EPISODE VII ALL YOU NEED IS MEMORIES
Ⅰ
ノース•幅戸
彼は、私にとって大学時代の唯一の友達であり親友だった。私は、彼の様な研究者をこれまで見たことが、いや、知らなかった。
神解大学医学部三回生に籍を置いていた時に知り合い、私がすっかり彼の研究に魅せられてしまったのだ。小柄で金髪、やけに痩せ細り、邪悪なあの吸い込まれる様な碧い眼に屈従したのだった。
「人間の生命を進化させる研究」の片棒を担ぐ羽目になった。医学部長の安藤博士を説得しようとしたが余りにも危険だと安藤博士や、他の教授達に止められた。
大学側と対立を深めたノースは、大学でやらなければいいだけだと私に言って、唖々噛對から少し離れた場所にある町、玉重で小さな診療所の廃屋を研究所としてと使い始めた。大学卒業後、私は彼と共にあの悍ましい研究を続ける事になった。その小さな診療所で彼は、死体を蘇らせる研究していたのだ。
「死んだばかりの新鮮な死体、防腐処理が施されていない死体が必要だ」そう私に述べた彼の澱んだ狂気の碧い瞳に私は逆らえなかった。数多のあらゆる動物や昆虫を殺し、色々な種類の爬虫類やプラナリアの様な不死に近い生物から抽出した溶液を、死んだばかりの新鮮な死体に注入すれば爬虫類の皮膚組織が再生する。
蜥蜴の尻尾切りの様な原理で人間の皮膚組織や手足を再生出来るようになる事を彼は、信じて疑わなかった。彼の厄介な要求は次々にエスカレートしていったのだった。大学経由で入手した死体に何度も試したが結果は特に出なかった。
ノースは、死体の鮮度が損なわれていて防腐処理のせいで結果が出ないと私に吐き捨て、用済みの死体を二人で何度も焼却炉にぶち込んだ。
そして、二人で研究を始めて三年が経った頃、研究所からすぐ近くの建設現場で事故があり、身寄りのない作業員の新鮮な死体が手に入る事になった。その連絡を受けた彼は、興奮気味に、
「漸く実験が出来る、膠着した研究状況が進捗するぞ」と私の肩を叩いて、すぐさまその死体を引き取りに向かった。
「素晴らしい」彼は、死体になった若い作業員の死体を見て思わず呟いた。死体回収に協力的だった建設現場関係者の怪訝な顔が忘れられない。医者の卵が解剖の練習にでも使うつもりだろうとしか思ってなかった関係者達。
遺体の譲渡に立ち会った者達にこれ以上いらぬ疑念を抱かせないために、私が警察や救急車を呼ばすに事故を隠蔽しようとしている関係者達に、一芝居打って無事に死体を回収してきたのだ。若々しい死んだばかりの作業員の死体を二人で診療所の手術台に乗せた。
LEDの強力な明かりに照らされたその死体はまだ眠っているかの様な表情に私には見えた。私は、少し緊張し、焦りに苛まれたが、ノースは、入念に調合された溶液を大量に死体の血管に注入した。
死体に反応は特に診られなかった、彼と私は落胆したが、やるだけやったので、しこたま酒を煽ってから眠りについた。
「ぐうぅぅぇぉうおぉぉぇぁあー」
男の苦痛に抗うような叫び声で私達は目覚めた。急いで手術台のある部屋に駆けつけた私達の前には、爬虫類の様なザラザラした赤黒く変色した皮膚に、自我を失った化け物に変わり果てた男が、苦痛に床の上をのた打ち回っていた。
暫くその様子を二人で驚嘆し観察していたが、化け物はそのまま黒い血液を口から床にぶちまけながら息絶えて絶命してしまった。
ノースは、眉間に皺を寄せ残念そうに化け物の遺体を見ていたが、ギラギラと輝く碧眼に、彼のニチャリと左側の口角を上げた凶々しい表情を、私は忘れる事はない。
──────ハワード•愛作手記
Ⅱ
白い壁に囲まれた部屋。コンクリートの床が冷たく、肌に張り付く。ブロックを積み上げた塀だろうか。中央には、フォトパネル。暗い目をした母と、何かを企んでいるような父の、いかにも不吉な肖像画だ。幼い頃の自分。真顔で、両親に挟まれている。手を伸ばそうとした瞬間、白い壁が蠢き始めた。無数の黒い手が、私を掴みにかかる。
