腕
昨日も曇り。今日も曇りである。スッキリしない天気だ。
雨が降るわけではなく、晴れるわけでもなく、どんよりとした天気が何日も続いていた。
バンドマン毅は、コーヒーパーラー『ライフ』の入り口で行ったり来たりしている。中へ入ろうか、入るまいか悩んでいる様子だ。バンドマン毅の手には、駅前のスーパーで買った商品が詰め込まれたレジ袋が握られていた。
コーヒーパーラー『ライフ』では、ラジオをかけているらしかった。バンドマン毅が耳を澄ますと、なかから歌声が聞こえてきた。
『~♪ 毎日、健康、農協牛乳♪ 健やか暮らしのお手伝い~~♪』
窓を通してのぞき込んだ。バンドマン毅は、中の様子を把握しようとこころみた。
――また、あいつが来ているのか。
バンドマン毅は、中に入りたそうなのだが、なに者かが、邪魔者が彼の侵入を拒んでいた。
このところ、毎日、特定の客が、バンドマン毅のカウンター席を占領する事態が続いていた。
清水員子は、コーヒー一杯で、恐ろしいほどの時間、カウンター席とマスターを占領した。そして、二人の会話には、時々、占い師で、このところ妙に影の薄い岡寺ノブヨが参戦することがあった。そして、この三人は、恋バナという、バンドマン毅にとってはとてつもなくくだらない話を延々と続けているのである。バンドマン毅は、そのハナシに加えてもらうことはなかった。もちろん、そのつもりもないけれど。その内容は、一つには清水員子の恋の遍歴自慢という内容に聞こえた。また、一つには、だらだらと同じ言葉が続いていく、彼女の『今彼』自慢であった。この『今彼』自慢のあいだに、「彼と別れることにした」という別れ話が、数日ごとに差し挟まれた。この別れ話が、バンドマン毅にとっては、非常に唐突でまったく理解の出来ない代物だった。
この清水員子とマスターが話している話題が、バンドマン毅にとっては、このように恐ろしいくらいに退屈なものだったので、あるとき、我慢しきれなくなって大あくびをしてしまった。
この清水員子は、バンドマン毅のあくびを最悪の敵対行為と理解したらしかった。それ以来、この清水員子は、バンドマン毅を嫌ってしまったのだ。
この清水員子は、コーヒーパーラー『ライフ』に入ってこようとするバンドマン毅を威嚇するような目つきで睨んだ。
――入ってくるなと言いたいワケか? くそったれ、いつまでねばる気だ!! こっちも、つきあっていられるほど、暇人じゃないんだ。
バンドマン毅は、ドアを開けるとドアベルが鳴って、中にいたマスターと、清水員子と、岡寺ノブヨがこちらを見た。バンドマン毅は、素早く反応して、この清水員子の嫌悪に満ちたひとにらみをかわしたのだった。
――あの女今回は俺をにらみつけるのに失敗しちゃったぜ。こっちは、用事を言いつかってきたわけで、あんたのにらみで怯んではいられないんだ。
『~♪ 毎日、健康、農協牛乳♪ 健やか暮らしのお手伝い~~♪』
再び繰り返されるコマーシャルに続いて、ニュースが始まった。
『謎の事件は、いまのところ、解決の糸口が見えておりません。……』
マスターは、決まり悪そうに、ラジオのスイッチを切った。
「バンドマンの毅くん! ちょっとタイミングが悪かったかなぁ」
岡寺ノブヨが非難めいてつぶやいたのが、バンドマン毅の耳にストレートに入ってきた。
それでも、バンドマン毅は、めげない。この数週間、ある下心を胸に秘め、マスターの小間使いとして、コーヒーパーラー『ライフ』の仕事の手伝いをしていた。バンドマン毅は、今からいおうとすることを頭でまとめた。
――今日はマスターのご機嫌はいかがかな。今日こそは、お願いしたいことがあります。マスターは、有名なパンクバンド、ピエロヒーローズをご存じだそうですね。しかも、そこのドラマーのヒロシ・カタギリをご存じだそうで……。おっと、お察しがよろしいですね。さすがマスター!
