仮題 美しい空
どこまでも美しい空、草原の丘に白い家がある。
暖かな陽射しがかぎりなくつづく草原に降り注いでいく。
天井の高い、白壁の家の庭には赤い薔薇が咲き乱れ、色鮮やかな蝶たちが花の上を飛び交っている。
薔薇の奥に黒髪の少女が座っている。
あなたは窓から少女を見つめていた。
あなたの後ろに青年が立っている、優しい微笑みに抱きしめられ、少女の可憐な後ろ姿を見つめていたあなたは振り返り青年の優しい顔を見つめ‥
カン高い目覚まし時計の機械音が美しい空に真実を響かせ、消えゆく夢から鳴り止まない不快な雑音を押し込んだ。まぶたをあける、硝子の箱が浮いている、現実が溶けこむ、眠っている体をゆっくりと起こし、部屋中を見まわした。薄寒く淡い、四畳半の闇。セルロイドの蒼い瞳が冷たい視線で見下している。整理箪笥や洋服箪笥に乗せられ漆喰の壁を覆うように並べられた目の覚めるような赤や心躍るような黄色のドレスで着飾った西洋人形。正光が質屋をまわりかき集めた人形達は愛らしさを振りまき過ぎて疲れ果てた顔をしている。
顔を背け俯いた。
朱塗りの姫鏡が見える、花嫁道具として貴美恵から贈られた鏡台、一つしか点かなくなったライトを点けるとみすぼらしい顔が鏡に映った、魔法はとけていた。
硬直した思いに過ぎて行った時間が凍り、幼い日から繰り返し聞かされた貴美恵の言葉が胸から零れた。
「おまえはなにも自分で出来ないんだから母さんの言うことを聞いていればいいんだよ」
凍え切った指が熱にさわった。ひかりに浮かびあがった顔が静かな寝息をたてていた。顔に毛布をかける。
「わかっていたらうまなかったのに」
指が金色の把手にふれる、引き出しから目が離せない、ふるえる指が引き、奥にふせてあった一枚の想い出を手繰り寄せた。
色褪せた想い出、十九歳だった、手を握り合い肩を合わせ、二人、零れる笑顔を浮かべている。思いの止まった時間、二人だけで結婚を誓い合った。
「あなたが好きなの助けて、わたしは悪くないの貴美恵がわたし達を引き裂いたのわたしは悪くないの、わたしは悪くないのに……」
あなたは涙声をふるわせた。
あの時で止まった絶頂に幸福な時間の中、怒ることのなかった青年が優しく笑う、閉め切られた雨戸の隙間から漏れてきた重く響くエンジン音で事実にもどる、黄色い車体に動物の絵を描いたバスが家の前に停まる時間だった。
一つしか入っていない蛍光灯のコードを引っ張り、目をしかめながら正広を引き起こし、そそくさと用意を整えて抱きかかえ笑顔を作って外に出、園児の楽しそうにはしゃぐ声がするバスに笑顔で押し込んだ。
足早に離れていく象やキリンたちに社交辞令に手を振った。
黒い煙を吐き出し去っていくバスの向こうに汚水を流されたような空が広がっていた。
部屋の裏手にある道具置き場のトタン屋根に大粒の雨がぶつかっていた。辺り構わず鳴りつける雨音があなたを鬱にした。
間違いだった、小雨が降りしきるなかであげた結婚式、白無垢を着た姿を見て母はうれしそうに泣いた。
涙が止まらなかった。幼い日おぶわれてみた夕焼け、リヤカーを引きながら段ボールを拾い集める姿が焼きついている。母に逆らうことなどできない。
結婚させられた、子どもを殺された、身ごもった、なぐられ、耐えて、うんだ、女の子ではなかった。
すべてはまちがい、気づいていた、気づいていたのに気づかないふりをした、あの人は、正光は人を愛せない。わたしは、逃げられない。
「だれもいらない。だれもほしくない」
つぶやいた、取り囲んだ人形が笑う‥
布団にもぐる、雨音が消える――
硝子窓に彼の零れる笑顔が映る、扉をあけ庭に出た。庭には赤い薔薇が咲き乱れ、色鮮やかな蝶たちが花の上を飛び交っている。薔薇の奥に黒髪の少女が座っている。
「ゆり」
あなたは青年に名を呼ばれ、振り返り、駆け出す。また、美しい空に堕ち…




