王舎城の悲劇(1)
雪山を源とする恒河は、ジャンブー州[インド]を西から東へとゆるやかに流れている。それはデリーを経てヤムナー川とヴァンサ国の都コーサンビー近くで合流し、カーシー国のベナレスを通った後、マガダの耕地を潤していた。
聖なる河の恵みを受けた大地には緑の野が広がり、マガダ国は穀物に満ち充ちていた。作物が豊かであるため値が安く、それを目当てにこの国には商人、遊行者など、さまざまな人達が集まった。
さらに平原の中で頭を廻らせば、唯一そびえる山々を目にすることが出来る。連山からは、武器の製造に必要な鉄や銅、またその他の貴重な金属を多量に産出し、それは豊かな穀物と共にマガダを強国と為していた。
マガダ国の都ラージャグリハ[王舎城]は、山中に在る。連山に囲まれた城内が人々の生命の熱気であふれる一方、郊外の静かな森には、〈温泉の園〉、マッダクッチという名の〈鹿の園〉、そして釈迦牟尼世尊に捧げられた竹林園栗鼠飼育所等々の、出家遊行者のための園林が数多く設けられていた。
世尊の弟子達は各地を巡り、雨期の安居にはこれらの園林に滞在し、また霊鷲山[鷲の峰]などの山中で修行をしながら、覚を求めて歳月を送っていた。その中に、ディーヴァダッタ[提婆達多]もいる。
沙門となって黄衣を身に着けたとき、紅顔の少年であった彼も出家の生活を続け三十年を経て、すでに四十の半ばを過ぎていた。
(我が師が成道を為した年齢より、私は十も年上となってしまった……)
水面に映る自分の姿を見るにつけ、ディーヴァダッタは暗澹たる想いに囚われる。
他より優れた者であると自負していた。それなのに同時期に出家したバッデヤ、ウパーリは既に覚を得、愚か者と軽蔑していたチューダパンタカもまた阿羅漢となった。彼が取るに足らぬと思っていた者どもが次々と聖者と成り、人々の崇敬を受けている。
誇り高いディーヴァダッタには、耐えられない現実であった。それでも彼は、釈迦牟尼世尊の弟子であり続けた。
この年は久しく雨が降らなかった。そのため稲が枯れ、不作となったために弟子達は食を乞うのに窮することとなった。
食べ物がわずかしか得られず、皆がひもじい思いをする中で、勝れた弟子は別として多くの者たちは不平を云った。
(このようなときこそ、神通力があればよいのに)
ディーヴァダッタは同朋が苦しむのを見て思い、師のもとへ赴いて、神通を得る道を授け給うようにと願った。
「ディーヴァダッタよ」
世尊は柔らかなまなざしを彼に向けて云う。
「神通を獲ることを求めるよりは、無常、苦、空、無我の理を思うがよい」
と、その願いを斥けた。
(何故、教えて下さらぬのだ。同朋を助けるために使うのに、どこが悪いというのだ。それとも、私だから駄目なのか)
ディーヴァダッタは師の心とその言葉の意味を理解できず、邪推して恨みの想いを持った。
(気に入りのシャーリプトラやマウドガリヤーヤナならば良いのか。あれらが二百五十人もの弟子を連れて来たからか。なるほど、我が師の教えは他より勝れておる。けれども、それを学ぶ者は、実に雑多だ)
ディーヴァダッタの見るところ、釈迦牟尼世尊の弟子達は、カーシャパ兄弟に従ってきた者、シャーリプトラらと共にサンジャヤの下から別れた者、シャーキャ族出身の者、そして他のさまざまな階層出身の者たちという四つの集団に分けられるようであった。
(僧伽の中で一番人数が多いのは老カーシャパ兄弟の弟子たちだが、頭となるウルヴェーラ・カーシャパが亡くなってからは勢いがない。それよりも次に多いサンジャヤの弟子たちがやっかいだ。仏陀の教えにサンジャヤの考えを混ぜておる。だが、世尊はそれを知っておりながら、咎めようともしない)
実際のところ、ゴータマ・ブッダの教えはサンジャヤの不可知論に近い部分もあったが、さらにそれを超えたものであった。しかしディーヴァダッタにはこの事実が解らず、僧伽の人間関係と教義のことを混同した上さらに誤解もし、不満を募らせていった。彼の師が、最終的に覚へ至ればよいという立場であったのに対して、ディーヴァダッタは沙門の集団としての規律を重くみ、精神の在り様よりも形に囚われていた。
(私ならもっと上手く、この人々を統率できるはずだ)
彼は僧伽が乱れていると感じていた。
その夏、釈迦牟尼世尊は弟子たちを伴ってコーサンビーに赴き、そこで安居を過ごした。
シャーリプトラ、マウドガリヤーヤナ、アニルッダ、アーナンダ等の弟子たちは互いに睦まじく道を語り合うのを常としていた。ところがディーヴァダッタは、その人達の輪の中に、自分の居場所がないように思われた。
(彼らは私をうとんじているのではないか)
事実はそうでなかった。しかし疑心が、黒雲のように広がっていく。
シャーリプトラ、マウドガリヤーヤナの態度は、よそよそしいように感じ、同族であるアニルッダも向こうをむいたままであった。そしてアーナンダは兄の自分を無視して、彼らの話をにこやかに聞いている。
(空しい……)
多勢の中に在っても、ディーヴァダッタは孤独だった。
彼はひとりその場を離れ、ラージャグリハへと歩み去った。