「ユーコさん!ユーコさん!」
鋭い声が、ユーコ•那加毛を現実に引き戻す。運転席の片田が、ルームミラー越しにこちらを見ている。
「あ、ごめん、どうしたの?」
「着きましたよ」
玉重。この町には、悪夢が住んでいる。公安が追うシリアルキラー、苦留賀。三十七人の命を奪った怪物。そして、その男が最後に姿を消した場所、ノース診療所。廃墟となったその建物が、今、ユーコ達の目の前に広がっている。
「もう誰も出入りしてないはずよ、ただの廃墟」
スマホのディスプレイから視線を外さずにユーコが答えた。
「ユーコさん、どうしてここに?」
「田島ひろし、覚えてる?あんたがバスターライフルでぶっ飛ばした奴」
「ああ、神解公園辺りで殺しまくってた奴ですね」
「そう、田島があんたにぶっ飛ばされる前に玉重の診療所でどうのこうのって言ってたんだけど、調べたけど玉重に開いてる診療所なんてなかったのよ、あるのは五年前に閉鎖された、このノース診療所だけなの」
片田が徐ろに車のバックドアを開け、銃火器を取り出そうとした。
「ここは、スパス12A(散弾銃)でしょ?バイオハザードっぽいし」
「ならユーコさんは何を?」
「そうね、ロケットランチャー持ってないから銃とナイフかな」
ユーコは、ナックルガード付きファイティングソードを腰のホルスターから抜いて、碧眼をギラつかせた。片田を見ながら口元に近づけた刃にサーモンピンクの舌を這わせる。
「ゾンビでもいるんですか、この診療所に?」
「いたら最高だけど、まあ、備えあれば憂いなしよ」
片田は、散弾銃の弾を補充してからユーコと共にノース診療所へと入って行った。
Ⅲ
ノース診療所の重厚なドアは、まるで永劫の眠りについた棺桶のように、厳重に封されていた。ユーコは片田に、まるで暗号のようなジェスチャーを送る。
「ガシャン」
鈍い音が響き渡り、片田の左腕が振るわれた。古い扉は、まるで紙切れのようにあっけなく砕け散る。一歩足を踏み入れると、そこは薄暗い、死んだような静寂に包まれていた。埃っぽい空気が肺に詰まる。
「きったな、埃がすごい、ケホッケホッ..」
ユーコの咳払いが、空虚な空間を震わせる。LEDライトの光が、薄汚れた壁に映し出される。片田の視線が、一点に集中する。古い医療器具、埃をかぶった診察台、そして、どこまでも続く廊下の奥。二人は、息を潜めて、診療所内部を探索し始めた。
──血、血、血、血、吐、吐、吐、吐──
「次は、二階ね」
片田は、散弾銃に装着した懐中電灯の光を階段に向けた。その光線は、薄暗い階段を照らしていく。ユーコは、片田の後をゆっくりと追いかけた。
「ガタッ」
突如、彼女らの耳に不穏な音が響いた。まるで、誰かがわざと音を立てているかのようだった。二人は足を止め、息を潜めて耳を澄ます。しかし、その音は再び聞こえてこない。
「気のせいかな..」
ユーコは、そう呟きながら階段を上り始めた。しかし、彼女の心は、どこか落ち着かない。
二人が二階に足を踏み入れると、そこは薄暗い廊下が果てしなく続く、まるで迷宮のような空間だった。懐中電灯の光が、壁に奇妙な影を落としていく。その影は、生きているかのように蠢き、二人の背後から追いかけてくるように感じた。
──血、血、血、血、吐、吐、吐、吐──
病室に入る。無数のベッドが、白いシーツを纏い、まるで死を待つ患者たちのように整然と並んでいる。窓には、外界との繋がりを遮断するかのように、板が打ち付けられていた。懐中電灯の光が、埃っぽい空気を照らし、影が壁に蠢く。階下から聞こえる「バシャ、ガタッ」という不気味な音は、まるで彼女らの心臓を叩きつける鼓動のように、二人を追い詰めていく。
