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【競作】ファンタジックホラー作品

【競作】その先で。

作者: ましの

【競作】ファンタジックホラー作品。お題は「花火」です。

 いつまでも続くと思っていた。

 当たり前の日常が、ゆるゆるといつまでも。

 それが永遠じゃないことは知っていたさ。

 それでも、終わりが来るのはずっと先だったはずだ。

 生ぬるい幸福の中に頭までずっぽりと浸かって、残りの人生をあいつと二人で過ごすはずだったんだ。

 そのうち家族が増えて。あいつに愚痴をこぼしながら、それでも家族のために働いて。

 守るものがあるって面倒だとか思いながら、きっとその心地よい重みに笑みをこぼしていたに違いない。

 希望はたくさん溢れていたんだ。

「あの日」が来るまでは……。


   *  *  *


 四五号線を北に向かって走る。

 開け放した車窓からは、夏の夜のひんやりとした湿っぽい風が吹きつけて好き勝手に髪を乱していく。

 ヘッドライトに映るのは土埃にまみれたアスファルトと路肩を覆い尽くす雑草の群。ぽつりぽつりと街灯が寂しそうに佇んでいる。

 カーステレオからはあいつが好きだった曲が延々と繰り返し流れる。「あの日」からずっと入れっぱなしだ。おかげでCDの表面は擦り切れて所々音が飛ぶ。それだけ長い間繰り返し聞いている。

 けどそうすると隣にあいつがいるような気がして来るんだ。

『ねぇ、ここの歌詞良いよね』

 助手席でうっとりと目を細めて決まってそう言うんだ。そのあと、おれはなんて返していたんだろうか? 横目でからかいながら何か言っていたはずだ。でもどうしてか思い出せない。

 おれの隣はあいつの居場所だったはずなのに、あいつはもうずっと帰ってこない。二年以上も。

『浮気は許さないよ?』

 そう言ったあいつとの約束を守っているというのに。

 こうなると、いよいよ分からなくなってくる。

 あいつの隣がおれの居場所だったんじゃないかと。あれほどに心地の良い空間は、あいつがおれに与えてくれたものだったんじゃないかと。

 おれがいて、あいつの好きな曲が流れているのに、なぜ助手席は空っぽのままなんだろう? いくら問いかけても誰も答えを返してくれない。

 空っぽなおれを乗せた車は、どこまでも四五号線を走っていく。

 どこに行きたいか? そんなものはどこにもない。分かっているんだ。ここにいる限り行きたい場所なんてありはしないことを。

 ドンッ。ドンッ。

 腹に響く破裂音が鳴る。パチパチと火花を散らしながら暗い夜の闇を鮮やかな、それでいて儚い光が彩る。

 バックミラーをちらりと覗き込めば、しぼみかけの花の残骸が散ろうとしていた。

「始まったか」

 誰に言うでもなくぼそりと呟いた。

 そうだ。今日は年に一度の花火大会。弔いのために夜空に咲く華やかな色から、おれは逃げているんだ。そして世界から色が消えた「あの日」からも。

 これはきっと悪い夢に違いない。


 全てをさらわれて、うらぶれてしまった大地が永遠に続いていくかのように思える。

 そんな中にプレハブの花火屋がぽつりと建っているのが見えた。虚無の砂漠の中に現れた蜃気楼なのか。

『ねぇ、入ろうよ』

 あいつの声が聞こえたような気がして、おれは砂利をひいた狭い駐車スペースに車を止めた。

 引き寄せられるようにプレハブの戸を開ける。途端に火薬の匂いがぷんと鼻についた。

「いらっしゃいませ」

 レジカウンターの中で店員がスツールに腰掛けたまま気のない声をかけてくる。だか、黒縁眼鏡の奥の瞳は鋭くおれを一瞥した。

 狭い店内には手持ち花火から打ち上げ花火まであらゆる種類の花火が所狭しと並んでいる。色とりどりの薬筒は視界をチカチカと点滅させた。

 居心地悪く店内を眺めていると、不意に黒い和紙で依られた線香花火が目に留まった。鮮やかな色の中に隠れるようにひっそりと置かれている。赤や黄の和紙で依られた市販品しか知らないことも手伝って、それは物珍しく見えた。

