迦維羅城の滅亡(6)ー1
そのころ、コーサラ国ではヴィドーダバ[毘瑠璃]王子が王としての名乗りを挙げていた。王章を盗ったディーガは、同じくパセーナディ王を怨んでいたこの王子のもとへ走ったのだった。
「これで復讐が出来る!」
王子は高らかに笑った。このとき十九歳、早くから勇猛さを認められ、父王の下で国の守りを担っていた。軍勢を掌握し、いま王のしるしを手にした彼に刃向かおうとするものはなかった。
彼の母はシャーキャ族の王マハーナーマの娘であった。パセーナディ王は仏陀に帰依したのち、より繋がりを深くしようと考えて、カピラヴァストウ(迦維羅城)へ使いをやり、女を求めさせた。
強国コーサラの使者を迎えたシャーキャ族の人々は公会堂に集まり相談した。
「我らはコーサラ国の命令が行われるところに住んでいる。もし若い女を与えなければ大きな怨みをかうことになろう。だが、もし与えると筋目の正しくない王の家系と縁戚となり、我らの族統が破壊される。……では、いかにしたら良いであろう」
上手い考えが出なかった。そのうちに一人が云った。
「……ナーガムンダーの娘を与えればよい」
「何をいうか」
マハーナーマが驚いた。
「あれは侍女との間に出来た子で、正嫡のシャーキャ族の娘とはいえぬ」
「だが、王の娘であることに変わりはない。……なに、母がシュードラ(隷民)であることなど黙っておれば良いこと。これならば、我らの族統も汚されず、コーサラの王も希望通りシャーキャ族の若い女を手に入れることになる。双方にとって善いことであろう」
この意見に、一族の者たちはみな喜んで賛同した。
「もし真実が王に知れたら、そのときの怒りは計り知れぬ」
危惧するマハーナーマの声はかき消され、王たる彼も一族の者たちの総意には従わざるを得なかった。
マハーナーマは侍女ナーガムンダーとの間に出来た娘、ヴァーサバ・カッティヤーを呼んで総てを語り、食事を共にした。コーサラの使者はその様子を垣間見て、まさに王家の姫であると心安め帰っていった。
ヴァーサバ・カッティヤーは物静かで優しい娘であった。コーサラに嫁ぐと、心を込めて王に尽くし、やがてヴィドーダバ王子が生まれた。
王子は慈しみ育てられ、八歳になったときシャーキャ族が得意とする射術を学ぶためにカピラヴァストウへ送られた。そこでは祖父のマハーナーマの宮に住んでいたのだが、ある日、仲間と公会堂に入って遊んでいたところ、一人の婢が罵って彼をそこから追い出した。
「これがヴァーサバ・カッティヤーという婢女の倅が坐った腰掛だ」
と、女は聖なる牛乳を混ぜた水で王子が坐ったところを洗い清めた。
「我が母は、卑しいシュードラであったのか!」
恥辱のあまり怒りで顔を赤くした王子は宮へ駆け戻り、祖父へ問いただした。
「許されよ、王子……」
マハーナーマは幼い孫の前に両膝をつき、頭を垂れた。
「すべて、この祖父が悪いのだ……」
「では、真なのか……。偉大なるコーサラの王子である我に皆が軽侮の眼を向けるのは、このためか!」
カピラヴァストウへ来てから人々の視線が白々しく冷たいものであったのを、王子は改めて思った。
(洗うがいい。我が王位についたときには、あやつらの喉首の血を絞り取って、我が坐っていた腰掛を洗い清めてやる!)