バンドマン毅は、凍るような空気を感じ我に返った。言おうとした言葉を押し戻した。
「頼まれたものちゃんと買ってきましたよ。トマトジュースに、オレンジジュース、レモンに農協牛乳……」
「なに?!」
この清水員子は、色をなした。清水員子は、農協牛乳に反応したのである。
バンドマン毅は、あわてて抱えてきたレジ袋から、次の品物を取り出した。それは、一冊の週刊誌だ。週刊誌の表紙には、今評判の『腕』の写真が載っていた。
清水員子は、この週刊誌の表紙に憤慨して、バンドマン毅から、週刊誌を取り上げ投げ捨てると、コーヒーパーラー『ライフ』から泣きながら飛び出していった。
岡寺ノブヨが、追って店を出た。
「員子、まだ話しついていないでしょ。話が込み入っちゃって、私も少し混乱しちゃったし、反省している。安心して、私の占いの力には、そんな心の小さな雑音には影響はされないわ。あなたが生きるべき運命について、ちゃんと分かると思うの。どうしちゃったの? 待って!」
「員子さんは、牛乳はダメみたいだな。とくに、農協牛乳は、CMがラジオから流れてくるだけで、苦痛の表情を浮かべる」と、マスターがバンドマン毅に説明した。
バンドマン毅は、今さらながら反省していた。
「員子さんの彼氏、実は、今評判の『腕』だっていうのは本当でしょうか?」
コーヒーパーラー『ライフ』に戻ってきた岡寺ノブヨがつぶやいた。
「それよ! それ。せっかくいいところまで、話してくれていたのに。惜しいことした」
岡寺ノブヨは、吐き捨てるようにつぶやいた。
「あの女、また、棄てられるわよ。何度同じことを繰り返せばすむのかしら、」
岡寺ノブヨのこころにはしばらくすると、清水のことではしくじったという気持ちが起こってきた。
清水員子が銀座で働いている知人がいるというので、岡寺ノブヨは、変な期待をしていた。しかし、今日まで員子の口から、期待に添うような言葉はついに聞かれなかった。岡寺ノブヨは、がっかりした気持ちで、バンドマン毅の様子を眺めていた。
バンドマン毅は、週刊誌の『腕』の記事を読みふけっていたのだが、読み進めながら、マスターに話しかけた。
「昔いたよね。たとえば、『人面魚』、『口裂け女』とかいうやつ。こんどは、『腕』かよ。時は世につれ、世は時につれ。時代、時代に、人間おもしろいものを考えつきますよね。しかし、今世間を騒がせている『腕』という存在。奇抜な生き物というか。俺なんかには、どんなものか想像もつきませんけどね」
「世間の人たちは、えん罪事件、無実の罪というやつの背景には、『腕』という存在が関係していると考えているようですね」
「たとえば、身に覚えもない罪を着せられることがある。たとえば、僕が、スーパーマーケットで万引きをしたと、言いがかりをつけられたとします。しかも、何の落ち度もない場合、無実の罪と言うことになるのでしょうが、えん罪を証明することが非常に困難な場合があるみたいですね。本人が、絶対にやっていないと主張しても、多くの目撃者がいて、実際にものが盗まれたりしている場合には、自分の無実を証明することはほとんど不可能です。それらのえん罪のいくつかには、今まで知られていなかった『腕』の存在が絡んでいる場合あるそうです。この『腕』という存在に、我々が気づいた結果、俺を犯人に陥れた『腕』というものを原因と考えることにより、いくつかのえん罪事件が解決しているそうです。つまり、よく分からんが、『腕』というのは、俺のふりをして万引きをしたりするらしいのです……」
「……分からない」と、バンドマン毅は匙を投げた。
バンドマン毅の話を注意深く聞いていたマスターは、説明した。
「『腕』単独では、腕の部分だけがふつうに見える透明人間。そんな存在なんですね。そんな『腕』が単独で歩いていたりする場合には、それは、とても奇異な存在に見えてしまいますが、たいていの場合、群衆の中に『腕』が存在しているので、その『腕』が寄り添う人物、あるいは近くにいる人物の腕に見えていまい、奇異な感じがいたしません」
