もう遅い、と彼は言わせたくなかったのだ
イベリットは自室で一人座っていた。
柔らかい赤褐色の髪を今は結わずに下ろし、白いブラウスの胸元に流れるがままにしている。
彼女はけして凄い美人ではないが、大きな瞳が印象的で、笑うと愛らしく人を引き付ける魅力を持つ。
尤も今その顔には、憂いの色が漂っていたが。
彼女はもうすぐ22歳、丁度誕生日が彼女の結婚式の日だった。
生まれてからずっと育ってきた、この屋敷ともあと一週間でお別れすることになる。
子供時代に両親を相次いで失い、叔父夫婦が保護者となった後も、ずっと住んできたこの屋敷と。
叔父たちは住み続けるが、イベリットは花婿の住む遠い街へ行くのだ。
遠方より最高級の絹とレースを取り寄せすべて一流の職人により仕上げられた見事な花嫁衣裳、イベリットの瞳と同じ色の緑柱石の婚約指輪、櫃一杯の清潔なリネン、ほかも全て揃っている。
花嫁としての準備はすっかり整って、何も心配することはないのだ。
花婿のアルテュールは親が昔この屋敷で働いており、一緒に遊んだ相手だ。
イベリットよりも2つ年上で、頭がよく、そのころは大人しい黒髪の少年だった。
今ではすっかり立派な青年となっていて、愛想はないがすっかり紳士だと言われている。
そのころはもういないデュシャンと一緒に3人、かれが奉公に出るまでは仲が良かったものだ。
――デュシャン。
イベリットと同じ年で、いつも一緒にいた、麦藁色の髪の男の子。
騎士を目指していたデュシャンが無事に騎士になったのは4年前。
その時初めての口づけを二人は交わした。
隣国との戦乱が起きたのはその直後だった。
3年前に彼が出征した時、帰ってきたら結婚するとの約束を交わした。
2年前に彼が亡くなったとの知らせが届き、1年喪に服した後に、アルテュールが戻ってきて求婚したのだ。
かれは奉公先の主人に気に入られ、そこの養子となり、家業を大きくしたのだという。
丁度戦乱で需要が高まっていたものを取り扱っていたのも、運がよかったとか。
今では豪商の主であり、都にも伝手を持つほどのやり手となっていた。
昔からイベリットのことを愛していたと、デュシャンが居たから諦めていたが、と。
勿論、最初にイベリットは断った。
アルテュールのことは嫌いではないが、それはあくまで友情だし、彼女の心にはデュシャンがいる。
デュシャンを忘れることはないし、アルテュールをそういう意味で愛することも多分ない。
だが、叔父たちに言われたのだ。
このままだとこの屋敷を手放すことになってしまう。
出来たらアルテュールと結婚してくれないかと。
この家の財政状況がそこまで悪化していたことを、イベリットはその時初めて知った。
元々あまりよくはなかったのが、戦乱のせいで一気に傾いたという。
――恩義あるふたり、何より大切なこの屋敷のため、イベリットは求婚を受けた。
……不幸になる結婚ではない、誰も。
ただイベリットの心の奥にある気持ちを、押し殺さないといけないだけで。
その為の痛みを一生抱えて生きていくことをイベリットは分かっていた。
アルテュールもその痛みを持ったままの彼女だけを妻に望んでいるのだ、他のどんな美女や高貴な令嬢や彼だけを愛する存在ではなく。
……きっと穏やかで幸せな生活が送れる筈なのだ。
「お嬢様!」
ばたばたと足音がしたかと思うと、いきなり部屋の扉が開く。
どうしたことかとイベリットが顔を上げれば、非常に切羽詰まった顔をしたメイドのミリーが立っていた。
イベリットと一番親しく年の近い彼女だが、こんなに焦っているとは、いったいどうしたのか。
先刻外出した格好のままで、ノックも何もなしに現われるほどの何かがあったのか。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「……デュシャン様が、ご帰還なされたそうです!」
2年前、死んだと思われていたが実は生きていた。
