振り上げた拳は宙を彷徨う
坂の上にある彼女の自宅までは学校から坂道の連続だ。その長い坂道をずかずかと怒りに任せて風を切って駆けあがった彼女の息は上がっているがそれでも普段の生活の一部なだけあって乱れているという程ではない。
帰宅して着替えをすると真っ直ぐに風呂に向かう彼女の額には血管が浮いている。
――何なのよ、アイツ。悪態吐いているの見られただけじゃなく……よりによって下着まで見ていくなんて……。
彼女の怒りは音楽室の時よりもエスカレートしているかもしれない。いや、間違いなくエスカレートとしている。
――怒りに任せてバイオリンを投げつけたってのにニヤケ顔のまま目を回して気絶するとか、ホント、ムカつくわ。何かしらね、この沸々と湧き上がる怒りは……この怒りどこにぶつけようかしら……。
――バシャッ
彼女が水面を思いっきり拳で叩きつける。
――それより、許婚ってどういうことよ。聞いてないわよ、そんな話。というか、なんでそんな話が今頃出てくるのよ。まだ私、高校生よ? パパも何を考えてるの……。
彼女はフラストレーションを再び水面にぶつけようと拳を振り上げたその瞬間のことだった。
「麗香? お客様がおいでよ、貴方も挨拶してもらえないかしら」
彼女の母が彼女に声を掛ける。
「お客様? わかったわ……すぐに着替えて顔を出すわ……全くこんな時に誰よ」
フラストレーションをぶつけるタイミングを失い振り上げた拳の下ろすべき場所を失った彼女は不承不承彼女の母の言葉に従い湯船から上がる。
――ホント、空気が読めないお客様だこと……どこかの誰かみたいよね……はぁ……。