すぐさま王子はシュラーヴァスティーの王宮へ戻ったが、真実を知ったパセーナディ王は妃と王子に対する尊敬をやめてしまい、シュードラにふさわしい待遇へと二人を落とした。
このことを知った世尊は、王へ云った。
「大王よ、シャーキャ族が為したことは、まことによろしくない。与えるのなら正嫡の女を与えるべきでした。しかし申し述べるなら、ヴァーサバ・カッティヤーは王女であり、クシャトリヤの一族の王の邸で灌頂を受けた者、ヴィドーダバはクシャトリヤの一族の王によって生まれた者。『母の姓が何になろう、父の姓こそ標準である』と古の賢者の言葉もあります」
そういって王には、貧しい薪拾いの娘が国王の妃となり、生まれた王子がやがて王位を継いだという採薪女本生譚を話して聞かせた。
パセーナディ王はその法話を聞いて、
「まこと、父の姓こそ標準である」
と、喜び、母子に対する待遇を元通りにした。だが、ヴァーサバ・カッティヤーは心労から病の身となって世を去り、母を喪ったヴィドーダバ王子の心には怨みが深く刻み込まれた。
(何故、我ら母子がこのように惨めでつらく悲しい目に遭わねばならぬのだ)
王子は、母の遺骸を前にして思う。
(母上が何をしたというのか……。ただ、クシャトリヤとシュードラの間に生まれただけである。これもすべて、前世の悪業の報いというのか。善き行いには善い結果が、悪き行いには悪き結果がと、沙門たちは教えるが、それを証明したものがいるのか。世には悪行を為しながら栄える者あり、善き人が苦しく無残な生を過ごしている……)
彼は涙を振り払った。
(私は……私をこの身に生まれさせた宿命を呪う。私を辱めたシャーキャ族を呪って、決して許さぬ。そして必ずや、この身に流れるシャーキャの血を根絶やしにしてくれる……)
そして王子は、一人のバラモンにこの怨を日に三度詠わせて、怒りを新たにした。
かくして王位を奪ったヴィドーダバ王子は、今こそ時至れりと臣達を集め、尋ねた。
「いま、民の主人は誰であるか」
王座の前に立ち、パセーナディ王によく似た顔でもってあたりを睥睨する彼を、諌めようとする者は誰もいない。
「もとより……」
大臣がおずおずと云った。
「……大王にまします」
「それでは四部の兵を集めよ。今よりカピラヴァストウを攻め取ろうと思う」
王の命によって兵士が集められ、シャーキャ族の都カピラヴァストウへ向かって軍勢が進み始めた。
その途中、ヴィドーダバ王はひとりの沙門が枯れて枝も葉もない樹の下に坐っているのを見つけた。
「大王よ、あれはシャーキャ族の聖者、ゴータマ・ブッダであります」
近侍の者が王へ告げると、この高名な大沙門を無視するわけにもいかず、ヴィドーダバ王は四軍の歩みを止め、乗っていた象の背から降りて近づいていった。
そして出家に対する礼に従って拝したのち、云った。
「大徳よ、尼拘盧陀の樹などの枝葉の生え茂った樹があたりに沢山ありますのに、何故このような枯れた樹の下に御坐りなされて居られるのですか」
「王よ」
世尊はいつものような静かな口調で応えた。
「……親族の蔭は涼しいものである」
このように云われて、ふいに彼は未だ何も知らず父母の愛に包まれていた幸福な時間を、懐かしさと安らぎと共に思い出した。
(師を起こすのをやめよと、申されるのか)
常にヴィドーダバ王の心中にあった怒りの炎は今、静まっている。
そして世尊の意中を察した王は軍を返し、シュラーヴァスティーへと戻っていった。けれども以前から怨みの歌を詠うように言いつけられていたバラモンはそれを忘れず、怨みの歌を日に三度詠って王の心を呼び起こした。
このため王はまた、兵を動かしてカピラヴァストウへ向かった。しかし今度も枯れ樹の下に釈迦牟尼世尊の姿を見たので、車を廻らし、都へと帰っていった。
ところが、それでも怨みを忘れることが出来なかったヴィドーダバ王はしばらくしてから今一度、軍を整え、シャーキャ族を襲おうと北へ向かった。このときもまた、世尊が姿を現して軍勢を止め、結局同じことが三たび繰り返された。
