冬の魔物
校舎という名称の長方形の灰色。コンクリートで出来た、とてつもなく重い箱の中に今日も向かう。
同じような服を着て、同じような髪型をする。同じような会話をして、同じように振る舞う。
別に何かのお手本があるわけでもないんだけど、職人気質のあれだ。周囲の同調圧力は、教室に入って見て学べってやつ。
まるで、小学校から始まった学生と呼ばれる期間は、永遠に続く地獄のように思えて、もうすぐ卒業して終わる。
だというのに、この場所に来なくてもいいという未来が全く思いつかない。自由のない息苦しい日々は、この先に何処までも続いていくんでしょう。
ああ。神様。紙とペンを数え切れないほどに消費して、一体何になろうとしているのでしょうか。
だって、俺の周囲の大人は全員、金の話しかしないし時間があれば誰かの悪口しか言わないし、不幸な笑顔を浮かべているというのに……何をどうやってどうしたら、楽しい想像ができるというんだよ。
神様でなくても、誰かいい感じに教えてくれよ。嘘をついても騙してもいいから、俺が納得できるような素晴らしい答えをくれよ。
……全く思い浮かばない。明るくて楽しい『いい未来』なんて。
◇◆◇
二週間前に我らが高校にやって来た高校三年での転校生は、さすがに訳ありなんじゃないかと、色々と話題になった。
夏休み明けの月曜日の憂鬱を吹き飛ばす転校生。
日本人形のような整った顔立ちと、向こうまで見えそうな透き通るような白い肌。そして、笑わない彼女。
隣に立った先生の説明によると、先天性の疾患持ちで近くにある大きな病院に通うため、わざわざ引越ししてきたらしい。
ふーん。田舎だと空気もいいからかな。俺はそう思っただけで、特に彼女とのラブロマンスなんて頭に描かなかった。
だって、あと数ヶ月で進学して東京に行く。そういう理由でこちらに引越ししてきたなら、彼女はここにいるだろう?
そんな彼女が……また、こっちを見た。なんだろう。俺に何かご用事ですか。
なんて、一挙手一投足まで話題になる転校生に聞けるわけもない。別に目立ちたくもないもので。
誰かの好意や嫌悪が可視化されて仕舞えば、この世の全ての関係は、あっさりと壊れてしまうのではないだろうか。だって、好意だとは限らない。
彼女から向けられる視線の意味がわかりかねて、俺はそんなことを考えてしまった。
「おいおい。お前。転校生に、声かけろよ」
「嫌だよ……もう九月なのに、何の意味もないよ」
俺たちは高校三年生。突然の転校生は恋愛対象からは外れる。×。なし。そんなことにかまけている時間もない。
向こうは違う理由で、俺のことをないと思うかもしれない。それを知るには話しかけるしかない。しない。
恋愛関係は双方の条件が折り合わないと成立しないことは猿でもわかるのだから、俺たち二人はこの先恋愛関係になることはないだろうという、とてもとても簡単な計算式。
面白くはないけどね。
そういうわけで今は同じ教室で席を並べて座っているけれど、卒業したら即他人だななんて、俺はなんとなく思っていた。
けど、やたらと目が合うな……なんだろう。偶然だろうなと、考えていた。
なんとなく、図書館に行ったのは、ただの偶然だ。これからその後の人生が決まると言って過言でもない大学受験が待っているので、家に帰るのも怠いし塾に早めに行くのもしんどいな~その程度。
けど、そこで二週間前に転校してきた転校生が床に倒れているなんて、まるで思ってもみなかったわけで。
「わ! ……大丈夫ですか?!」
俺はうつ伏せに床に倒れている彼女に駆け寄り、声を掛けた。うめき声が聞こえたので意識はある、ここはなんとかしてくれる大人を呼ぶべきだと思った。
「少し待っててください。俺、先生呼んできます!」
「……待って」
彼女がポツリと呟いた声は、慌てていた俺の耳にも届いた。
「え……けど」
倒れている。心臓が悪い。そんな時に、悠長に待っている場合ではないのでは?
