迦維羅城の滅亡(1)ー2
急に西の宮門が騒がしくなった。そのうちに、家臣を引き連れたパセーナディ[波斯匿]王が騎乗したまま宮殿の中へ入ってきた。
コーサラ国の王パセーナディは武勇に優れ、智者として知られていたが、大食漢で気まぐれという欠点もあった。しかし王は、良き助言者に恵まれていた。宰相ムリガダラ、高官のディーガ・カーラーヤナ、王妃マッリカー[末利夫人]である。なかでもマッリカー夫人は公私ともに良き相談相手であり、王の心の拠り所ともいえる存在だった。彼女は貧しい花輪職人の娘として生まれたが、聡明さから王に見い出され、後宮へ入った。
王の最愛の人となったマッリカー妃はその名の通り、白く香り高い茉莉花のような可憐な女性であった。心優しいだけでなく、芯の強さもあり、王が無実の人を多く処刑しようとしたとき、説得したことがあった。遊行者のための園林を整えたりなどして信仰心も篤く、パセーナディ王が仏陀に帰依すると彼女もまた良き信者となった。
(……追捕を終えて戻られたのですね)
高楼にいるマッリカー夫人は思った。
各地から人が多く集まるシュラーヴァスティーには盗賊も数多横行し、王を悩ましていた。
(お口を曲げていかにもご機嫌が悪そう……。首尾の方はよろしくなかったご様子です)
妃は愛しげに王を見て、微笑んだ。
(外見からあの方を恐ろしく思っている者が多いけれど、真実はとてもお優しい。先に太后さまが亡くなられた際など、そのお嘆きが少しでも和らぐようにと、宰相どのが一計を案じられたほど……)
パセーナディ王は早くに母を亡くし、そのため母代わりとなった祖母君には特に孝心が厚く、百歳を超えた彼女に仕えることを楽しみとしていた。けれども王が不在のとき、太后は朽木が倒れるように俄に逝去したのだった。
そのとき、宰相ムリガダラは思った。
(大王はその愛しておられた太后の突然の死を聞かれたら、どれほど悲しまれるであろう。これは何か手立てを用いて、大王の受けられる悲しみを薄らぐようにせねばならぬ)
彼は数多の象や馬や馬車を整え、それへ多くの宝物と妓女を乗せて幢幡を立て、樂を鳴らし、からの棺をそれらで囲んで城外へと出した。そして出掛けている王の一行が戻ってくる途中で遇うように計画した。
やがて帰ってきたパセーナディ王はこの様子を見て、出迎えのために側へ寄ってきていたムリガダラへ訊いた。
「これは誰の供養であるのか」
「大王よ」
ムリガダラは恭しく答える。
「街の長者の何某の母が死んだので、そのためであります」
「これらの象や馬や車は何のためなのか」
「象も馬も車もおのおの五百頭宛ありますが、これをヤーマ(閻魔)王に送って、母の生命を購おうと云うのです」
「愚かなことを。生命は留めることも出来なければ、購うことも出来ぬ。鰐の口に落ちれば必ず命がないように、ヤーマ王の手に入れば逃れることの出来るものではない」
「妓女も五百人おりますが、これと交換に生命を購いたいと云うのです」
「妓女も宝物も何の役にも立たぬ」
「それではバラモンの呪いにより、または優れた沙門の力によって、購いたいと云うのです」
これを聞くと、王は笑った。
「それは皆、愚か者の考えである。一度、鰐の口へ入れば、出ることはできない。生あるものに死のあることは決まりきったことで、仏の御説きなされることに、少しの間違いもないではないか」
そのときムリガダラは王の前に跪き、言上した。
「大王よ、仰せの如く生きとし生けるものは皆、死ぬものであります。何卒、あまり強くお嘆きなされぬようお願い申し上げます。大王よ……太后は今日、崩御になりました」
「ああ、ムリガダラよ」
パセーナディ王はその報せに驚き、また嘆き悲しんで吐息を洩らしていたが、やがて云った。
「善いかな、ムリガダラよ、汝は巧みな手段を以って、私の心の破れを防いだ。汝は真に方便を知るものである」
王は香や花や燈明を捧げて太后を供養し、日中ではあったが直ちに祇園精舎の世尊を訪ねた。
「大王よ、この日中に何処から参られた」