けれども四度目に王がコーサラ軍を進めたときは、世尊も宿縁のとどめ難いことを知り、静かに法を観べて精舎に止まったのであった。
そして今度こそ何の障害もなく、コーサラからの大軍がカピラヴァストウへ向かう。近隣の町の人々は息を潜めて、その様子を見つめていた。
シャーキャ族は弓の術に優れていた。しかしこのとき、コーサラの軍勢を迎えて矢を射かけるのだが、それは耳をそぎ、または髻を射、弓と弓弦を射て射手をひるませるのみで、一人の生命も取るようなことはなかった。この頃には一族の間に仏陀の不殺の教えが浸透していたため、彼らは人を殺す事に躊躇したのだった。
「さすが射術に優れた民である。なかなか手強い」
と、歳若いヴィドーダバ王が恐れをなし、兵を退こうとする気配を見せたとき、件のバラモンが怨みの歌を詠った。
「シャーキャ族の人達はみな戒行をたもち、虫でも殺さないのであるから、今、退かずに進みさえしたら、必ず勝つでありましょう。また、この機会を失ったならば、シャーキャ族を滅ぼすときはありませぬ」
王の傍近くにいたバラモンも、進言する。
ヴィドーダバ王はそれによって考えを変え、全軍に進むよう命じた。
一方、シャーキャ族の人々は城内に退いて門を固く閉じ、護るのみであった。
「開けよ! もし門を開かねば、一族を皆殺しにしようぞ!」
城壁の外で、ヴィドーダバ王が呼ばわる。
すると鎧を着け、剣を手にした若武者が一人、カピラヴァストウの大門から出てきた。
「コーサラの王よ、我と戦え!」
彼は恐れ気もなく、大国の王に一騎打ちを申し込んだ。それは、サーマという少年であった。
サーマは荒れ狂う魔王のように剣を振るってコーサラ兵をなぎ倒し、ヴィドーダバ王へ迫った。
ところが王は、少年の勢いに向かいかねて逃げ出した。
「待たぬか、卑怯者!」
サーマは血刀を振り回しながら、なおも追おうとした。けれども、
「行くな、サーマ」
と、それを長老たちの意を受けた仲間に止められ、城内へ呼び戻されてしまった。
一族の長老たちの前へやってきたサーマは、悔しそうに口元を歪めて云う。
「何故、戻れと申されたのですか。このまま殺されるおつもりか!」
怒るサーマを長老たちが叱りつけた。
「そなたは年若うして何ゆえに家門を辱めるのであるか。シャーキャ族のものはすべてみな善きことを行い、虫の命さえも取らないのである。もとよりヴィドーダバ王の軍勢を破ることは容易いことであるが、多くの人々を殺すことを恐れるのである。私達の仏陀は殺すなかれと教え給い殺生の苦の果てが地獄に堕ちるか、人間に生まれても寿命が極めて短いことを教え給うたではないか。そなたはこの家門の掟を破ったのである。城を出て、何処になりとも去るがよい」
その言葉に当惑し、唖然としているサーマへ長老たちは重ねて出て行くように云った。
サーマは周囲の人々を見回した。誰も彼を庇ってくれなかったが、みなその目は『逃げよ』と云っている。
結局、サーマは追放され、夜目に紛れてカピラヴァストウを去っていった。
翌日もヴィドーダバ王は城門の間近に来て叫ぶ。
「この門を開けよ! 素直に開ければ、何も争いを好むものではない。もし城入りを許さなければ、武力によって門を破り、一族を皆殺しにしようぞ」
(これほどの大軍を率いてきて、何もせずに終わるはずがない)
シャーキャ族の人々は王の言葉を信じなかった。都の大門を固く閉めて中に籠もり、コーサラの軍が諦めて去っていくのをひたすら待っていた。
ところがこの緊張と恐怖に耐えられなくなった者が、さかんに開門を言い張り始めた。
「門を開けようではないか。開ければ皆殺しにはせぬと王は云っている。大国の、それも灌頂を受けた王が嘘をつくようなことはあるまい」と。
これに初めは反対していた者たちも次第に心が動き、多くの人が言い立てるようになったので結局、城門を開くことになった。
鉄の都門が、十人の男たちの手によってゆっくりと開かれる。コーサラの王を出迎えようと並んで待っていた長老たちが見たのは、陽にきらめく刃であった。
老人たちは悲鳴を上げる間もなく、血まみれの骸となって地面に打ち倒された。
やはりコーサラ王の語は虚言であった。




