桜色の運命
私は貴方が好きで――僕は君が好き これは奇跡に近い運命だと、今だけでも錯覚させて下さい
時は十九世紀末。
産業革命により女王陛下が治める大英帝国が最も繁栄した時代。
改革と変革によってジェントリという新しい支配者層が生まれ、いまだ旧時代の階級による差別と偏見が残る時代。
「ブライアン」
ブライアンはメリッサが差し出した手を取った。華奢で白いこの手を取るのは今日が最後だ。
「ラストダンスが青空とお花畑でなんてロマンティックね」
「そうだな」
もうこのダンスが終われば彼女と二度と会うことはないだろう。 二人はステップを踏み始めた。
彼女と出会ったのは一週間前。
ブライアンは独身最後の息抜きにケント州の友の別宅に遊びに行った。
政略結婚を前にしてちょっとした反抗のようなものだ。そして田舎暮らしを大いに満喫していた。
連日のカード遊びにも飽きてあてもなく近くの森を散策していると、どこからともなくマザーグースの歌声が聞こえてきた。
Twinkle, twinkle, little star,
How I wonder what you are.
Up above the world so high,
Like a diamond in the sky.
Twinkle, twinkle, little star,
How I wonder what you are.
「何って決まっているだろ?貴女と恋するために空から落ちてきた」
振り返った少女にブライアンは心臓を射抜かれる。
泣いていた。
嗚咽することもなく、涙だけがエメラルドの瞳から零れ落ちていた。真珠のようだと思った。
心ならず狼狽し、不用意な言葉を吐く。
「な、何泣いてんだ、お前?」
我に返った少女はブライアンを睨む。
「貴方、星の王子様か何かのつもり?だったら私の本当の気持ちが判るはずでしょ?」
会ったばかりなのに、何で泣いているか判るはずも無い
だが、村で耳にした噂話が頭の中を過ぎった。
落ちぶれた美しい男爵令嬢が住んでいると……友の別宅はその男爵から譲り受けたマナーハウスだ。
男爵家族は村に程近い使用人が使っていた小さな館に住んでいると言っていた。
そして男爵令嬢は近くロンドンに行き、さる貴族に嫁ぐと村で噂していた。
もしかしてこの少女のことではないかと推量する。
身なりは質素だが、村娘にはない気品と美しさがあった。
「意に沿わない結婚に嘆いているってところか? 女王陛下のロンドンに行けるのは嬉しいが、それが金で買われた結婚じゃ泣きたくもなるか」
「……ロンドン行きまでよく判ったわね」
「さっき町のご婦人たちが噂していた。こんな田舎町に年頃の令嬢なんて何人もいないからな」
「なんだ……そうだったの」
涙を白いハンカチで拭い、少女は小さく笑った。
泣いている顔も可愛いが、笑顔は五月の風に吹かれるガーベラのように愛らしかった。
「私はここで充分なのに……貧乏男爵家ではこの縁談は断れないから」
「俺も同じだ」
「え……」
ブライアンは苦笑しながら、肩を竦めた。
「俺の家、ジェントリなんだ。今度、爵位を得るために貴族の令嬢と結婚することになってさ。ココに来たのは最後の憂さ晴らしをするために、友達に無理やり連れ出された」
「私たち、似たもの同士ね」
まるで共犯者を得たように二人は笑いあった。
二人が共有した時間はたったの一週間。
互いを男女として意識していたかは判らない。
ただ―――顔も知らない婚約者よりは身近な異性だった。
「ねえ、ブライアンの婚約者ってどんな人?」
「さあ、名前だけな。顔は見てないから判らない」
ブライアンは摘んだ矢車草を弄びながら答えた。
「私も……私の場合はおじ様が教えてくれないっていうか……顔も名前も知らないの」
メリッサの笑顔に影が射す。