釈迦牟尼世尊が訊く。それへ、パセーナディ王は嘆息しながら答えた。
「世尊、私の祖母が今日、亡くなりました。年老いて衰えてはいましたが、百二十歳でありました。私はこの祖母を愛で好いていたので、もし我が家を与えて祖母の死が購われるものであるならば、喜んで我が王家を与え、駿馬や乗り物や宝物や城郭や、ないしはカーシーの国を与えて、祖母の生命が取りとめられるものならば、私は喜んでそれらを差し出したことでしょう。しかしながら、誠に世尊がいつも仰せられますように、あらゆる生きとし生けるものは死ぬべきものであり、必ず滅亡に行くものなのです。何ともいたしようがないことであります」
「大王よ、仰せのように、あらゆる生き者は皆死に、必ず滅びる。ちょうど陶器が素焼きのものでも、薬焼きのものでも、必ず一度は壊れると同じように」
そして世尊は偈をうたった。
「なべて生あるものは皆、死に行けり、生命は皆、死をば終わりとすればなり。
かれら業に従いて、功徳の果と、罪の報いを受くるなり。
悪しきをなせるは地獄へ、徳を積めるは天界へ。
されば善きこと行いて、後の世にこそ備えかし。
げにや功徳は人々の、来世の寄る辺とぞなれ」
(そういえばあのとき……長く看護されていた妹君のスマナーさまは、葬儀のあとに出家されたのだった。まことに我が君だけでなく、そのお身内も情の深い方々である。そして我が君と一の大臣どのは、良い音が響きあう間柄だこと)
マッリカー夫人は大臣のとぼけたさまを思い浮かべると、ひとりでに笑みがこぼれてしまう。ムリガダラ宰相は小太りで風采の上がらない容貌をしていた。けれども、気まぐれな王の心を捕えて善き政を行う賢臣であった。この強国コーサラが面目を保っているのは、彼の力が大きく与っていた。
(でも人から畏れられる我が君が、世尊にはまるで幼児が親に甘えるように何かと相談されにゆく。妾より二十以上も年上であられるのに、そういうところは、ほんに可愛いらしい方……)
さらにマッリカー夫人は、ある出来事を思い出して、ついひとり笑いをしてしまった。
それは以前のことである。
パセーナディ王は仏陀の教えを聴くのを楽しみとしていた。その日も一ドーナ(大量)の飯とそれに相応する汁物を食べたあと、祇園精舎へやってきた。王は大食のために、たいそう肥えており、両脇から侍者が煽いでいても汗の粒が絶え間なく盛り上がり、たらたらと流れていた。そして師に挨拶をすると、大きく息をついた。
世尊はその様子を見て、偈を説いた。
「人は自らよく考慮して、
量を知りて食を摂るべし。
さすれば、苦しみも少なく、
老いること遅く、寿を保つことならん」
これを聞いて、ふむと王は考えた。
そして背後に侍していた若いヴェーダ学生のスダッサナに云った。
「スダッサナよ、汝は世尊のこの偈を暗記して、私の食事のときに唱えよ。私は汝に毎日の手当てとして百銭ずつ与えよう」
そこでスダッサナはコーサラ国王の食事のときごとに、世尊の偈を唱えた。するとパセーナディ王は少しずつ食べ物の量を減らしていき、ついには一つの管に入るほど微量の一ナーリカの飯だけに制限するようになった。
食事を適量摂るようになった王は健やかになり、手で身体を撫でて、感嘆した。
「世尊は、二つの利をもって私をあわれんで下さった。目の当たりに見る現世の利と、勤め励むという来世の利とで」
(まこと世の眼たるあの御方の言葉に間違いはない。世尊は妾をもあわれんで下さった……)
マッリカー夫人は感謝の眼差しで祇園精舎の方を見やった。
妃が姫を産んだとき、祇園精舎にいたパセーナディ王はその報を聞いて喜ばなかった。
(王女など、婚資をつけて嫁にやるだけで、役にも立たぬ。王子であれば、妃の賢さを受け継いだ立派な跡継ぎとなったものを)
王の心中が知れたものか、そのとき世尊は偈を唱えた。
「大王よ、女人といえども、ある者は男より勝る。
聡明にして戒めを保ち、姑を敬い、夫に忠実なるもの。
彼の者が生みし男子は健き人となり、地上の主となる。
かくの如き良き女人の子は、一国をも教え導く」と。