「下に、誰かいるかもしれません」
「確かに、今の音は気になるな..」
ユーコは、片田に下に戻ろうと顎をくいっと動かし、懐中電灯を登ってきた階段の方へ向けた。階段の方へ片田を先頭に進む途中、ユーコは、背後に微かに何か分からない気配を感じ懐中電灯を向けた。光の先には、細長いロッカーがあるだけだ。その時だった、
「誰ですかあなた?」
「…………………………」
ユーコが、ロッカーに懐中電灯の光を当てている間、階段の方へ進んだ片田の前に、斧と鉈を持った、かなり大柄な紫色の髪に茶色の鋭い瞳をした女が、黒血塗れで立っていた。
「ここで何..」
言いかけた片田に、女が思い切り斧を振り下ろしてきた。片田は、咄嗟にバックステップで振り下ろされた鉈の一撃から逃れた。
「ちょ、あんた」
片田が、散弾銃の引き金に指をかけ、力を入れようとした瞬間、背後からユーコが大声で叫んだ。
「ストーーーーーップ」
ユーコが大声で叫びながら片田と女の間に割って入った。
「片田ストップ、ストップ、ちょちょちょ」
片田に撃つな撃つなとユーコが手を振って銃撃を止めて、身長約180cmはあろうかと思われる大女の方を向いた。
「ジェシカ、あんたここで何してんの?」
「………………仕事」
「あんたもこの診療所で、ゾンビ退治ってこと?」
ジェシカは小さく頷いた。
「知り合いですか?」
「彼女、私達と同じクリーナーのジェシカ•棒歪よ」
辺りに広がる緊張感が解けて片田は、散弾銃を下に向け、ユーコとジェシカの方へ歩み寄る。
「ジェシカ、その返り血は?下に何か居たの?」
「………………ゾンビが二体」
ぼそりとジェシカが呟くと、ユーコの後ろに立つ片田の背後に向かって、ジェシカが斧を突然ぶん投げた。
「ぐああああああ」
「え?」
ユーコと片田が斧が投げらた方へ振り返ると、頭に斧が突き刺さる身体中が腐敗したゾンビが仰向けに倒れていた。ユーコと片田は、ベッドの下からがさがさと何かが這いつくばりながら動く気配を感じた。
「バシャーン」
片田の散弾銃の銃口が暗闇を照らす様に火を吹いた。飛び散る肉片と黒血の飛沫、ゾンビだ。
「なっついなー、面白くなってきた」
ユーコは、ベッドの下から這い出てきた、ゾンビに向かって、ギラついた碧眼を据えた。彼女の指は、まるで痙攣するかのようにトリガーを引く。銃声が響き渡り、部屋中に黒血の雨が降り注いだ。ジェシカは、階段を這い上がってくる無数のゾンビを、まるで庭の手入れをするかのように、淡々と鉈を振り下ろしていた。彼女の瞳には、もはや人間らしき感情は残っていなかった。
ジェシカの打撃はいわゆる格闘技のそれではなく、大柄な体躯から繰り出される蹴りやパンチは、技術では無く純粋な怪力。天性の暴力、その余りの威力にゾンビの身体を貫通したり、スイカがビシャっと破裂するように腐った肉が崩れて床に落ちた。
「相変わらずのバカヂカラね」
ユーコと片田は、板でふさがれた窓に銃口を突きつけ、引き金を引いた。甲高い音が響き渡り、板は粉々に砕け散った。新鮮な夜風が、埃と血の匂いを一掃するように部屋に流れ込む。窓の外には、満月が照らす荒れ果てた診療所の裏庭が広がっていた。背の高い雑草が、まるでこちらを嘲笑うように揺れている。
「外にはゾンビ、いなさそうね」
と、ユーコは黒血塗れの銃を片手に、片田に薄笑いを浮かべた。散弾銃の轟音が、この虐殺宴のBGMのように響き渡る。ジェシカは、まるで殺戮機械のように、無表情に鉈を振り回していた。黒血のシャワーが、彼女の顔に飛び散る。ユーコは、そんな光景を冷めた目で見ていた。
「ジェシカ、ここ臭いから私達、先出るわ。片田、プランBに変更よ!」
ユーコがそう告げると、割れた窓枠に足をかけ、外へと身を乗り出した。
「え、ちょっと、ユーコさん!」