「そりゃひどいな。俺の場合、まだ評判が聞いているだけマシか」
「教えてよ?」
メリッサは興味しんしんで身を乗り出す。
「あー、デビュタントの時、レディ・アンジェリン並みに綺麗だったとか……」
「うそ! あの薔薇のレディと同じって! 本当なの」
メリッサはレディ・アンジェリンの名前を聞いて驚いた。
ウェントワース公爵令嬢、レディ・アンジェリン・キャロライナは社交界の憧れの星だ。そのミューズのごとき歌声で社交界を魅了し、女王陛下より特別なお言葉を賜ったとか……
年頃の娘なら彼女に夢見ないものはいない。
娘らしく頬を高潮させるメリッサにブライアンは微笑んだ。
「すごい良縁じゃない。しかも子爵様でしょう。綺麗な花嫁でブライアン、嬉しいんじゃない?」
「ところがそうでもないんだな」
メリッサの単純な発想に苦笑いする。社交界はメリッサが思っているほど甘くはない。
男爵令嬢とはいえ、ずっと田舎暮らしで、そういったものと無縁に暮らしてきたメリッサに察しろというほうが無理な話か。
「向こうは貴族の生兵法で商売を始めた挙句、借金を抱えている。まあ家を傾けるほどじゃないにしても、このまま借金が嵩んでいけばそうなるのは目に見えててさ。
破産するよりかは財産を持って手堅く商売をしている俺の家と関係を深めたほうが良いって腹だ。お互いギブアンドテイクってヤツさ。
でなきゃジェントリで、しかもこんな肌の俺に大事な娘を嫁にやるわけがない」
自嘲気味にブライアンが笑った。
ブライアンはイギリス人の父とインド人の母との間に生まれたハーフだ。そのせいで金髪に紫の瞳、そして褐色の肌と生粋のイギリス人らしからぬ容姿をしている。
褐色の肌のせいで幼い頃から散々好奇と蔑みの目で見られてきた。とても不快で不本意なことだが、それはこの国においてはどうしようもないことだと理解している。
ブライアンは弄んでいた矢車草をメリッサの優しい栗色の髪に飾る。躊躇うこともなく、メリッサはブライアンの大きな褐色の手を取った。
「確かに……珍しいかもしれないけど、私は好きよ」
「お前、変な女だな。普通の女は気味悪がるもんだぜ」
「そお? だってすごく素敵じゃない」
おかしな女だと思った。
だが――メリッサのような人間が傍にいてくれたなら、少しはマシな人生が送れたのかもしれない。
〝きれい?〟とメリッサが微笑む。
答える代わりにメリッサの頬に手を添えた。
なんでこんな時に彼女に出会ってしまったのだろう。
まるで夢のような儚い出会いが運命であればいいとバカなことを思った。
ダンスを終え、ブライアンはほっそりとしたメリッサの体を抱きしめる。
もしこんな場面を誰かに見られでもしたら、メリッサにあらぬ噂が立つのがわかっていてもブライアンはそうしたかった。
「ブライアン……」
「これでさよならだ」
「うん……」
まだ恋とは呼べぬほど二人の気持ちは高まってはいない。
だからこそ今ならメリッサを手放せる。互いの運命の相手はもうすでに決まっているのだから。
運命を変えるほどの力を二人は持ち合わせてはいない。
ブライアンは抱きしめる腕を緩めた。
メリッサは恥ずかしげに頬を朱に染め、願った。
「あの……はしたないって思わないでくれる?」
エメラルドの瞳が少し潤んでいた。
「最後にもう一度だけキスして……そうしたら私、笑っていられるから」
ブライアンはメリッサと唇を重ねた。柔らかなメリッサの唇は蜂蜜のように甘かった。
「幸せになれよ」
「ブライアンもね」
それが二人の別れだった。
結婚は人生の墓場と誰が言ったのだろうか。
ブライアンには墓場のほうがまだマシに思えた。一度入ってしまえば棺おけの中で静かに眠れるのだから。
これは死ぬことも許されない牢獄だ。家名に縛られ続け、逃げることはできない。
