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迦維羅城の滅亡(1)ー3 不殺の教え

(世尊のお言葉があったればこそ、(わたくし)の姫は我が君に慈しまれている……。(まこと)(わたくし)は恵まれている)

 マッリカー夫人は小さなため息をついた。そして彼方に()ますであろう仏に向かって誓った。

(わたくし)はおそらく前生(まえのよ)で怒りやすい、すねた小さな心の女であったのでしょう。それゆえ、今は醜いものと生まれました。しかし幸いに出家(よすてびと)に御供養することを好み、他人(ひと)の持ち物に対して(ねた)みを起こすことがなかったために、富み栄えて自由の利く者となりました。(わたくし)は今、王宮の内に数多の侍女たちを召し使うておりますが、今日より後は優しく何事にも腹を立てず(つつし)みましょう。また、出家(よすてびと)に御供養し、他人(ひと)(ねた)みそねまぬようにいたしましょう)

 そうして妃が清々しい心持ちとなっていたとき、下の方で大きな物音がし、何かが割れる音がした。

 侍女の一人が、そそうをしたようだった。叱責の声に対して、自分は悪くないと、必死に弁解している。

 このときマッリカー夫人の胸中に、ある疑問が湧き起こった。

「妃よ、そこで何をしておるのだ」

 王の声がした。

 いつの間にかパセーナディ王がその大きな体を揺すりながら高楼へと上ってきていた。

 夫人は振り返り、にっこりと微笑んだ。それにつられてパセーナディ王も笑みを浮かべた。常に厳しい顔をしているコーサラの王も、妃へ向かう眼差しはこの上なく優しかった。マッリカー夫人は王にとって、教えについても(まつりごと)についても対等か、あるいはそれ以上に語ることが出来る相手であった。また話が上手く、この妃といると飽きることがなかった。

「……街を見ておりました」

 マッリカー夫人は駆け寄り、王の右手を取って両の掌で包み込むように、そっと握った。パセーナディ王も妃の手の上へ自分の左手を愛しげに重ねる。

 ふたりは並んで立ち、夕暮れの闇の中へ沈んでゆくシュラーヴァスティーの街並みを眺めていた。

 そのとき、ふと王が妃を顧みて云った。

「マッリカーよ、そなたは自分自身よりも愛しいものを考えることが出来るだろうか?」

 一呼吸(ひとこきゅう)置いたのち、夫人が答える。

「我が君、(わたくし)には(おのれ)自身よりも愛しいものなど、考えることは出来ませぬ」

 マッリカー夫人は、先ほどそそうをした侍女のことを思った。罰を受けると解っているがため、容易に自分の罪を認めない、その我が身大事の態度。そして、振り返って自分の心の奥底をもさらって考えてみた。(わたくし)はどうであろう、侍女のようなささいな事ではなく、殺されるかもしれぬという場に直面したとき、どのような行為をするであろう。他人のために身を投げ出すことが出来るだろうか、それとも他に罪をなすりつけて逃げるのだろうか。

 マッリカー夫人は王へ問い返した。

「我が君には、なおご自身よりも、もっと愛しいものがお有りでしょうか」

 パセーナディ王も考え込んだ。王は最愛の妃の返答に不満だったが、よくよく自分の心を観察してみると、同じ答えに達したのだった。

「マッリカーよ、私にとっても自分よりさらに愛しいものは存在しない」

 そう云ったものの、王はさらなる疑問を持った。

(しかしこの考え方は、はたして世尊の御教(みおし)えに(かな)っているのだろうか)

 疑いを持ったら、矢も盾も(たま)らなくなった。王は高楼を下ってすぐさま祇園精舎へと赴いた。そこで師に向かい、妃との問答の一部始終を話した。

 世尊はすべてを聞き終わると、深く頷く。そして(うた)として語った。

「人の思いは何処(どこ)にでも飛んでいくことが出来る。

 だが、何処(どこ)に飛んでゆこうとも、

 (おのれ)より愛しきものを見つけ出すことは出来ない。

 同じく、他の人々にも自己はこよなく愛しい。

 されば、(おのれ)の愛しいことを知るものは、

 他の人々を(そこの)うてはならぬ」と。

 この世尊の(ことば)を王から聞いたマッリカー夫人は感激する一方、王の心を(おもんばか)った。

(我が君は武人(クシャトリヤ)として、また国王として、重い罪を犯した者の処刑を命じなくてはならぬ御立場であり、戦ともなれば人を殺さなくてはならない。その御方が、不殺(アヒムサー)の教えを受けられるとは……。いえ、むしろ罪深い我が身をよくご存知だからこそ、仏の御教(みおし)えを尊び、その道をゆこうと努力されているのでありましょうか)

 矛盾を含み、複雑なのが人であると、マッリカー夫人は知っていた。





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