片田の制止も届かず、ユーコはクールに窓枠に手をかけ、ニヤリと口の端を押し上げた。そして、まるで計算し尽くされたかのように、窓から華麗にダイブする。片田は、プランBって何だよ?プランAすらないのに毎度正面突破のカチコミ作戦だろと、ユーコの姿を見送りつつ、嘆息を漏らした。しかし、次の瞬間、彼女もまた窓枠に飛び乗ると、ユーコを追いかけるように裏庭へと消えていく。
ユーコと片田のやりとりを見ていたジェシカが、口端を歪ませた極小の微笑を浮かべた。やけに懐かしい記憶が、ジェシカの瞳の奥で揺らめいた。
Ⅳ
二十年前──────
ユーコは、漫画喫茶漫暴の個室という名の牢獄に閉じ込められていた。乱雑に積み上げられた漫画の山は、彼女の心を映すかのよう。安っぽいヘッドホンからは、ケミカルな電子音楽が流れ、現実逃避を促している。金色の髪は、無精ひげのようにあちこちに飛び出し、彼女の疲弊を物語っていた。
ダイエットコークの炭酸が、喉を刺激する。人工的な甘みが、舌の上で踊り、虚しさを際立たせる。ふと、背後に巨大な威圧感を感じたような気がした。
「ジェシカか、何?」
「………………ユーコ、漫画ばっかり読んでる」
「はあ?キャッツアイ読んだらシチーハンター読むのは当然でしょ?私達みたいじゃない?スイーパーって?」
ジェシカの視線が、積まれたコミックの表紙に描かれたCITYの文字を確認すると、
「………..チーじゃない、ティーだ」
ユーコの耳が仄かに紅く染まった。
「ああ……それで、仕事?」
ジェシカが頷くと、ユーコに資料を手渡した。
「ふーん、変異体が空き家に集まってパーティナイッて感じ?ハウスオブザデッドっぽいから、いいんじゃない。やろうよこれ」
ユーコは、首に絡みついたヘッドホンのコードを机に投げ捨てた。立ち上がると、電源を落としたPCモニターに映る暗い自分の顔は、どこか他人事に思えた。漫画喫茶漫暴の薄暗い空気を抜け出し、ハーレーの轟音が街に響き渡る。ジェシカの革ジャンに顔をうずめながら、ユーコは呟いた。
「Pedal to the metal」
それは、単なる言葉ではなく、自分自身への問いかけだった。ユーコの呟きに呼応するように、ジェシカがアクセルを踏み込んだ。腑に重たく響く轟音が二人の身体を通過した後、ハーレーの分厚いタイヤがアスファルトを切りつけていく。
Ⅴ
ユーコと片田が、裏庭から診療所を覗き込む。すると、窓はまるで動物の骨を齧り尽くした獣のように、ガラスの破片と木の板がむき出しになっていた。その穴から、首のないゾンビの胴体が雑巾のように使い捨てられ、窓枠のギザギザした凹凸を滑らかにする。
そして、その滑らかな窓枠を足場にして、鉈と斧を構えたジェシカが、まるで何事も無かったかのように、素早く飛び降りてきた。
「うーん、お決まりの展開として、こういう施設には地下室があって…」
ユーコの言葉が途絶えた。突如として、空気が歪み、衝撃波が彼女を吹き飛ばした。仰向けに倒れこんだ彼女の体からは、鮮やかな紅色の液体が噴き出す。
「く、っばはっ…!」
意識が遠のく中、ユーコは奇妙な高揚感を覚えた。漆黒の夜空に、彼女の碧色の瞳が異様に輝いている。
「いったー、あんた達、今の見えた?」
片田が、散弾銃を構え、周囲を警戒する。ジェシカは、斧と鉈を両手に握りしめ、一点を見つめている。ユーコが傷口を再生させ、起き上がろうとしたその時、再び衝撃波が襲いかかった。片田は、身をかがめて衝撃波をやり過ごした。ユーコは体勢を立て直すと、壁際に置かれた木箱めがけてハンドガンを乱射した。
「そこか!」
数発の銃声が響き渡る。懐中電灯の光が当たった影が、ぬるりと木箱の陰から現れた。
「お前達は、あれか、クリーナーってやつか?そうだなたぶん、ふ〜む、俺の居場所がよく分かったな」