 線香花火か……。今のおれにはぴったりだな。

「お兄さん。その線香花火はお薦めしませんよ」

 一束掴み上げようと手を伸ばすと、カウンターの奥から声が聞こえた。

 振り返ると、店員の面倒くさそうな視線とかち合う。

「なんで?」

 問いかけるよりも早く、店員は口を開いた。

「日本製の珍しい品ですけど、きっと彼女さんは喜びませんよ。それよりこっちのススキ花火はどうです? 賑やかで良いですよ。その線香花火よりずっと良い。まあ、その辺のスーパーにも卸しているんで市販のものと大差ないですが、安くしますよ。あっちのスターマインやらミニフェニックスやらには劣りますけどね」

 そう言いながら狭いカウンターから出てくると、低く響く破裂音が聞こえる方角を顎で指す。

 相変わらず夜空には大輪の花が咲いているらしい。

「別に、向こうには興味がない。静かなのが良いんだ」

 店員は妙に納得したように軽くうなずく。

「なるほど、確かに。そうでなければこんな日にわざわざうちには来ませんよね。でもそれなら、せめて普通の線香花火にしませんか? お兄さんにそれはお薦めできないですよ」

「なんで?」

 問いかけると彼は困ったように眉を下げた。

「なんでと言われてもなぁ。それを聞かれると困るんですが……。お兄さんがそれを使うと悲しむ人がいるんですよ」

「どうしてそんなことが分かるんだ」

「ぼくは勘が良い方で。そういうことは分かるんです」

 店員が小さく肩をすくめたが、おれは構わずに黒い線香花火を手に取った。それを見て彼は小さく息をもらした。

「取っちゃったかぁ。でも見えてたしなぁ」

 ぶつぶつ呟く店員におれは「いくらだ?」と声をかける。すると彼はおれの顔をまじまじと見つめて言った。

「お代は結構です。どうぞお持ちください。ですが、必ず散り菊までに玉を落としてください。決して最後まで燃やしてはいけませんよ」



『線香花火なんて久しぶり』

 あいつはそう言うだろうか。

 最後に二人で花火をしたとき、あいつは朝顔柄の浴衣を着ていた。衿元からのぞくうなじが艶めしかったのを覚えている。

 愛おしい記憶と共に、鼻の奥につんとした痛みを感じるが涙は出ない。

 枯れたのか? いや、そうじゃない。始めから泉は干上がっていたんだ。そうじゃなければ、涙が出ないなんてことはないはずだ。

「お前もやるか?」

 そう声に出せばあいつが答えてくれるような気がしたが、それはただの思い違いだ。誰も答えてなどくれない。答えてくれるわけがなかった。あいつは、もう……。

 空き地にしゃがみ込んで線香花火に火を点ける。じじっと音がして、小さな火の玉がもぞもぞとうごめく。やがて小ぶりな花がパチパチと爆ぜて移ろい始めた。

 なんの変哲もない線香花火だ。あの店員はなぜ止めようとしたのか……?