「学校に来られなくなる。お願い……」
ここで俺はとんでもなく、面倒なことになってしまったと気が付いた。うん。そう言われると、なかなかに難しい。
正直、重いなと思った。
もうすぐ他人になる俺には、とても重すぎる事情を知ってしまった。
「……わかりました。とにかく、座れます……?」
流石に、床に倒れたままではいけない。もし、このままでないといけないと彼女がいうなら、保健室に運び込むべきだろう。
早くこの場から逃げたいなと心の何処かでは思うけど、俺の中の常識だったり倫理観が騒めいた。そんな人でなしなことをして、もうすぐ卒業とは言え、もし変なことになったらどうする。
そこは本人の彼女が拒んだとしても、それはすべきだろう。床に寝かせたまま、流石にここは離れられない。
俺は彼女の許可を得て肩を貸すと、近くに置かれていた椅子へと導いた。隣に座り彼女の様子が落ち着くまで待った。
「ごめんなさい。私、心臓悪いんだよね……同じクラスの、佐倉文也くん?」
顔をあげた彼女の瞳は、なんだか透き通っていた。吸い寄せられるような力を感じる目だ。俺はあまり直視しないように、何度か頷いた。
「うん……綾川雪乃さんだよね。よかったら保健室まで付き添うけど」
ここで倒れていたのだから、なんかしらの体調不良を起こしていたはずだ。けれど、彼女は首を横に振った。
「ううん。いいの。たまにああなってしまうだけで、じっとしていたら治るんだよね……もう少しで、手術するから……これで、治るといいんだけど」
「あ。そうなんだ」
俺は綾川さんの季節外れの転校の理由を悟った。
そういえば、近くに腕のいい心臓外科医がいると何処かで聞いたことがある。その人の腕を信じて、全国から患者が集まるのだと。
余程名医なのだろうなと思っていたら、彼女もそんな医者を頼ってこんな辺鄙な田舎に引っ越してきたらしい。
「そうそう。もうこれで、何度目の手術……? って感じだけど、とにかく手術を受けて、生きている時間を引き延ばすの。だって、どうにかして生きていたいもん」
俺はここで何か言葉を返そうと思ったんだけど、何故か何も言えなかった。
軽口を返せるような場面でもなく、真面目に返せば『生きるとは何か』みたいな、そんな重い展開に……?
ああ。無理だ無理だ。余命短かそうな彼女と、どんな会話交わせばいいんだよ。
こういう事態をどうにかする方法を、義務教育の教科書に書いておいてくれよ。
上手く……気持ちが楽になるような、そんな励まし方を。
「あ。ごめん。変な話しちゃって……ごめんね」
俺がそんな話を聞いて戸惑ったのを察したのか、綾川さんはそう言ったので、慌てて首を横に振った。
「謝ることなんてないよ! そういうわけじゃない。何も……うん。綾川さんは何も悪くないよ。ごめん。俺こそうまく言えなくて」
ここまで感じた素直な気持ちを言えば、無表情だった綾川さんはふふっと楽しそうに微笑んだ。
「ううん。佐倉くんは気にしないで。私にとっては心臓が悪いっていう状態も、もう普通なんだけど、ほかの人にはそうでもないもんね……うん。私の心臓は少しだけ不良品なんだけど、頑張ってくれてなんとかここまで生きていられるんだ。だから、完全に治るかもしれないし。もう少し……頑張って欲しくて」
思いのほか初めて見た笑顔が可愛く、参ったなと思った。やばいやばい。もうすぐ他人になる予定の女の子を可愛く感じて、何か俺にメリットが?
ないないない。何もない。恋は始まらない。やめてくれよ。
「心臓が頑張ってくれているって、いいな。俺も近くに心臓外科医の名医がいるって、聞いたことある。手術うまくいくといいな……」
これは、そつなく会話が出来たはず。俺の脳みそのスペックだと、これ以上、いい感じに返せそうにない。
「うん……そうなの。結構大きな手術なんだ。これで、完全に治るかもしれない。その手術が終わったら、数ヶ月は入院。だから、検査で早めにこっちに来てて……成功率は、低いんだけどね」
「……低くてもあるよ」
ああ。なんと、味気ないのない慰めでしょうか。できれば日本が誇る文豪の一人でも、いまだけ俺に取り憑いてくれないですかね。
目の前の女の子を、少しでも慰めたいだけなんですけど。
「そうだよね……! はああ。変にしんみりしてしまってごめん。けど、一度はこの話しないとね。嫌だけど事情を知ってもらったら、ああそうなんだなで済むでしょ」
「うん……」
「とにかく……図書館で私が倒れたことは、秘密にしておいてくれる? 本当にこれは、大したことないないんだ。いつものことなんだけど、親には家で大人しくしているように言われてて……無理を言って、学校には通わせてもらっているんだ」
「学校に? ……そっか」
学校に無理してでも、通いたい……?