カチャカチャと、不気味な金属音が、男の指先から響き渡った。黒いスーツは、まるで夜闇から這い出てきた影のようであり、フェドラハットは、男の顔の半分を隠すことで、その表情を読み取ることを拒んでいた。ユーコ達は、ゾンビ達とは異なる、その男の出現に、心臓が凍りつくような冷たさを感じた。
「あんたが苦留賀なの?」
ユーコの心音が早くなる。鋭い視線を苦留賀に向けたまま、高揚感が高まるのがわかった。
「ほう、私の名前を知っているか、その再生能力と装備、警官ではなさそうだ」
苦留賀の言葉は、闇夜に吸い込まれるように、どこか不気味だった。ユーコが、ハンドガンを苦留賀に向けて発砲する。銃口から放たれる閃光が闇を照らした。片田もそれに続き、散弾銃をぶっ放す。
「危ない、危ない」
しかし、苦留賀の姿は、まるで霧のように消え去っていた。
「公安の連中もお前達も、すぐ、銃をやたらめったら撃ちやがる。そう、美学がない、殺しの美学がね。最低だぁ」
暗闇から、まるでどこからともなく聞こえてくるような、苦留賀の声が響いた。ユーコ達は、懐中電灯の光を頼りに、周囲を警戒する。
「鬼ごっこは終わりよ」
ユーコが、ハンドガンを弾がなくなるまで乱射した。だが、銃口から放たれる火花は、闇夜に飲み込まれていくばかりだ。
「あっ」
ユーコから小さな悲鳴のような呟き。夜の闇に掻き消されるかのように響いた。次の瞬間、彼女の左腕は、あっさり切り落とされ地面に叩きつけられた。
「ひとつ」
片田がユーコの傍らで、散弾銃を構えながら息を潜めていると、今まで影のように静かにしていたジェシカが、斧を振りかざした。
そして、それは診療所の壁を破り、まるで怒りの感情を込めた矢のように、苦留賀の胸に突き刺さった。
「ぐ、ああ、貴様…があああー」
苦留賀の絶叫が、夜の静寂を打ち破る。ジェシカは、もう一つの凶器である鉈を握りしめ、まるで死神のように、苦留賀へと近づいていく。
ユーコが切り落とされた左腕を右手で掴むと、ぐっと傷口に押し当て、当たり前のように再生させる。彼女は、繋がれた左腕をくるくると振り回し、具合を確かめるような動作をダルそうにしている。切り口は完璧に癒合し、まるで何事もなかったかのように機能していた。片田はそんなユーコを横目に、裏庭から這い出てくるゾンビどもに銃弾を浴びせていた。
「どんだけいんのよ、ゾンビ」
ユーコは、弾切れのハンドガンを地面に叩きつけるように投げ捨てた。その手には、ナックルガード付きのファイティングナイフが握られていた。
「私も弾切れです。一度車に戻りますか?」
片田の声が、遠くに聞こえた。ユーコは振り向かず、ただゾンビの群れに向かって歩き出した。
「ジェシカ!そいつ頼んだわよ!車から武器持ってくるから!」
ユーコの声が、風に乗って何処かへ消えていく。残されたのは、黒血と肉の塊と化したゾンビ達の群れ、そして、その群れに向かっていく二人の姿だけだった。
ⅤI
「や、やめろ、やめてくれ」
苦留賀の悲鳴は、まるで血塗れの壁に叩きつけられたハエの音のように、かすれて消えた。ジェシカの鉈が、男の体を深くえぐり、鈍く重い音が響く。
「ぎゃあああー…………なんてな」
斧が壁にめり込み、苦留賀の嘲笑が、血まみれの空気に溶け込んだ。ジェシカの茶色の革ジャンは、爪に裂かれ、赤い雨を降らせていた。
「人間なんて、さ。脆いもんだろ?ガラス細工みたいな。ちょっとの衝撃で、パリンと割れちまう。」
カチャカチャと嫌な金属音を鳴らして、苦留賀がジェシカの耳元で囁いた。ようやく鉈を壁から引き抜いたジェシカが周りを見ると、苦留賀の姿が見当たらない。その時、苦留賀の爪が、再びジェシカの背中に食い込んだ。鋭い痛みと、生温かいものが背中を伝う。苦留賀の影が、暗闇の中で蠢いている。
「どこ見てんだ」
苦留賀の声が、すぐそばで囁く。ジェシカが振り向くと、苦留賀の姿は消えていた。次の瞬間、激痛がジェシカの太腿を襲った。