《決して最後まで燃やしてはいけませんよ》

 なぜあんなことを言ったのか分からない。

 それにしても、一人で線香花火をするのはなんとも虚しいものだ。

 その時だ。

『綺麗だね』

 不意にあいつの声が聞こえた。

 幻聴? 妄想? 願い? けれど、確かに聞こえた。あの優しい声音は確かにおれの鼓膜を揺らした。

 恐る恐る顔を上げる。

 そこに、あいつがいた。長い髪をまとめ上げて、朝顔柄の浴衣を着たあいつが。おれの隣にしゃがみ込んで線香花火に視線を落としている。

 まさか。

 おれは小さく息を飲んだ。

 目を伏せた横顔。ふっくらとした頬。確かに、そこにいる。息づかいが聞こえる。

 その事実に、おれは息が止まりそうになった。

「志乃?」

 どうにか呼びかけると、彼女は『なあに?』と微笑みながら顔を上げた。

 小さく首を傾げて不思議そうにおれを見上げる瞳は、あの頃となにも変わっていない。

『どうしたの、明彦?』

 彼女がおれの名を呼ぶ。まるで宝物を扱うかのように。

「……お前っ!」

 ぽとり。

 向き合おうと身じろぎした瞬間、志乃が陽炎のように消えた。絶望が押し寄せる。

「志乃!」

 暗闇に向かって叫ぶが、何も返ってはこない。おれは立ち上がって何度も呼んだ。

 なぜ? どうして答えないんだ? こんなにも呼び続けているのに。

 ふと、手に線香花火を持っていたことを思い出した。玉が途中で落ちて終わっている。

 これなのか?

 おれは飢えた犬のようにそれを求めた。

 振るえる手で火を点けると、程なくして志乃が現れる。今度は弓道着を着ていた。周りの景色がゆっくりと変わっていく。

 高校の弓道場。初めて会った場所だ。結い上げた髪に、凛とした表情で弓を引く横顔。一目惚れだった。

 キャンッ。

 澄んだ弦音を響かせて、矢が的に吸い込まれる。

 駆け寄ろうと一歩を踏み出した途端に、じゅっと音を立てて線香花火の玉が落ちた。それと同時に目の前に広がっていた光景は志乃と共にすうっと掻き消えていく。

 手の中の物をまじまじと見つめた。この黒い線香花火が過ぎ去った記憶を甦らせている。二度と戻らないはずの時間を、おれに与えてくれている。

 それが分かると次々と線香花火に火を点けた。

 初めてのデート。花火大会。クリスマス。志乃と一緒に失った記憶の断片が、甦る。

 鮮やかに。生き生きと。失われたはずの色がそこでは飛び跳ねるように生きていた。

 この、ゆるゆると続く幸福な時間の中にいつまでも浸っていたい。

 そう願うおれの意志に反するように線香花火はすぐに散った。

 同時に、現れる幻の中に邪魔が入る。密閉された部屋の外から誰かがおれを呼ぶ。最初は気が付かないほどのことだったが、回を重ねるごとにそれは顕著になっていった。

「……め……っ!」

 甲高い叫び声が風に乗って微かに聞こえた。何度も。次第に大きく。

『ずっと一緒だね』

 目の前で志乃が嬉しそうに笑う。記憶の底にしまい込んだ笑顔で。

 それなのに結婚式で鳴らされた祝福の鐘は、警告を発するようにいつまでも耳障りに響いている。

 邪魔をするな。

 おれは線香花火の玉を落とさないよう必死だった。

 じじっ。

『忘れものない?』

 小さな火の玉が連れてきたのは、「あの日」の朝だった。志乃の最後の記憶だ。

 引っ越したばかりの小さなアパートで、志乃は手作りの弁当を手渡してくれる。いつものやり取り。この先も、ずっと続くはずだった些細な出来事。

 だがおれは、差し出された弁当を受け取るべきかどうか迷った。それを受け取って部屋を出ていったら、そこで終わりだ。それ以上は何も無い。

 このまま、ここに残ったらどうなるだろう? 途切れてしまった二人の記憶はこの先も続くだろうか?

