PROLOGUE
Hell is empty and all the devils are here.
(地獄はもぬけの殻だ。すべての悪魔はここにいる)
────ウィリアム・シェイクスピア
202X年、世界は、ある忌まわしき病によって、混沌の淵へと突き落とされた。
人々は、まるで地獄の業火の中に投げ込まれたかのように、絶望と恐怖に打ちひしがれていた。この病は、容赦なく人々をむさぼり食らい、数えきれないほどの魂を決して天国ではなく、地獄へと送った。
各国は、この未曾有の危機に直面し、必死に感染拡大の阻止を試みた。ワクチン開発や、都市封鎖といった極端な手段も厭わず、人々は、まるで牢獄に閉じ込められた囚人のように、自由を奪われた生活を強いられた。
しかし、人々の努力も虚しく、この世は、いまだに病の影に覆われていた。
そして、真の悪夢は、ウイルスの感染者から稀に生まれる「変異体」と呼ばれる怪物によって始まった。彼らは、人ならざる力を持ち、人々を恐怖と絶望の淵へと叩き込んだ。
神解公園午後七時──────
黒い背広姿に虚無僧笠を被った三人組が、神解公園海側にある歩道を歩いている。先頭を歩く虚無僧壱が周囲のノイズを遮断し、わずかな空気の振動を捉えるためノイズにしか聴こえない念仏を唱えた。
「ぎゅぅ和阿ーぎゅ阿和ー我阿ー阿〜……」
「壱さん、その念仏意味あるんすか?」
「そうそう俺も気になってたんですよ、何の効果があるんすか?変異体にしか聞こえない嫌な周波数とか?モスキート音みたいな?」
虚無僧壱に弍と三が問いかけた。
「なってねぇなお前ら、こんな事も知らねーのかよ、よくそれでこの任務につけたな。この方が変異体を見つけやすくなんだよ、とにかく警戒の時は上がやれっつうからやってんだよ、俺が決めたんじゃねーよ。」
「壱さんいつもそーすよね、意味ない事、効率悪い事、嫌いなんすよねー俺、盲目的っていうか思考停止って奴でしょそれ?」
弍の辛辣な言い草に、壱が立ち止まり弍の方を向いてやれやれだと肩をすくめる。
「あ〜、腹減ったな〜」
壱と弍を見る三は、「またかよこの二人、毎回毎回よくどうでもいい事で揉めるな」と、うんざりしながら空腹を嘆いていた。
歩道に立ち止まって激しく口論する虚無僧達の方へ歩いて来た若い女性ニ人組が、異様な虚無僧達の姿を見るや否や、怪訝な顔で歩道から明るい公園の方へ避けるように逃げて行った。その姿を見た壱が他の二人にボヤく、
「お前が文句ばっか言うからほら、ギャルにもキモがられるし、転職しかねぇな〜やっぱ」
「俺関係ねーでしょ?こんな格好してるから、夜に虚無僧笠被ってる三人組なんて、一般人からしたらホラーっしょ?」
「あのギャルたちも、病以前なら声かけるチャンスだったのにな…世の中から『愛』と『暇』が消えたんだ。残ったのは『憎しみ』と『クソみてえな仕事』だけだ」
「確かに……だな」
少し間を置いて、壱と弍がお互いを見ながら苦笑した。
「天天のどろ大盛り〜」
三は、天上天下というラーメン屋の一押しメニュー、どろ大盛りの事しか考えていないようだ。
虚無僧達が他愛もない会話をしている時、前方約二十メートル先ぐらいにある街灯の下、黒いパーカーにグレーの作業ズボンを履いた、虚な目をした怪しい一人の中年男性が立っている。
「当たりか?」
「俺、呼んでみます、おい!田島」
大きな声で弍が呼びかけるが、男から返事はない。
「おーい!田島さーん、田島ひろしさーん」
さらに三が呼びかけるが、男は下を向いたまま、虚無僧達がまるで存在して居ないかの様に無視して、何か聞き取れない言葉をぶつぶつと呟いている。
その時だった、壱が腰から銃を抜いた。男から微かな血生臭い異臭がしたのだ。それだけで、壱は『当たり』を確信し、田島に銃口を向けて逡巡する事なく引き金を引いた。
「嘘ーーーーーん」
弍と三がハモる。乾いた三発の銃声が夜の歩道に響いた。田島ひろしと思われる中年男性の胸部と腹部、さらに右側頭部に壱が放った弾丸は命中した。
しかし、流血はしておらず、どす黒い血のような液体が、男の着弾部からじわりと滲んでいるだけだった。
「当たりだな」
呪印を宿した銃を構えたまま、壱が当たりを引いたと小さく頷きながら警戒し戦闘態勢に入れとニ人にハンドサインを送った。
腰から霊符が刻まれたダガーナイフを弍が取り出すと、手馴れた感じの殺意を醸し出し、虚無僧達の間にある種、異様な緊張感が走った。
「ネームドじゃないにしても、三発貰ってほぼ無傷は笑えないすね」
三は、ポケットから加護の印が打たれたメリケンサックを手に装備しながら、声を絞り出した。
「貴様ら〜誰だ〜いきなり何だ、いてーじゃ、ねーぎわ」
田島と思われる男が舌足らずに言うと、男は大声で喚き出した。