「落とし物だぞ、ほら」
苦留賀の爪が、太腿に深く食い込み、血が噴き出す。そして、斧が肩に突き刺さった。
「…………ぐぐ」
ジェシカの視界が赤く染まっていく。苦留賀の挑発的な笑い声が、彼女の鼓膜を揺らした。左肩に斧が突き刺さったまま、瞳をゆっくりと左右に動かし、苦留賀を探す。ジェシカは、右手に強く握られた鉈に力を込めて、その場に立ち尽くしている。
「お前みたいなデカい女より、さっきの小柄の女の方がわたしは好みだが、あの金髪女は年増すぎる、だいぶいってんだろ?」
カカカと笑い声を上げた苦留賀が、カチャリカチャリと爪を鳴らした。身体のあちこちから流血するジェシカを挑発しているのだ。ジェシカの目がぎゅっと絞られると、その視線が足元へと動いた。
「けやー」
生い茂る雑草の中から、苦留賀が右手の爪をジェシカの腹に突き刺した。
「ぶほっ、ばは……………」
ジェシカが血反吐を吐きながら呻いた。苦留賀が顔を歪ませ、ジェシカの綺麗に割れた腹筋を貫くように爪を突き刺していた。さらに、爪をぐりぐりと回転させる。内臓を抉るような痛みが、ジェシカの全身を駆け巡った。
「死ぬのは怖いか?なあどうなんだデカい女」
苦留賀の顔が、クシャクシャに歪む。ジェシカは、ただ、真っ直ぐ、苦留賀を見つめていた。
「………………………」
ジェシカの左手が、苦留賀が回転させていた右腕を力強く掴んだ。
「なんだ?まだ抵抗する力があるのか?」
苦留賀の顔が、嘲笑に歪む。しかし、ジェシカの力は凄まじく、苦留賀の動きを止めていた。
「は、離せ、バカ力め、ぐああああ」
苦留賀が暴れる。しかし、その瞬間、ジェシカの右手から振り下ろされた鉈が、苦留賀の左肩にめり込んだ。そして、左腕をまるごと斬り落とした。黒血の飛沫が、切断された傷口から撒き散らされる。
「ぎゃああああああ………待て、待ってくれ、仲良くしようじゃないか?」
「………………………」
今度は、ジェシカの鉈が苦留賀の右肩に振り下ろされた。腹に突き刺さった右腕が苦留賀の身体から切り離される。
「ぎゃあああー、お終いだー、助けてくれ、私が悪かった、頼む」
「……………………」
両腕が無くなった苦留賀がジェシカに命乞いを始めた。ジェシカは、腹に苦留賀の切り離された右腕が突き刺さった状態で、両肩から黒血を流して跪いた、苦留賀の様子をじっと見ている。
「ちっ、何か言えよ!だからデカい女は嫌いなんだ、可愛くねえからな」
苦留賀の言葉が、夜の闇に掻き消されるように吐き捨てられた。その瞬間、彼の頭からハットが弾かれ、突如、鋭角な角が伸び上がる。その角は、まるで生き物のようにジェシカの胸を貫いた。
「く、ぐはっ…」
ジェシカの呻き声が、夜の静けさにノイズになり溶けていく。彼女は、血を吐きながら後方に倒れこんだ。苦留賀はニヤリと笑った。その笑いは、満月の光に照らされ、どこか狂気じみていた。切り落とされた左腕を、まるでパズルを組み立てるように肩に当てはめると、傷口はみるみるうちに癒合していく。頭部の角も元の形に戻り、彼のスキンヘッドに馴染んでいった。
苦留賀の顔は、無数の火傷痕で覆われ、まるで悪夢のようにグロテスクな容貌をしていた。くっついた左腕をぐるぐると回し、ジェシカが落とした鉈を拾い上げる。
「甘いなあ、甘い、実に甘ちゃんだなお前、舐めすぎだろ」
鉈を振りかざし、倒れたジェシカを嘲笑し小馬鹿にする。その姿は、勝利を確信した傲慢さに包まれていた。苦留賀は、ゆっくりとジェシカに近づき、とどめを刺そうとする。
「もっと苦痛を与えてからでもいいが、まだ二人クリーナーがいるからな、お前はもう用済みだ」
鉈が、月の光を浴びて鋭く輝きながら、ジェシカの顔目掛けて振り上げられた。しかし、その瞬間、苦留賀の動きが止まった。
「ががあ、あ、あ、あ、ああ」