 しかし、その思いを遮るように誰かが玄関の扉を激しく叩いている。

『明彦は続きを望む?』

 不意に志乃が首を傾げて問いかけた。

「え?」

 なにを言っているんだろうか? こんなやり取りをした覚えはない。

『明彦が望むなら、この時間はいつまでも続くよ?』

 線香花火は散り菊にさしかかっていた。パチパチと音を立てながらシャワーのように火花を散らしている。

《決して最後まで燃やしてはいけませんよ》

 店員の声が甦った。

 最後まで燃やし尽くしたら、何があると言うんだ? おれはずっとここにいられるのか? それなら……。

「望むよ」

 そう言おうとした途端に、玄関の扉がバリバリと音を立てて引き裂かれた。

「浮気は許さあん!」

 ぽっかりと空いた穴から飛び出してきたのは、顔を真っ赤にして怒る、志乃だ。

 それを見ておれは呆然とした。

「……どうして、志乃が二人も?」

「ばかっ! あれがあたしに見えるの?」

 怒った志乃が、弁当を持った志乃を指さす。その先を辿って、おれは息を飲んだ。

 青黒い肌に、乱れた髪。耳まで裂けた口からは、腐臭が漂っている。落ち窪んだ眼窩には暗い炎がぼうっと宿っていた。

 今しがたまで志乃だったものが、ひたりと足を踏み出しておれに近寄ってきた。

『オ前ノ魂、喰ワセロ。ソウスレバ、オ前ノ望ミハ叶ウ』

 ざらついた低い声がした。鋭い爪を持った手が伸びてくる。

 逃げようにも身体は固まって動かない。声すら上がらない。

 そんなおれの手を志乃は怒りながら強引に引いた。

「こっち!」

 彼女は凛とした声を上げると、扉に開いた暗い穴の中に飛び込んだ。


 穴の中は記憶の断片が洪水のように渦巻いていた。

 様々な色がミキサーにかけられたように混ざり合い、どろりとした感触で体中にまとわりついてくる。

 その中を、志乃はおれの手を引いて走っている。小さな手のひらの温かさを感じながら、必死でそのあとに続いた。

「あれ。なんだよ?」

 志乃の背中に問いかけると、彼女は鋭い視線で振り返った。

「なんであんなことしたの! なんで気が付かないの!」

「なにが? おれは何をしたんだよ?」

 そう言うと志乃は眉間にしわを寄せて険しい表情を浮かべた。

「あいつら、生きた人間の魂を喰う鬼なの。明彦はずっとあいつらを呼んでた。あたしはダメだって何度も言ったのに。それに、どうしてこんなところまで来たの? 本当はここに生きている人はいちゃいけないんだよ」

「呼んでたって、おれはなにもしてないぞ。それにここはどこなんだよ?」

「この世とあの世の境目」

 怒鳴るように言い放つと、志乃はくるりと背を向けて歩き出した。相当腹を立てているらしく肩を怒らせている。それでもつないだ手は離そうとしなかった。

「線香花火したよね。店員さんはお薦めしないって言ってたでしょ? どうして聞かなかったの?」

「……お前に、呼ばれたような気がしたから」

「それが間違い。鬼に呼ばれただけだよ。あたしはこんなことしない」

 身体に重くまとわりつく記憶の渦をものともせずに、志乃はずんずんと進んでいく。

「お前はっ!」

 どこにいるんだ?

 聞こうとして、やめた。その答えを聞いてしまったらもう後戻りは出来ない。けれど、彼女はそんなおれの気も知らずに声を上げた。

「薄情だよね、明彦はさ。手も合わせてくれないし、流灯に名前すら書いてくれない。あたしのこと、もうどうでも良くなっちゃった?」

「どうでも良いわけないだろっ!」

 足を止めて怒鳴った。つないだ手を力一杯握る。「痛い」と言ってくれないかと思った。志乃は痛みを感じてくれているのだろうか。

「ずっと待ってるんだよ! どうして戻ってきてくれないんだよ! ずっと一緒だって約束したじゃないか!」

 すると志乃は一段と声を張り上げて言った。

「あたしは死んでるの! いい加減認めなよ、バカ彦。いつまで現実から目を背けるつもり?」

 ああ。やっぱり、そうなのか……。

 突き付けられた現実に、おれは深くうつむいた。

「でも……。まだ遺体が……」

「ほんっとうに、あんたバカっ! そんなもの待ってても誰も幸せになれないの! あんたが独りぼっちで老いぼれていく姿なんて、見たくないのよ! あたしの気持ちも少しは分かれ!」