「ぎやわわがあ」
男の身体が変貌に耐えきれずパーカーの生地が裂け、身体のサイズが膨張し始めた。ガキゴキと骨が皮膚を突き破る不快な音がする。
身長が伸びるにつれて、全身の関節がグシャッ、グシャッと鈍い音を立てて砕け、張り裂けた皮膚の下から、ザラザラとした黒い岩肌のような組織が這い出した。
顔も、イカか蛸の様に、ぬめりのある悍ましい異形の姿に変貌していた。田島は、ギョロっと突き出た目をぐりぐり動かし、虚無僧達を凝視している。
壱が再び、田島に向けた銃の引き金を引こうとした瞬間、三人の視界から田島は消えていた。
「は?」
三人が辺りを見渡していた、その時、壱と弍の間に、黒い線が走った。それは、暗闇を引き裂いた刃の軌跡。
「があああああああああああああ」
三の絶望的な悲鳴が響き渡った瞬間、生臭く熱を帯びた鉄の匂いが、夜の空気中に噴水のように広がった。
「どうした!」
「なんだ!」
壱と弍が三の方へ身体を捻って問いかける。
「お、俺の左腕がないんだ」
三がそう力無く呟くと、その場に膝から崩れ落ちた。左肩の根本あたりから、真っ赤な鮮血が粘っこく、地面にできた血溜まりに広がり流れ落ちている。
「クソッ、どこだ田島ぁぁぁ!」
壱が銃を構えて怒鳴った。田島への怒りを解放した後、壱は血の気が引いた拳で銃を握りしめ、沸騰する思考を無理やり鎮めた。冷静に状況を分析する。何故、田島は三を完全に仕留めずに自分達の前に返したのか?左腕を切り落としたのは重症だが、その悪意に満ちた意図が気になった。
「Shit Fuck..」
弍が呪詛の様な英語の悪態を呟き、唇を噛み締めた。田島の事を舐めていた自分を戒めるように、辺りを警戒しながらダガーナイフを構えて後退する。
「クソ野郎、俺たちがどうでるか暗闇から見てやがるな。クソ変異体め」
その時、時間が一瞬凍り付いたかのように感じられた。耳が「ヒュン」という音を拾うより先に、身体の芯が、あり得ない速さの死の接近を警告していた。暗闇から異様な殺気を察知した壱と弐は、脊髄反射でその奇妙な音のする方へ、無意識に身体ごと向けていた。
「げひ、ふへ……き、きざまれ、ちぎれて……しねるだよ」
下卑た笑みを浮かべた田島が、まるで刀の様に変化した右肘と刃物状に変化した指先を見せつけるように、壱と弍に言い放った。田島の背中からは、数本のにょろにょろした触手のようなものが揺れている。
それは、触手に見えるが小さな細い手で、先端は不気味に尖っていた。
「やはり自我がある変異体か、やっかいだな」
銃口を田島にロックオンしたまま、壱が呟く。読めない漢字が刀身に刻まれた二本目のダガーナイフを、弍が腰からするりと抜いて両手に握り、切先を田島の方へ向けた。
しかし、暗闇から放たれる田島の斬撃は、必死にダガーナイフで抵抗する弍に、ほぼ何もさせなかった。
弍の刃が最後に触手を掠めただけで闇に飲まれ、虚しく空を切った。触手の斬撃はあまりに速く、その軌道は闇に呑み込まれた。弍は回避する間すら与えられず、内臓と血塗れた臓物を撒き散らし、瞬く間に八つ裂きにされていった。
その光景に耐えきれず、壱が弾切れになるまで田島に向けて銃を撃ちまくる。田島は、両腕から射出された触手は、恐るべき速さで銃弾を弾き、鉄の雨を防ぎきった。田島は、顔を邪悪に歪ませ、下卑た笑みを浮かべている。
頭の中で鳴る銃声が止み、壱が冷静さを取り戻しかけたその時、田島の触手が暗闇から放たれた。
壱は田島との距離を詰めすぎていた。壱の身体を斬撃が何本もの黒い線のように走った後、大量の血液を地面にぶちまけた。
壱の意識が途絶えかけた時、腰のベルトで左腕の根本付近の止血を終えた三が、弍の亡骸からダガーナイフを拾い上げた。
「クソッ、天天のどろ大盛り食うまで死ねるかよ」
そう吐き捨てた三は、右手に握りしめたナイフの切先を田島に向け、全速力で走り出した。
「死ねやああああああああ田島ああああああ」
三の咆哮に、途切れかけた意識を取り戻した壱は、銃の弾を再装填すると相打ち覚悟で突撃する三を援護するように引き金を絞った。
しかし、二人の決死の攻撃は、田島にとってどうでもよかった。まず、突撃して来た三を、硬質に変化した触手の切先で八つ裂きに切断すると、三の背後から銃を撃っていた壱を、黒い異形の触手が、瞬時に人の形を失った肉塊へと変貌させた。
静寂の中、壱が最後に放った弾丸が、田島の皮膚にわずかな焦げ痕を残していた。彼はそれを気にも留めず、ギョロっと突き出た目を病的に動かし、夜空を睥睨した。
彼は、虚無僧たちがいた場所を、存在すら、もう覚えていないだろう。
死の匂いが漂う黒い静寂──地獄はもぬけの殻だ。
全ての悪意は、ここに立っている。




