4 promise
「あら、雨音君は?」
1人で家の中へと入ってきた雫に雫の母親は雨音の姿を探した。
「帰っちゃった」
小さな声で答えた雫に母親は温かいお茶を出す。
「あなた昔から変わらないわね」
「え?」
雫は驚いて顔を上げた。母親は懐かしさに微笑む。
「小さな頃、庭の雪が溶ける頃になるとあなたはいつもそうやって泣きべそをかきながら家に戻ってきたじゃない。お友達が空に帰っちゃったって。あなたあの頃と同じ顔をしているわよ。雨音君と遊ぶようになって泣きべそをかくこともなくなって安心したのよ」
雫の頬にポロポロと涙が落ちていく。
「私、あーちゃんを傷つけちゃった。約束を待つ辛さを誰より知っているはずなのに、自分の都合を押しつけて約束を破った。こんなずるくて臆病な私は嫌われてもしょうがないの」
口に出せば出すほどに心が締め付けられていく。母親は泣いている雫の背中を優しくさすった。
「そう、でも本当に雨音君はあなたを嫌いになるのかしら? あなたは約束を果たさなかったお空のお友達を嫌いになったの?」
雫はレインを思い出す。たとえこの先一生会うことが叶わなくても雫がレインを嫌いになることはないだろう。雫が首を横に振ると母親は雫の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、雫、約束って何ですると思う?」
雫は涙を拭きながら考えたが良い答えは浮かばなかった。すると母親は窓の方を見ながら笑った。
「未来もずっと側にいたいからよ」
雫も母親の視線の先を見ると窓の外には息を切らした雨音の姿があった。
「あーちゃん!」
急いで外に出ると雨音は手を差し出した。その手の中には小さな雪うさぎがあった。
「それどうしたの?」
「ここにはもうきれいな雪が残ってないから探して作ってきた」
「わざわざ私のために?」
雫は雪うさぎを受け取ると涙ぐんで笑う。
「俺、大人とか子どもとか分かんないけど、雪うさぎで喜ぶ奴は子どもだと思うぜ」
雨音はそう言うとニカっと笑った。太陽のようなその笑顔に雫の言葉がポツリポツリと溢れ出す。
「私ね、仕事から逃げてきたの。辛くても我慢するのが大人だと思っていたから。でも平気なふりをしているうちに本当の自分の心が分からなくなったの。私はあーちゃんに自分の心を偽る大人になんてなってほしくない。私は弱くて情けない大人になっちゃったんだよ」
大きな涙の粒が瞳から溢れ出る。今にもこぼれ落ちそうなそれを掬ったのは雨音の指だった。雫が顔を上げると雨音は彼女を優しく見つめていた。
「雫が弱くて情けないのは昔からだろ。雫は周りの言葉を気にしてすぐに落ち込む。それでも大人だからって笑うから辛いんだ。泣きたい時は泣けばいい」
雨音の言葉に涙が堰を切ったように流れていく。雨音は子どもにするように雫の頭を撫でた。
「雫は雫なんだから自分の感情をもっと大切にしていいんだよ」
「そうかな、落ち込みやすくて自分でも嫌になるけど」
そう言って泣きながらハハッと笑うと雨音は撫でていた手で軽くチョップした。雫は驚いて雨音を見上げた。雨音はわざとらしく彼女を睨む。
「俺の前でも無理に笑う必要ないだろ。それに雫が落ち込みやすいのは情が深くて優しいからだ。雫は毎年最後の雪が溶けるのを泣きそうな顔で見てた。何がそんなに悲しいのかわからなかったけど、雫がこの町を出て行った時に俺にも分かったんだ。雫は人を好きになるみたいに雪が好きなんだ。だから別れが辛いんだって」
雫がはっとして雨音を見ると雨音はごまかすように頭をぽりぽりと掻いていた。
「それって……」
「自分の嫌なとこでも誰かにとってはいいとこって意味だよ。別に落ち込んだっていいじゃん。雫が落ち込んだら俺が雪うさぎ作ってやるよ」
「雪がなきゃ雪うさぎ作れないよ」
「かき氷機で氷砕いて作ってやるよ」
子どものように口を尖らせて言う雨音に雫は耐えきれず声を出して笑った。こんなにも心の底から笑うのは久しぶりだった。
「やっと笑った」
笑顔の2人の視線がぶつかる。すると2人の間を雪の結晶が弾けて飛んだ。それは雫が雨音と初めて会った時と同じ現象だった。