 乱暴な物言いに、おれは腹が立って怒鳴った。

「なんだよそれ! おれに忘れろってか? お前のこと、全部忘れろって言うのかよ!」

「誰が忘れろなんて言った? 忘れたら殺すから。呪い殺す」

「はぁ? 意味分かんねぇよ! おれにどうしろって訳?」

「思い出にして」

「思い出になってるだろ? だからこんなに苦しいんじゃないか」

「違う。明彦のは記憶を引きずってるだけ。傷口に塩塗りつけて、痛い痛いって泣いてるの。いつまでそうしてるつもり? 一生? そうじゃなくて、あたしを思い出にして区切りをつけて。明彦が苦しんでるのは、あたしだって嫌なの。そんなものを見せつけられて、あたしが喜ぶとでも思ってるの?」

 志乃は苦しそうにおれを見上げた。泣き出しそうに顔を歪めて。

「……そんな顔するなよ。おれはお前にそんな顔させたい訳じゃないんだ。おれは、ただ……」

 言い淀むおれに、優しい声は浸み渡った。まるで乾いた地面に雨が浸みるように。

「あたしは苦しくないし、辛くもない。最初はちょっと辛かったけど、今は全然平気なの。きっと明彦の方が苦しくて、辛いんだと思う。そんな明彦を見てるあたしはすごく悲しいの。分かる? あたしはそんな明彦を見てるの嫌だよ?」

「……思い出になったら、辛くなくなるのか?」

 志乃はにっこりと笑みを浮かべた。ずっと一緒にいようと言ったあの時と同じ笑顔だ。

「浮気一回くらいなら見逃してあげる。だから幸せになって。待ってろって言うなら、待ってるから。何十年だろうと、ずっと。だから目一杯生きて。これでもかってぐらいに。いろんなものを見て、聞いて、感じて。いつかあたしに話してよ。一緒にいたかったって、あたしを悔しがらせてよ」

「……簡単に言うなよ」

 うなだれると、彼女はカラカラと声を上げた。

「簡単に言うよ。明彦が落ち込んでるときは、あたしが背中を叩かなくちゃいけないから。一緒に落ち込んじゃダメでしょ?」

 そう言って、空いた手でおれの背中をバシバシと叩いた。

「痛いだろうが」

 だが、やめろとは言わなかった。その痛みが今のおれにとっては救いだった。


 鬼は数を増してひたひたと近づいてきた。

 この世とあの世の境で動きが鈍くなるのはおれだけらしく、迫り来る鬼は速度を緩めようとはしない。

 おれは志乃に導かれるまま走った。様々な記憶の欠片を蹴散らしながら。そうすることで記憶は思い出に変遷していく。

 長い時間が必要な作業のはずなのに、志乃はおれにそんな時間をくれはしなかった。

 どうせ立ち止まったまま動き出さないと思っているんだろう。実際そうだったか。二年以上も時間はあったというのに、おれは微動だにしなかった。激変してしまった世界は少しずつ形を変えようとしていたのに、おれはそれに気付かない振りをして逃げていた。