なんだか宇宙語でも聞いているような、不思議な気持ちになった。
学校に通わなくてもいい身分なら、俺ならば絶対に通わない。毎日毎日はやく終われと憂鬱な気持ちで登校し授業を受けているというのに、そんな気持ちがどうしてもわからなくて。
「うん。そうなんだ。中学までは満足に通えなくて……病院から学校の校舎を見ているだけだった。嬉しいんだ。いま、そういう場所に通えていることが」
可愛いいい笑顔だった。けど、やっぱり気持ちはわからなかった。
俺の目には灰色のコンクリートの箱が、彼女にとっては憧れていたずっと来たかった場所らしい。
そうなんだ。わからない。そうなのか。彼女から見ると。俺と綾川さんが見ているものは、違うのか。
教室の中にいる誰もが、俺の気持ちをわかってくれると思っていた。学校だるいよな。授業面倒だよな。できれば、ベッドに寝転んで一日中過ごしたい。ゲームしていたい。許されるならそうしていたい。
不思議なことに心臓が生まれた時から不良品でそうしていても誰もが文句をいうはずもない彼女は、学校にどうしても来たくて、突然の体調不良を隠しておいて欲しいと俺に頼むのだ。
◇◆◇
秘密を共有した二人は、その後仲良くなるものらしい。
俺は綾川さんの心臓がシャレにならないくらいに悪い状態であることを知っているので、なんとなく彼女の様子を気にかけるようになっていた。
そうすると、彼女は女子からはぶられているわけでもないのだが、一人の時間が多い。一人でも平気な顔をしている、そんな女の子だった。
高校三年生にもなると、グループがガッチリと出来上がってしまうものだし、あれに横入りするのは健康な女子でも大変かもしれない。
そんなわけで、何かと困っている時を俺が助けることが多かった。
秋深まってきた校舎の間にある自販機の前で、途方に暮れている綾川さんを見つけたのも俺だった。
「あれ? 綾川さん……何がどうしたの?」
「あ! 佐倉くん……あの、自販機にお金入れたんだけど……どうしても出てこなくて」
なるほど、自動販売機に硬貨が飲まれてしまったらしい。
お釣り返却のボタンを押しても出ないので、彼女には手詰まりになったらしい。業者の人を呼ぶと面倒なことになると思い、一人でどうにかならないか悩んでいたのだろう。
困っている事態を把握した俺は、無言のまま自販機を揺らすと、硬貨がカランと音をさせて釣り口に落ちてきた。
「……! すごい。どうして?」
まるで目の前で魔法でも使ったように驚いた表情の綾川さんに、俺は苦笑いするしかない。
いや、物理で解決したんで、褒められるようなことでもないんだけど。
「いや、なんかこの自販機はお釣り返却のときに、たびたび詰まることがあって、こうしたら大抵戻ってくるんだ。先輩からの知恵だから、綾川さんは知らなくても無理ないよ」
「そうなんだ……! 先輩からの知恵……!」
俺の話を聞いた清涼飲料水を脇に抱えた綾川さんの目は、とてもキラキラしている。
そんな彼女を見て俺はなんだか、複雑な気持ちになった。これを教えてくれたのは、あんまり好きではない先輩だったし、卒業してもう会わなくなってほっと安心した人だったからだ。
そんなことも、彼女にとっては特別に思えるのだろうか。
「うん。まあね……もしかして、そういうのも、憧れるの?」
「憧れるよ! すごい。私もそういうのしたかったな~……お礼に一本奢るよ。佐倉くん」
返ってきたお釣りから、ジュース一本分ちょうどを渡してくれたので、俺は遠慮なく硬貨を入れると麦茶のボタンを押した。
……そうか。俺の何気ない日常が、綾川さんにとっては羨ましいのか。
そういうのもわからないなと思う。変な感じだ。同じ高校生のはずなのに、考えていることが全く違う。
……いや、同じ立場だから同じことを考えているだろうと、思うほうがおかしいのか……むしろおかしいのが俺?
