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4/6

作者による作品解説は野暮な事だろうか。


※この第4部分では、以下の作品の内容やネタバレを含みます。


■映画『ONCE ダブリンの街角で』(2007)(脚本/監督 ジョン・カーニー)

■本作品 第2部分『いつも私はいちばん好きなひとにだけ好きと言えない。』




-*-*-*-




 『ONCE ダブリンの街角で』という映画を観たことがあるだろうか。2007年に公開されたジョン・カーニー氏による監督/脚本作品で、アイルランドのダブリンを舞台に、地元の男とチェコ移民の若い女がストリートで出会い、音楽を通して心を通わせていくさまを描いた感動・ラブストーリーである。(同映画あらすじより)


 作品自体はとても穏やかで素朴で、音楽に全く興味のない者が観ればすこし退屈をしてしまうかもしれないと感じるほど、音楽を中心にゆったりと進んでいくような味わい深い作品だ。


 タイトルにある「ONCE」は「一回、一度」「かつて、以前」というような意味を持つ。そんなタイトルに相応しいラストになっていて、音楽を通し心通わせる日々を過ごした後、二人は結ばれることなく、お互いの人生を進む。


 その先は描かれていないので想像でしかないけれど、きっとその後二人が再び会うことは一度もないのだろう。ただこの先何年経っても、二人の心の中には、かつて二人過ごした一度きりの日々が確かに存在していて、それは時に糧となっていくのではないかと思う。

 安易なハッピーエンドでも悲しいバッドエンドでも綺麗事でもない、このエンディングを私はとても美しいと感じる。


 皆にもないだろうか。「思い出」と片付けてしまうには、あまりにも自分を構成する大事な要素になってしまっている日々が。きっとあると思う。私にもあるけれど、この話はまた次の機会にするとしよう。



 そしてこのエンディング後に流れるエンドロール。ここで私は衝撃を受けた。

 エンドロールでは、ご存知の通り役名とキャスト名が流れる。



 男:グレン・ハンサード


 女:マルケタ・イルグロヴァ



 ここに来るまで全く気付きもしなかった。主役の二人の男女には名前が付いていなかったのだ。そういえば思い返してみるとお互いを名前で呼ぶシーンもなかった。


 これがまたこの作品を魅力的にする要素だと思う。


 仮に名前が付いていたとしよう。ここからは私の個人的な感覚になってしまうけれど、この二人に名前が付いた途端、なんだかその後、二人が容易く再会できてしまうような気持ちになる。例えるならば「友達の一人が留学で遠くへ行くのでお別れした」というような印象で、会おうと思えばいつでも会える関係性だ。

 ところが二人に名前が付いていない事によって「とある一人の男と一人の女の物語」になるわけで、なんだか「一度きり」それこそ「ONCE」というタイトルがピッタリ合うような感覚がある。


 正直作者が本来意図しているところであるかは分からない。けれども、私がこの作品にこんなにも感銘を受けたのは、紛れもなくこのエンドロールのくだりがあったからだ。

 もし私がエンドロールを見ずに映画を止めていたら、作品の評価は今より幾分か低かったと思う。



 そう考えると、このエンドロールでの「気付き」が作者が意図していた事であるかどうかはさて置いて、作品には気が付くべき大切なポイントが必ず存在する。

 何も映画だけではなく、もちろん小説も、絵画も、音楽も…全てにおいて言える事だ。

 「気が付くべき大切なポイント」というよりは「作者のこだわり」と言ったほうがしっくり来るかもしれない。そこに気が付いて欲しいと感じる作者もいれば、気が付かれるようではまだまだ…と感じる作者もいるのだろうか。私は完全に前者だ。



 本作品の第2部分『いつも私はいちばん好きなひとにだけ好きと言えない。』では、僭越ながらも私なりのこだわりを至るところに散りばめている。


 例えば、6年後の描写で初めて解る事実が幾つかある。


 一つに、「美術大学を卒業したらしい彼」勘の良いひとはここで色紙(しきし)(イラスト)を描いたのはもしかして彼なのではないかと予想するだろう。


 二つに、実はいちばん撮りたかったであろう彼との写真を撮ることができていなかった事。「大して話したことのないクラスメイトとも」写真を撮ったにも関わらずだ。ここでタイトルの「いちばん好きなひとにだけ好きと言えない」私という人間の性格をほんの少し暗示している。


 その他にも「色褪せて」と「鮮明に」の言葉の対比や、「思い出」の写真がなくても笑顔を「思い出した」としているところ。「覚えている」や「忘れられない」など幾らでも言いようはあるが、思い出の写真がない代わりにするにはこの表現がいちばんだという意志があった。


 挙げればまだまだ幾つもあるけれど。


 自己満足レベルの小さな言葉ひとつだから、作者自らがそれを事細かに説明することは、作者目線で考えると野暮なことだと思う。

 しかしながら自分が読み手・鑑賞者目線で考えると、そういうポイントに「もしかして」と気が付いた時に心動かされる事もしばしばある。そしてそれを答え合わせをしてみたいような気持ちにもなる。

 はたまた自分が気が付いていない部分にどんな仕掛けが為されているのか知ることも、作品を鑑賞する際の一つの面白さではないかと思う。

 そういう意味では作者による作品解説を「野暮」と片付けるには勿体ない気もするのだ。


 ちなみに、ここまで来て言うのもなんだけど、私はこの議論に結論を付けるつもりは全くない。

 結局のところ、私は上記の二つの作品について少し語りたかっただけである。なんて奴だ。



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