 現実から。そして志乃からも。

 志乃は逃げるなと言った。向き合えと。彼女はその手伝いをしてくれているのか。それとも、愚かなおれをただ助けようとしてくれているのか。

 記憶の渦が津波のように押し寄せてくる。志乃はそれに向かって突き進んだ。

「おいっ」

 声をかけると、「大丈夫」と振り返った。

「あの向こうに出口があるから。走って!」

 ねっとりとまとわりつくそれを手で払いながら走った。次第に身体が重くなっていく。それでも両足が動くのは、彼女の強い意思がおれに力をくれるからのような気がした。

 大波の中を走り抜ける。激流に足を取られて転びそうになるのを必死で堪える。

 大切な記憶が飛ぶように過ぎていった。


 荒く息をつく。肺が焼けるようにヒリヒリと痛んだ。次第に足取りが重くなるおれを見て、志乃が一瞬逡巡する。だが決断するように小さく顎を引くと足を止めた。

 おれは流れる汗を拭いながらなんとか息を整えようと腰を屈める。

 鬼はすぐそこにまで迫ってきている。青黒い肌の群が不気味にうごめきながら近づいてくる。

 それを一瞥して志乃を見上げた。

 気が付くと、彼女は手に弓を持っていた。

「あたしには足止めぐらいしかできないけど」

 そう言って慣れた手つきで矢をつがえた。

「大丈夫なのか?」

 高校以来一度も弓なんて引いてないだろうが。

 言おうとしたが遮られた。

 キャンッ。

 甲高く澄んだ弦音が響く。鋭い軌跡を描いて矢が鬼の群に吸い込まれた。

 途端に押し寄せていた異形の鬼がぱあんと弾け飛ぶ。千切れた肉は陽炎のように空中で掻き消えた。

 おれは志乃の見事な射法に呆気にとられていた。

「意外と忘れないものでしょ?」

 彼女はにこりとウインクをすると再びおれの手を取って走り出した。


 細いトンネルの入り口で立ち止まると、志乃はくるりと向きを変えた。

「絶対に振り返っちゃダメだよ。走り抜いて」

 トンネルの向こうでは花火の鮮やかな色が散っていた。そこが出口だ。この奇妙な夢の。夢?

 堅くつないだ手が緩んで離れようとする。

 違う。この感触は夢じゃない。

「待てよ」

 おれは温かな手のひらを強く掴み直して小さな身体を引き寄せた。腕の中にすっぽりと収めると、志乃が小さく息を飲むのが分かる。

 細く柔らかな髪を何度も指で梳いて、その身体を折れそうなくらいにきつく抱きしめた。

 泣き出しそうなくらいに懐かしい香りがして、まるで生きているように温かな体温を感じる。

 死んでるなんて、嘘だろ? そう思うくらいに。志乃は確かにここに存在する。

 一緒にいたい。

 その言葉を飲み込んで、おれはやっとのことで声を震わせながら言った。

「また、会えるよな? これで終わりじゃないよな?」

「泣かないでよ、明彦」

 細い腕があやすようにおれの背中を優しく撫でる。

 言われてようやく気がついた。ボロボロと止めどなく溢れる涙が抱え込んだ志乃の髪に染み込んでいた。

 初めてだった。「あの日」こいつを失ってから世界は色を失って、悲しみのあまり涙すら流れなかったというのに。

「会えるよ、何度だって。ねぇ、知ってる? 命はどこまでもつながっているんだよ。大きな螺旋を描いてつながっているの。あたしは長い旅路の、その先で待ってるから。だからちゃんと歩き出してね。明彦が進んでくれないと旅はいつまでも続くんだよ。いつまで経っても会えないまま。そんなの嫌でしょ?」

 志乃が優しく語りかける。心地よく響く声。心地よく包む腕。おれは彼女の細い身体を抱きしめて声を上げて泣いた。

 けれど、時間はそんなに待ってくれない。鬼の冷たい気配がひたりひたりと近寄ってくるのが分かる。

 おれは大きく鼻をすすった。

「……会えないのは、嫌だな。でも浮気もしない」

 そう言うと志乃は怒ったように顔を上げた。「何を聞いていたの?」その顔が言っている。だから口を開く前にもう一度きつく抱きしめた。耳元に顔を埋めて小さく囁く。

「今更誓いを反故には出来ないだろ? 一人で歩いてみせるから。みやげ話をたくさん持って必ず会いに行く。だから、おれがよぼよぼの爺さんになってても逃げるなよ」

 志乃が腕の中でカラカラと笑う。

「逃げるわけないじゃない。出来ることなら一緒に可愛いおじいちゃんおばあちゃんになりたかったけど、それはまた今度ね」

「ああ。また今度」

 小指を絡ませて契った。いつ果たせるか分からない約束を。

「約束だからな」

 涙を拭いながら言うと、彼女は満面の笑みでうなずいた。

 もしも、このまま志乃の手を離さずに走ったらどうなるだろう?