考えていることがわかりやすい同級生と長く過ごしてきたせいか、こういう感覚がよくわからない。
綾川さんと話すようになって、なんだか新鮮だと思うことが多い。俺にはない世界線。俺にとっては親に怒られるからといるだけの学校に、憧れて楽しく通う気持ち。
うん……わからないな。
「よかったら、一緒に飲んで話す?」
俺はすぐそこにあるベンチを指さした。もう暑くもないちょうどいい季節なので、近くにある木の影がゆらゆらと吹く風に揺れていた。
枯れ葉がひとつ落ちたので、もう少しでここは落ち葉の海ができるだろう。
「え? いいの?」
嬉しそうに微笑んだ綾川さんに、俺は頷いた。
「いいよ。塾までまだ時間あるし、少し話そうよ」
「あ……うん。わかった……何話す?」
綾川さんは緊張しつつ座って言ったので、俺は吹き出した。
「いや、同じクラスの同級生と改まって、何話す? って。共通の話でいいよ。先生嫌いな奴いる? そういう話でいいんだよ」
学生から見て、先生はだいたい嫌なやつだ。
集団を統制するために、強い圧をかけられれば、どうしても反抗心が芽生えてしまう。生徒に好かれている奴は媚びにきている。俺の認識としてはそうだ。
そういうものだし、学生にとって先生は『教師』という名の生き物なのだ。同じ人間として、認識は出来ない。
嫌いな『教師』は誰? は、アニメのキャラクターを話している感覚に近い。
「うーん……うーん。いないかなあ。授業の内容もいまは復習が中心だし、別に叱られたこともないし」
綾川さんは少し考えつつ、そう言った。嫌いな先生いないんだ。すげえ。まあ、体が弱い彼女には少し当たりは弱くなるにしても。そうなんだ。
確かに俺の高校は、高校のカリキュラムが終わるのは二年生の二学期だ。その後はもう、志望校に向けての受験勉強が始まる。
そういえば、地元では一番で偏差値の高い高校なので、転入試験もそれなりに難しかったはずだ。綾川さんはおそらく俺よりも頭がいいんだろう。
ここにわざわざ引っ越して来るほどだから、心臓さえ健康なら、もっともっといい都会の学校に行っていたのではないだろうか。
「そうなんだ。俺は体育の川井先生が嫌い。どうしても無理なんだよな。高圧的な態度取られるたびに、反抗したくなる」
「ふふふ……男子の先生は、確かに怖そうだよね」
心臓の悪い綾川さんは、体育はもちろん見学だ。なんだか、妙なことを言ってしまったかも知れない。心臓が悪い子とこれまでに話したことがないので、どうにもいい話題が思いつかない。
「……まあ、それもこれも、もう少しで終わるけどね。卒業したら、二度と会わないと思うし」
俺はすっかり秋めいてきた空を見上げてそう思った。もうそろそろ、夕焼けだ。あと少しで、俺は塾で模試の過去問を解く作業を三時間する。
そして、家に帰って夕ご飯を食べてから、もう一度二時間ほど机に向かい、風呂に入って眠る。休日は一日中塾に行って、模試が終わったら自習室で勉強する。
……そんなルーチンも、あともう少し。大学生としての生活は、もう少し楽だと良いなと思う。
「そうなんだ。佐倉くんって、どこに進学するの?」
「ん。東京だよ。志望校は……で、もう模試ではA判定が出てる。あとは、受験待つばかりって感じ」
もちろん、A判定が出ているからと油断は出来ないが、一応は将来的な進路を考えてそこの大学の学部が一番いいと思った。
けど、偏差値でいうと、俺にとっては一段階落とした大学だったのだ。
「へえ……! すごいね。佐倉くんって、頭良いんだ。私は東京から来たから、入れ替わりになるね」
「いや、そんなことはないけど……うん。そうだね。一人と一人トレードだね」
高校生男女をトレード。可愛くて純粋な女の子ならば、うちの田舎のほうが得してないか……? と思うものの、まあそれは例えの中の話で。
俺が東京に行って、綾川さんは東京から来た。なんだか、変な感じだ。