「『腕』は、そのような特性を生かして、人に寄り添い、寄り添う人の『腕』のふりをして様々な犯罪を行うのです。寄り添われた人、偶然近くにいた人物は、『腕』が行った犯罪の犯人に仕立て上げられてしまうのです」
「たとえば、満員電車の中で、痴漢に祭り上げられてしまうとする。その人物は、身に覚えがないとしても、彼に寄り添って、彼のふりをして痴漢行為を行った『腕』が存在しているというわけです」
「『腕』は、ほかにも、強盗を行ったりもします。また、酔っぱらいの中年サラリーマンを襲ったりもします」
「そのほかにも、女をだましたりもするのよ。『腕』の男って本当にたちが悪いのだから」
と、岡寺ノブヨが付け足した。
バンドマン毅は、どうにも納得がいかなかった。
「残念ながら、俺には納得できません。根本的なところがどうしても理解できない。頭も、体も、足も、胴もない。腕だけが宙に浮いている。そんな生き物が存在するなんて」
マスターは、静かに、落ち着いてバンドマン毅の反論を聞いていたが、ポツリとつぶやいた。
「毅さんの気持ちは分かるけど、僕は信じるよ。僕自身が実際に『腕』に会い、彼らと話をした経験を持っているのだから、信じるしかない」
「その上、『腕』については、彼の存在を示す写真が昔から多く残されている。」
「僕は、昔、人に頼まれて、そういう写真の整理を手伝ったことがある。片桐均という人物だ」
「それって、バンド、ピエロヒーローズのヒロシ・カタギリのことですよね」
「そうです。彼は、パンクロックのほかにも片桐は、さまざまなカルトに通じていて、それでも、世間に知られている」
マスターは、物置に行くと、みかん箱を持ってきた。みかん箱の中には、色の落ち掛けた写真がたくさん入っていた。いろんなタイプの記念写真だった。それぞれの写真は、教室だったり、公園だったり、観光地だったり、個人の部屋だったり、脈絡のない場所でとられていた。時代も、最近のものもあれば、大昔の写真もあった。写っている人間も、老人もいれば、若者もいる。制服姿もいれば、派手な私服姿もいる。
「これらの写真は、共通点のないバラバラな写真に見えますが……」
バンドマン毅は、一つ一つの写真を自分でも手に取り、眺めながら首をひねった。マスターは、バンドマン毅の様子を見てほほえんだ。マスターの説明は続いた。
「いや、これらの写真すべてには、説明の付かない何かが写っているという点で、共通なんです」
「……」
「たとえば、コレ! 説明の付かない、この『腕』ですよ。この写真の男性は、両手を膝にのせているが、それでいて、隣の男性と肩を組んでいる。自然に見えますが、写真の通りならば、この男性は三本の腕を持っていると言うことになる」
「また、こちらの写真では、カウボーイの格好をして、ロープ投げをしているが、彼の腰の拳銃を抜こうとしている誰かの手が写っている。これも三本腕の人物と言うことになりますね」
「そして、これも三本腕。恋人の手を引いて、遊園地を歩いている。一方では、説明の付かない『腕』が、彼女の腰に置かれている」
「これらは、世間で言うところの心霊写真と言うものでは……」と、バンドマン毅がきいた。
「世間で言うところの心霊写真には、実際には、心霊写真ではなく。ただ、この『腕』が写っているだけの写真が多くあります。ところで、この『腕』に、私たちは名前を付けてみました。『腕』の一本一本は、それぞれの個性を持っています」
「これまで、『腕』の数は、限られていると考えられてきました。腕の小さな特徴を研究した結果から、限られた数の『腕』が入れ替わり、立ち替わり、これらの写真に登場しているということもわかったのです」
「たとえば、この写真の腕は、結婚指輪をしていますね。この指輪の色とか形には特徴があって、三笠さんと呼んでいます」と、一枚の写真を写真の山から引っ張り出しながらマスターは説明した。