デュシャンの認識票が激戦地で千切れて落ちていたのと、デュシャンが大怪我をして記憶を失っていた為に気付かれなかったという。
記憶が戻ったのも本当につい先日で、やっと傷が癒え、故郷に戻ってきたのだという。
街に出ていたミリーはその話を聞き、一目散に屋敷へと駆け戻ってきたのだった。
話を聞いたイベリットは一瞬目を見開くも、ゆっくりと息を吐きそして瞬きした。
「……そうなの。あの人はいつ、帰ってきたの?」
「昨日の夜遅くにだそうです。あの、」
「着替えていらっしゃいな、ミリー。そしたらお茶を入れて頂戴」
「は、はい」
イベリットの言葉に、おのれの有様を思い出し、ミリーは大人しく部屋を出ていった。
扉が閉まってから、初めてイベリットは顔に手を当てた。
「やあ、いらっしゃるかな?」
アルテュールが訪問してくるのはいつものことだ。
だが今日はいつもと違っていた。
――デュシャンが帰還したことはあっという間に伝わっていた。
そのことをどう受け止めるべきか、屋敷の中でもまだ判断が付いていなかったのだ。
「あ、アルテュール様。イベリット様は今、」
「なら、待っているからお会いしたいと伝えてくれ。……お話があるのでね」
この屋敷の命運を握る男の言葉だ。
いくらイベリット大事であろうと、通さざるを得ない。
そしてイベリットは、二番目に良いドレスに着替え、アルテュールの訪問を受け入れた。
「……ごきげんよう、イベリット」
「どうしたの?アルテュール」
イベリットは平然とした顔で、婚約者を部屋に通した。
何も知らないものなら、彼女がアルテュールを歓待していると思うだろう。
それくらいに彼女は平然としていた。
「あなたの叔父上叔母上は、お出かけ中のようだね」
「ええ、私たちの結婚式の招待状を手ずから出すんだと、忙しそうよ。でも、今日はもうすぐ帰って来るんじゃないかしら。二人とも色々準備されると言っていたし」
「そうか。……それをお待ちしてもいいかな?」
「勿論よ」
口元だけ歪ませるように笑うイベリットに、アルテュールも笑う。
こんな状況でなければ彼と一緒に居ることは、イベリットには好ましかったろう。
「お嬢様、叔父上様がお帰りになりました」
ミリーが告げに来てくれたのは、二人で向かい合って半刻程経った頃だった。
そのことに安心しつつ、これで何かが終わるのだと、イベリットは思う。
何か言うべきかとアルテュールを見ると、彼は意外なほどに優しく微笑んでいた。
「少し、お話させて貰うよ」
「ええ」
応接間でイベリットの叔父夫妻と向かい合った途端、アルテュールに捧げられたのは謝罪だった。
曰く、彼が生きているとは思いもしなかった。
曰く、結婚をぜひ取り消さないでほしい。
曰く、どうかこの屋敷のことは大目に見て貰えれば。
……アルテュールは、それらの言葉はゆっくりと聞き流した。
「イベリットは、デュシャンが生きていることは全く知らなかった。そうですね?」
「勿論ですとも!知っていればあの子の意志を揺るがすことなどできません!」
その言葉に、アルテュールは薄く笑みを浮かべる。
そうだ、イベリットの意志を違えることなど出来っこない。
それは子供時代にさんざん味わった経験からも分かっていた。
「お嬢様、今なら間に合いますわ」
「……そういうものではないのよ、ミリー」
デュシャンの元に行けと暗に示すメイドに、イベリットは微笑みつつ否定する。
この屋敷が抵当に入っている以前に、イベリットはアルテュールとの結婚を受け入れたのだ。
ならばその約束に従うしかない。
無責任に生きてはいけないのだ。
アルテュールは良い夫になることは間違いないだろうし。
「……でも」
「いいのよ。私が一番大切なのは、この屋敷なんだから」
知らない誰かの手に落ちるより、叔父たちが守ってくれるほうがずっといい。
生まれ育った屋敷を守りたいと思うその一念で、今があるのだから。
「ところで、これはご存知ですか?」
アルテュールが取り出したものを見て、叔父夫妻の顔色が変わる。