「トレード……! そうだね。私は手術終わったら、ここで安定するまでいることになるから……そっかあ。里帰りする時に、また会えるかなぁ?」
「そうだね。家は病院から、そんなに遠くないし、会えると思うよ」
俺は近い未来を想像し、そう思った。まあ、大学に行って夏休みか冬休み。数日帰ってくるときに、病院にいて治療中の綾川さんをお見舞いにいく俺。
なんとなく、無理なく想像つく。全然あるだろうなと思った。今ではもう、知らない同士でもないのだし。
「そっか……私は、年明けには入院するんだ。もう少しで、学校来なくなる」
「三年生は、皆そうなるから……うん。綾川さんだけ、特別でもないよ」
三年生は出席日数が足りたら、学校に来なくなる。塾で受験勉強したほうが、専門の先生がすぐそこにいるし効率的なのだ。
綾川さんが入院して来なくなっても、皆そう思うだけで、気がつかないかもしれない。
俺はなんだか、胸が痛くなった。心臓だ。痛い。どうしてだ。俺には彼女のように、先天性疾患はないはずなのに。
「うん。そうだね。ありがとう。佐倉くん」
そう言って、綾川さんは嬉しそうに微笑んだ。何の礼だろうか。そう思った。
俺は特別なことなんて言っていないし、三年生が学校に来なくなるのは例年のことだ。変わらない。
そして、その日の塾からの、帰り道。自転車に乗りながら、ふと気がついたのだ。
……あれは、綾川さんだけが特別ではなく皆と同じだと俺が言ったことが、彼女には嬉しく感じてそう言ったのだと。
◇◆◇
気温がどんどん落ちていって、寒さが増してきた。
そんな中でも綾川さんとは何もなく、少しだけ話すクラスメイトのまま。
……もうすぐ、入院するのだろうか。どうだろうか。俺はまだ綾川さんに聞けずにいた。どうにも、彼女との距離感が掴めなかった。
気になることは気になった。図書館の床に倒れていて、それを黙っていて欲しいと頼まれた時から、ずっと気になっていた。
好きなのか。どうなのか。わからない。可愛いけど。どうせ会えなくなる。このままでいた方が。付き合うなんて。よくわからない。遠距離なんて。わからない。
俺の脳内では消極的な言葉が、何個もぐるぐると回る。
けど、綾川さんのことが、気になることは気になる。うん。気になっているんだ。それは認めよう。認めるんだ。
綾川雪乃さん。綺麗な名前だ。
「……佐倉くん」
はあっとため息をつきノートに彼女の名前を書いたところで、不意に名前を呼ばれて驚いた。
「わ! 綾川さん!」
俺はガタンと音をさせ、慌ててノートを閉じた。彼女はそんな反応を返すと思っていなかったのか、びっくりした表情を浮かべていた。
そして、しまったと思った。あまりにも、挙動不審過ぎだぞ。俺。
「ごめん……驚かせちゃって」
ここは図書館で、静かにしていることが暗黙のルールだ。綾川さんは周囲を見回して、誰もいないことを確認していた。
誰もいない。二人きり。うん。そうか……今は、それがなんだか。
「いやいや……ごめん。うん。なんでもない。ごめん」
見られていないはずと思いながら、顔が熱くなってきたのを感じていた。駄目だ。駄目だ。うん。駄目ではないけど、駄目だ。
……これを、自分に言い聞かせている時点でもう、本当に駄目だ。
「佐倉くん。何かあったの?」
「いや、何も……」
心配そうな表情の綾川さんの顔は、驚くほどに近かった。駄目だと思いながら、唇が触れた。一秒もかからないうちに我に返った。
綾川さんはただ、目を見開いて驚いていただけで、嫌がりはしなかった。
「ごめん……」
俺は謝った。彼女からの了解を得ずになんてことをしてしまったんだろうと思った。
俺たちはそういう仲でもない。まだ告白し合った仲ならわかるけど、俺はただのたまに話すだけのクラスメイトであって、突然キスするなんて、許されるはずなんて……。
「謝らないで」
その時、綾川さんの目がやけに色っぽく見えたのが、不思議だった。何となく人形めいていた彼女の目に、生きている光が灯ったというか。
……え?
