚かの人と事を共にしてはならぬ。要らぬ論議を交えてはならぬ。愚か者は自ら悪を行い正しい(おきて)に背いて、日に増し(よこしま)(かんがえ)を募らせてゆくものである。ディーヴァダッタはいま()(うけ)を得て心が高ぶっている。ちょうど悪い犬を鞭打つようなもので、鞭うてば打つほど凶悪(あらあら)しくなってゆくだけである」

 こう云ってアーナンダを連れ、他の(まち)で托鉢を行ったのだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