 そんなことが頭をかすめたが、そんな考えはすぐに過ぎ去った。

 志乃はそんなこと望んでいない。おれもだ。大きな螺旋の中で、この先何度だって出逢えるさ。

 小指が名残惜しく志乃の細い指をするりと離れた。

「走って!」

 凛と透き通る声が背中を押す。

 重い足を叱咤してトンネルの中に飛び込む。

 澄んだ弦音が遠ざかっていく。

 花火の爆ぜる音が次第に近づいてくる。

 おれは荒く息を吐きながら無我夢中で走った。振り返らずに、ただひたすら。

 出口はすぐそこだ。


     *  *  *


 暗闇に堕ちていた意識が次第に浮上する。

 パチパチと火の爆ぜる音が耳元で聞こえた。うっすらと目を開けると、ぼやける視界の中に色とりどりに散る火花が見える。

 小さく身じろぐと頬に砂利の感触を感じた。どうやらおれは手足を投げ出して地面に寝転がっているらしい。

 身体が泥のように重く、思考は霞がかって上手く働かない。

 それなのに、どこか肩の荷が下りたように心は軽かった。

 志乃の温もりはまだ手のひらに残っていている。それが、夢じゃないことを知らせている。

「どうやら戻って来れたようですね」

 頭上から降ってきた間延びした声に視線を上げると、花火屋の店員がつまらなそうにススキ花火に火をつけていた。

「……ああ」

 おれはやっとのことでかすれた声を絞り出す。

 それを聞いた店員はちらりと横目で視線を投げかけ、片手でコンビニのビニール袋からペットボトルの飲料水を取りだした。

「走って疲れたでしょう? 黄泉比良坂よもつひらさかを走り切るのはなかなかきついですからね」

 重い腕を伸ばして差し出されたペットボトルを受け取る。

「……それ……」

 ビニール袋から覗く黒い和紙の束を見ておれが声を上げると、彼は唇を歪めてにやりと笑みをこぼした。

「だからお薦めはしないって言ったでしょう? 幸福な時間と引き替えに鬼が魂を喰らうんです。でも、彼女さんが助けてくれたようで良かった。ずっと不安そうにしていたんですよ。それに、あなたは本当に望んでいるわけでは無いように見えたので」

 おれはどうにか起きあがって、ペットボトルの中身をのどを鳴らして飲み干す。

「知ってて売ってるのか?」

「これでも意外に需要はあるんですよ。自分の魂よりも戻らない時間の方が大切だって方は多いんです。あなたは全部使い切らないと思ったので、こうして残りを回収しにきました。あ。ついでに言っておきますが、料金請求したりはしませんから安心してください」

 彼はふらふらと花火の先を揺らしながら、その光が描く軌跡を目で追っている。

「それで、彼女さんはなんて?」

「また今度なって、約束してきた」

「それなら、良かった」

 眼鏡の奥の瞳が小さく微笑んだ。


 空が深い藍色から薄紫に移ろっていく。

 夢の時間は過ぎ去った。

 これからおれは残りの人生をのんびりと歩いていくだろう。何気なく過ぎていく日常を目を見開いて過ごすことにしよう。

 何も虚しいことはない。何も焦ることはない。

 あいつはずっと待っていてくれる。

 長い旅路の、その先で。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

「花火」は実のところ待っていたお題なのですが、当初考えていたストーリーが前回の作品と似通った雰囲気を醸していたので方向転換をしたところ、こんな物語が出来上がってしまいました。

感想を頂けたらとても嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 花火大会から、異世界へ入る線香花火、出口を照らすススキ花火と、お題の花火が効果的に使われています。 [一言] これまで読んだましのさんの作品の中では、一番動きの大きなものでした。こんな風に…
[一言] 中盤からの展開が何だかイザナミ・イザナギの神話に似てるなあ……と思ったら、ちゃんと「黄泉比良坂」の名前が出てきましたね。 古典的な神話のモチーフを上手く換骨奪胎して、現代物のファンタジーに仕…
[一言]  彼女を失った一人の男が迷い込んだ夏の幻想物語。  前作でも見せていただいた柔らかくも温かい文章は自然と涙腺を緩めますね。中盤の志乃と明彦の痴話喧嘩、その後の二人の間に交わされた約束は読んで…
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