「この写真の『腕』がしている指輪と共通ですね。そうやってみると、指のごつさとか、細かい部分でも同じと言うことが分かります。私たちは、この『腕』にロバードという名前をつけました」
「こういう小さな特徴を頼りに『腕』を識別していって、千人近くの『腕』に名前を付けたのです」
「こうやって調べていきますと、新しい発見がありました。『腕』というものが、最近までは、数が限られていたのですが、現在その数が急速に増えているのです」
「彼らはたまに見られるだけの存在でしたが、この数年急激に勢力を拡大してきています。今は、彼らが原因のトラブルがあちらこちらで見られるようになりました。たとえば、えん罪事件もそのひとつでしょう。ということで、マスコミも取り上げざるを得ない状況になっていると言うことです」
岡寺ノブヨは言った。
「コワイわ! 彼らが人類に危害を加えることだって十分に考えられるわね」
その晩から、大雨が降り出した。雨は数日降り続いた。ちょうど同じ頃には、『腕』に対して、撲滅作戦が本格化しつつあった。
『~♪ 毎日、健康。農協牛乳♪ 健やか暮らしのお手伝い♪』というCMが一日中流された。
テレビ、ラジオで繰り返し流されるCMに、『腕』たちは、耐えられなくなり、農協牛乳を飲み、そして、死んでいった。『腕』たちは、牛乳によって体の温度が上がり、そして、体の発する熱に耐えられなくなり、河に身を投げていった。そして、溺死したという。
「わたしたち人間にとって、大切な栄養分を提供してくれる牛乳が、皮肉なことに、『腕』にとっては最悪の毒となってしまうのですね」
とマスターは、ため息をついた。
多くの『腕』の死体が、近くの河川敷に打ち上げられたといううわさが流れた。
マスターやバンドマン毅や岡寺ノブヨは、河川敷に出向いていった。あの日、コーヒーパーラー『ライフ』を飛び出して行ったまま、姿を消した清水員子を捜しに行ったのだ。
それは、岡寺ノブヨが、
「どうもそんな気がしてならないのよ」と言い張ったからでもある。
「それよ! 」
そこで、岡寺ノブヨは、霊感の高まりから清水員子の彼氏の『腕』の死体を発見した。たしかに、二の腕に『員子love』という入れ墨が彫られていた。その『腕』の体に当たる透明な部分が、白濁して、本来は背の高い『腕』ということが分かった。
警察の人がいて、その『腕』の死体にすがって泣いていた女性がいたという、しかし、三人がやってきたときには清水員子は姿を消していた。
その後、清水員子の、東京マリーン動物園でぼんやりと動物たちを眺めている姿を、岡寺ノブヨが目撃している。
「気の毒で声をかけられなかったわ。あのやつれ果てた員子さんを見て、彼女が本気で『腕』を愛していたということがわかった」と、岡寺ノブヨは思い出して言った。
さらに、数日後、清水員子が、コーヒーパーラー『ライフ』を訪れた。
清水員子は、いまだに、彼女の彼氏の死に対して納得がいっていない様子であった。
「はじめから分かっていたのよ。牛乳が毒だって。あの人が、牛乳を飲むと具合が悪くなって、透明の体の部分が白く濁っていったの。他の食べ物じゃそんなことはなかった。とくに、農協牛乳を飲んだときの体の変調はただものではなかった。だから、彼が牛乳を飲まないように監視していたわ。ずーっと。そして、あのCMも聞こえないようにしていたのに。それでも彼が死んでしまうなんて、考えられない……」
清水員子は、悲痛な胸の内を明かした。
それでも、員子は、帰りにマスターからチーズケーキの入った箱を渡されると、久しぶりに本物の笑顔が員子の顔によみがえった。
「これが食べられなくて、本当はずいぶんと寂しい思いをしていました」
彼女の喜ぶ様子を見ていたバンドマン毅は、思った。
――さすが、マスターのこだわりのチーズケーキ。ファンの心をしっかりとつかんでいるな。マスターのチーズケーキに対するこだわりは普通じゃないからな。マスターは、原料を絶対に変えない。そう、『農協牛乳』が手に入らないときには、チーズケーキはお休みだもんね。
了
清水員子さんに新しい男が見つかりますように