この苦痛を受け入れなければ自分は存在することすら許されない。
相手の女も同じ思いだろう。
自分たちはそういった世界に生れ落ちてしまったのだから。
ブライアンは部屋で待っていた、運命の女と初めて対面した。
「ミスター・ルーサー、こちらがガスリー子爵令嬢、レディ・アーシュラ・ジュリエットですわ」
ストロベリーブロンドの淑女が振り返る。その姿にブライアンは目を瞠る。
「お美しいでしょう? 薔薇のレディにだって負けませんわ」
ブライアンはホステス役のロックハート夫人に生返事で頷いた。
「……あ」
紹介された淑女はブライアンを見て、顔を真っ赤にして震えていた。
彼女の名前を呼びそうになって噛み殺す。
そして何事もないかのようにロックハート夫人に尋ねた。
「マダム。こちらの庭園には大層珍しい花が咲いているそうですね。是非アーシュラ嬢に案内をしていただきたいのですが?」
ロックハート夫人は心得たとばかりに賛成した。
「ええ、ジャポンから取り寄せた桜が咲いておりますの。今日は風も心地よいし。アーシュラさん、ミスター・ルーサーのお相手をして差し上げて」
「……はい」
ブライアンは感情を出さずに、花の顔を真っ赤にし打ち震える淑女の手を取った。
桜は今が盛りと咲き誇っていた。 はらはらとピンクの花びらが舞い落ちる。オリエンタルな珍しい花が芽吹いていたが、今のブライアンにはメリッサしか目に映らなかった。
花園で言葉を交わすこともなく散策している二人を甘い香りが包む。
最初に口を開いたのはブライアンのほうだった。
「何でお前がここにいるんだ、メリッサ」
その言葉にメリッサは堰を切ったように泣きはじめた
「知らなかったの、私……、ブライアンが婚約者だったなんて、私知らなかったの……」
メリッサは立ち止まり、ドレスをギュッと握り締める。
ブライアンは嘆息した。
「メリッサってのは嘘か……」
「違う!!」
メリッサが大きく頭振る。
「私もこんなことになるなんて知らなくて! ロンドンに着いたらおじ様が、いなくなったアーシュラの代わりに結婚してくれって……
そうしたら田舎の館の修繕を援助してくれるって……
アーシュラは家出しちゃって、戻ってくるまでの代わりでいいからって、おじ様に頼まれたの。昔からお世話になっているおじ様の頼みを断れなくて……
ごめんなさい……、騙すようなことになってごめんなさい……」
泣きじゃくるメリッサの手をブライアンは握る。あの時と同じ白い華奢な手は変わっていない。
もうメリッサとは会えないと思っていた。
互いに運命の相手は決まっていて、自分では変えることなんて出来なくて――でも、再びメリッサと巡り合った。
ブライアンはこの奇跡のような再会を神に感謝した。
すっかり変わってしまったメリッサの髪を指に絡ませる。
「染めたのか」
「ううん……カツラなの。染めてもアーシュラみたいな綺麗なストロベリーブロンドにはならないから」
「良かった。俺は栗色のほうがいい」
メリッサの頬に手を沿え、顔を上げさせる。あの時と同じ真珠の涙が零れていた。
もったいなくて――舌で掬い取る。
「ひゃぁっ!!」
素っ頓狂な声を上げて暴れるメリッサをブライアンは抱きすくめた。
「ちょっと……ブライアン…離して。マダムが見ているわ」
「見させておけば良いだろ。それよりもう少しこのままでいて」
「……うん。」
メリッサはブライアンの広い背中に手を回す。メリッサは嬉しくて涙がまた出た。もう会えないと諦めていたのはメリッサも同じだった。
「……ブライアン……。もう会えないと思っていた……」
「俺も……」
「……好き…ブライアン……」
「俺も……メリッサのことが好きだ……」
桜の花びらが二人を祝福するように舞い落ちる。
この奇跡が運命となるようにブライアンはメリッサに口付けた。