それはデュシャンが出した手紙の控えだった。
「彼は記憶を取り戻してすぐ、手紙を出したと言っていました。それが半年前。……丁度自分とイベリット嬢が婚約したころでしたね?」
戦地の病院では、手紙が届かなかったときに備えて写しも作っていたのだと言う。
次いでアルテュールは、何枚かの書類を見せてきた。
借金の証文、抵当権設定、そして。
「……イベリット嬢のご両親が亡くなられて以来、あなた方がどれだけ無法図に振る舞って来たか。いや、亡くなる前から、この屋敷や領地を目当てにされていたか。……間違いないですね?」
否、ということはできないものをアルテュールは持っていた。
証拠だけではなく、彼が纏う雰囲気は恐ろしいまでに頑なであった。
「あなた方は私に、婚約詐欺を行ったんですよ?分かっていますか?」
「イベリット」
「……アルテュール、どうしたの?」
叔父たちとの話がどうだったのか、そんなことは尋ねられなかった。
何だか憔悴した雰囲気の彼を見て、思わずイベリットは声をかけていた。
いつもイベリットの前に出て来る彼は、威風堂々として、愛を囁いてくれていたのに。
「何でもないよ、少し、交渉が複雑でね、デュシャン」
「……ああ、済まなかった、全部任せてしまって」
少しやつれている、少し大人びている、でも確かにあの日別れた彼だ。
イベリットは言葉を失った。
アルテュールの隣に居る、懐かしくも何処か遠い青年の姿を見つけて。
目の下に傷がある。
でも彼だ、声は変わっていない。
……どうすればいい。
「君の叔父さん達は、本来君の得る権利を侵害していた。……この屋敷を抵当に入れて、無謀な投機を行っていたんだ。……もう何も気にしなくていい。イベリット、君は自由だ」
おくれ毛を撫でつけ、アルテュールが笑った。
デュシャンも優しく笑っている。
イベリットは、何が何だか分からないまま、彼らを見つめていた。
「――キミの叔父さん達は、記憶を取り戻したデュシャンの手紙を握りつぶしていた。つまりは、婚約不履行だ。俺との結婚は、無かったことになる。…ごきげんよう、イベリット」
頭を軽く撫で、アルテュールが昔のように笑う。
そして、ゆっくりと屋敷から彼は出て行った。
彼を止める言葉をイベリットは持たなかった。
いや、ひとつだけある。
――彼はきっとそれを望まないだろう。
どんなにアルテュールがイベリットを愛していようとも、アルテュールはイベリットがデュシャンと結ばれるのを望んでいるのだから。
「……イベリット、どうして結婚しなかったんだ?」
アルテュールが訪ねて来て、そう言ったのは半年後のことだ。
「だって、デュシャンは記憶喪失の間支えてくれたクレアさんがいらしたんですもの」
半死半生の人間を介護して支えてくれたのだ。
立派と言うしかない。
だがアルテュールはそのことに対して、不満があるようだった。
「貴女たちは愛し合っていて、結婚を約束していただろう!」
「ええ。……でも、気持ちが変わっては、いけないのでしょうか?」
今もイベリットはデュシャンが嫌いになったわけではないし、デュシャンだってそうだろう。
ただ幼い恋心よりもっと大事な相手が出来たというだけだ。
それは誰にも否定されないことだ。
「……ねえ、アルテュール。貴男の献身に、私はどうこたえればいいのかしら」貴男→あなた?
叔父夫妻は先代からの横領の罪で消え、イベリットがこの屋敷の女主人と為れた。
そして、結婚前夜で居なくなったアルテュールのことは。
「……あなたが幸せなら、俺は、」
「じゃあ、私の夫となってくださらないと」
イベリットはデュシャンの帰還で、分かったのだ、本当に自分が愛しているのは誰かが。
デュシャンもイベリットと和解できて喜んでいる。
今や彼と彼の妻とは友情を育んでいる、だから。
「……俺は、ずっとあなたを愛していました」
「私も、貴方が好きになったのに、気付いていなかった。……ごめんなさい」
それ以上の言葉は、口づけで塞がれた。
――イベリットは、幸福だった。