苦留賀の喉から、不気味な声が漏れる。ジェシカは、ひどく黒く濁った目で苦留賀を見据え、腹に突き刺さった彼の右腕を、ズルッと引き抜いた。そして、その腕を、まるでナイフを突き刺すように苦留賀の胸部に突き立てた。
「なんで、い、生きてん、だ、お、お前」
苦留賀の言葉は、途切れ途切れで、まるで電波の悪い電話のような声だった。
「タフだからだ、ユーコほどじゃないけど」
ジェシカは、そう呟きながら、苦留賀の左手から鉈を奪い取る。そして、左肩に突き刺さった斧を引き抜くと、両手に武器を携え、まるで舞踏会の女王のように優雅に回転する。斧と鉈が、夜の空気を切り裂き、鋭い音を響かせる。その動きは、もはや人間のものではなく、狂気すら感じさせた。
数え切れないほどの斬撃が、苦留賀の体を切り裂く。彼の体は、まるで血しぶきを上げる黒い噴水のように、バラバラに砕け散っていく。そして、その残骸は、夜の闇に飲み込まれて霧散した。
ⅥI
ユーコは、邪悪に顔を歪めニチャリと笑った。鼻歌混じりに、軽やかにゾンビを切り裂いていく。彼女の動きは正確無比で、無駄が一切ない。片手に持ったナックルガード付きファイティングソードが、ゾンビの肉体を切り裂く。
「この前使ったやつは、と……」
片田の声が、轟音の中でかき消されそうになる。ユーコは、片田にサブマシンガンを投げ渡し、こちらに向かってくるゾンビの群れに向けて、銃弾を浴びせる。
「ジェシカさん、大丈夫ですかね?」
片田の声が、風になびく。
「ああ、ジェシカなら大丈夫よ、殺しても死なないから」
ユーコは、口端をくいと上げて微笑した。その笑いは、ジェシカへの強い信頼を感じさせるようだった。二人は、再び診療所の裏庭へと足を踏み入れた。そこは、死と生が入り混じった、混沌とした空間だった。
「ああ、やったのね」
血塗れの斧と鉈を携え、ユーコ達の前に現れたジェシカ。その姿は、まるで地獄から這い出てきた悪鬼羅刹のようだ。
「…………私の仕事はこれで終わりだ」
嗄れた声で告げるジェシカ。その言葉には、どこか虚無感が漂っていた。
「あらそう、久しぶりに会ったのにもう帰っちゃうの、琵琶レイクに?」
ユーコは、いつもの調子でそう言ったが、ジェシカの瞳には、深い闇が宿っていた。ジェシカは、無言で首を縦に振る。その動作一つ一つに、重みが感じられた。
「じゃあ、私達も今日は帰ろう」
ユーコは、片田にそう告げると、三人で残りのゾンビを片付けた。ノース診療所の入り口まで辿り着くと、ジェシカがハーレーに跨った。重低音が夜明け前の静寂を打ち破る。ヘッドライトの光が、霧の中に切り込む。その輝きは、彼女の冷徹な眼差しを映し出しているようだった。
「ユーコ、またな」
「ええ、またね」
二人の短い会話。しかし、その言葉の奥には、多くのものが込められていた。片田は、二人の間に流れる独特の空気感に、複雑な感情を覚えた。そして、車に乗り込むと片田がユーコに問いかけた。
「いいんですか、地下室とか捜索しなくても?」
片田が尋ねると、ユーコは肩をすくめた。
「う〜んなんかもういいや、苦留賀はジェシカが倒したし、また服破れたし、ゾンビに襲われて、お互い、全身どっろどろだから帰りたい。疲れたー」
そう言って、ユーコは後部座席の窓から、走り去るジェシカの姿を見送った。
「仲良いですね」
「ん?ジェシカの事?ああ、まあね。……古い付き合いなの、古いね」
片田はエンジンをかけ、ゆっくり診療所を離れた。ユーコがスマホを操ると、車内にシンセサイザーの荘厳な調べが充満して、ビートに合わせたエレキギターのソロから始まるイントロが流れ出した。まるで、銀色の海に熱い波が押し寄せると、彼女の心を飲み込んだ。
その音は、彼女の心に静かに、そして深く入り込み、何かを呼び覚まそうとしていた。
──────
See you next in the hell…