「今の……」
弾けた結晶はひらひらと揺れる可愛らしい衣装を着た姿に変わっていく。小さな雪の粒は雫と目が合うとキャッキャっと楽しそうに笑った。
「雪の子?」
「ああ、もう雪の子たちが帰る時間だ」
雲の隙間から光が差し、キラキラと残った雪を照らした。すると溶けた雪から小さな子どもたちが光の子と手を繋ぎ、ダンスでも踊るように空へ昇っていく。雫が驚いていると雨音はわくわくしているように瞳を輝かせて空を見上げていた。
「あーちゃん、ずっと雪の子が見えていたの?」
「見えるよ。雫も見えているのかと思ってた」
「小さな頃は見えていたけどもう見えなくなっていたの。じゃあ雨粒の子も?」
「うん。雨粒の子も見えるよ。彼らに会うとなんだか家族に会えたみたいで嬉しいんだ。それに誕生日には必ずお祝いに来てくれる。みんなは雨なんてやだって言うけどさ、俺は雨が多い6月生まれで良かったって思うよ」
そう無邪気に笑う。雫はその笑顔がなんだか懐かしく、そして愛おしく感じた。雫の手の上の雪うさぎも溶けていく。するとそこには最後の一粒となった雪の子が心配そうに2人を見上げていた。
「こいつが雫を元気付けるために雪うさぎを作った方がいいって助言してくれたんだ。キレイな雪が残っている場所を教えてくれたのもこいつだよ」
雫はずっと見守っていてくれたことが嬉しくて手のひらの雪の子に微笑む。
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
すると雪の子は安心して光の子の手を取った。その姿は少しだけ寂しそうにも見えた。
「また遊びに来てね」
雫が言うと雪の子は恥ずかしそうに小さな声で「約束ね」と言った。
「うん、約束」
雪の子は嬉しそうに小さな手を振りながら空へと昇っていく。雪の子たちで賑やかだった庭は雫と雨音2人だけになった。
プルルルル
静けさの中に雫の携帯の音が響く。それは会社からだった。雫は恐る恐る通話ボタンを押す。
「もしもし、あ、ハイ……」
話が終わり電話を切ると雨音がそわそわと彼女を見ていた。
「会社?」
「うん、ニュースで私の実家がある地域が大雪だって流れたからみんな心配してくれていたみたい。盆暮もろくに休めなかったんだから仕事のことは気にせずにゆっくり休んでいいって」
「みんな雫が頑張ってたこと分かっていたんだな」
雨音が雫の頭をポンポンとすると不思議なことに彼女の肩の力は抜けていく気がした。
「ありがとう、あーちゃん」
雫はそう言うとしまったと口元を抑えた。それを見た雨音は困ったように頬を掻く。
「本当は名前の呼び方なんてどうだっていいんだ。中身がこれっぽっちも変わってないこと俺だってわかってる。俺も来月からは都内の大学に行くし、今よりも雫の側にいられる。だからさ、こんな俺でも頼りにして欲しいだけなんだ」
その大人びた表情にドキドキと心臓の音が大きくなる。
「うん、頼りにしてる」
目を合わせるのが恥ずかしくて空を見上げると雫は思わず雨音の腕を引っ張った。
「ねぇ、見て! あーちゃん!」
雫に言われて空を見上げると雨音は目を輝かせた。
「でっけー滑り台だ!」
2人が見上げる空には雲の間を繋ぐ大きな虹がかかっていた。大雪を降らせた雲は少しずつ遠ざかっていく。
雫が寂しそうにまた涙ぐんでいると雨音は笑う。
「雫は本当に泣き虫だな。また6月になったら戻ってくるよ、どんな姿になっても約束は守るから」
雨音の言葉に雫は驚き彼を見つめる。雫の胸が熱くなった。
(約束、守ってくれていたんだね)
じっと彼女が見つめるので雨音は首を傾げた。
「どうした?」
すると雫の顔がはにかむような笑顔に変わった。
「おかえり、雨音」
ふいに名前を呼ばれて雨音は耳を疑ったが頬を染めた雫にそれが聞き間違いではないと確信した。
「バ、バカだな。それを言うなら『ただいま』だろ」
雨音の声が裏返ったので2人は顔を合わせて笑いあう。
「雨音、また雪が降ったら一緒に雪遊びしてくれる?」
「ああ、約束な」
2人は小指を絡め約束をするとそのまま手を握った。空には大きな虹がキラキラと輝いていた。