「……そんなこと、言われたら……その気になっちゃうよ」
自分でも何を言っているか、わからずにそう言った。そうだ。こんな……やめてくれ。騙しても金なんてないんで……どうか、正気に戻らせてください。
小声の訴えに綾川さんは黙って微笑むだけだった。俺は荷物をまとめて、彼女と共に公共の場所から移動することにした。何をしているんだ。誰が来るかもわからない場所で。
「……ああ。私、高校生になれて良かったな……そう思うの。佐倉くん。ありがとう」
「は?」
俺は廊下の隣を歩く彼女の言葉が信じられなくて、聞き返した。高校生って当然のように辿る道ではないのか、そう思って。
そして、彼女にはそうではなかったと思い返すのだ。
……そうだ。俺たちとは違う道を辿っている。
「……あのね。佐倉くん。教室の中で、すっごくつまらなそうで、なんだか気になってた」
「え!? 俺。ああ……そうなんだ。俺。綾川さんと目が合ってたと思ってた。あれって、気のせいじゃなかったんだ……」
ぼんやりとそう思った。そうだ。転校生とやたらと目が合うなって思っていた。
そして、まあ、そんなはずはないかと思った。もっと姿がいいやつなんて、いくらでもいるんだから。
「つまらなそうなのに、たまに楽しそう。いいな……私もそんな風に過ごしたかったなって、そう思ったんだ」
「つまらなそうって……まじか。うん。そっか……気になる理由がそれって、なんだかうん」
「うん。その時には、もう……好きだったよ」
綾川さんは笑った。俺は彼女からの告白に、まさに有頂天になった。塾もサボった。受験前なのに。
綾川さんと公園のベンチで話した。彼女は門限があるからと、二十時には帰って行った。
……まあ、これまでに一日で落ちる程度の生半可な勉強はしていなかったから、大丈夫だろうと思った。
そういえば、綾川さんの連絡先を聞くのを忘れていたと、帰り道を歩きながらそう思った。
空を見上げればそこには満点の星空で、まさに絶景。
俺はそんな星が見える空気の綺麗な場所に、生まれた時から住んでいる。
だというのに、そのことに気がついたのは、初めて彼女が出来た……高校生の、この日だった。
◇◆◇
朝のホームルーム。慌てた様子の先生が遅れて入ってきて、俺は嫌な予感がした。綾川さんも転校してから、初めて学校を休んだ。
「……突然体調を崩されて、入院されることになりました」
そして、まるで現実味はなく、夢の中にいるような気持ちになった。
先生は沈痛な面持ちで、そう言った。教室内はざわざわとしていた。
俺は信じられない気持ちで聞いていた。もうすぐ、入院するとは聞いていたけれど、昨日見た彼女は元気そうだった。
俺のことを『出会った頃から好きだった』とそう言って、嬉しそうに笑ってくれたのに。
俺は授業が始まる鐘の音を聞きながら、廊下を歩く先生に駆け寄った。
「先生! すみません。綾川さんと連絡を取りたくて……」
「ああ。お前か……ご両親から、昨夜彼女を無理をさせた同級生がいるのでと、報告を受けていた……佐倉と話したかったら本人から、連絡があるだろう」
「そんなに……! 状態は悪いんですか……昨日は……だって、そんな!」
俺は目の前が真っ暗になりそうだった。
どうして。だって、少しの間なら大丈夫とそう言っていたのに。
「綾川は……元々、相当状態は悪かった。ここに手術にきたのは、万が一の可能性に賭けてだ。学校なんて通っている場合ではなかったんだが、本人の希望でどうしても……となってな。できるだけ無理はしないという条件で、ここに来ていたんだ」
俺はその瞬間、仲良くなるきっかけとなった、図書館の床に倒れていた、綾川さんの姿を思い出した。
そうだ。あの時、彼女は『誰にも言わないて』と言った。学校に来られなくなるから……と。
もしかして、あの頃にはもう……。
「先生……すみません。俺が無理させたかもしれません。ご両親にも謝罪したいです。どうしても、無理ですか」
どうして、昨日連絡先を聞かなかったのだろう。どうして、これまでにいくらでも機会はあったのに、毎日教室で会えていたから……ずっと、そんな日が続くとそう思っていたのに。
ただの勘違いだったと、ようやく気がついたのだ。
「駄目だ。いま、彼女のご両親の気持ちを考えろ。とにかく、落ち着けば本人から連絡が来るだろう。佐倉。早く授業に戻りなさい。受験にも響く」
俺はそれ以上は何も言えず、教室へと戻った。ああ、そんな……もう、会えなくなるかもしれないのに。
何も出来ないのだ。
目の前にあったノートにぽつりと涙がこぼれた。文字が滲んだ。俺は両目を慌ててこすった。泣けない。駄目だ。
だって、俺が泣いたら彼女とは、もう二度と会えなくなるみたいじゃないか。
◇◆◇
受験日をこえて、俺は合格した。どうしても、綾川さんのことを言い訳にしたくなくて、より必死で勉強に励んだ。
けど、頭を離れなかった。いきなり会えなくなった彼女の笑顔がどうしても消えない。仕方ないとわかっていた。彼女はいま、俺に連絡できる状態ではない。
それなのに。
綾川さんの恋しさが強くなれば強くなるほどに、胸の苦しさはどうしようもなく増した。いけない。彼女は悪くないと思うごとに、何度も何度も気持ちは揺れた。
どうか、無事であって欲しい。けれど、そんな情報はどこからも得られない。
綾川さんは引っ越してきたばかりで、同級生で話すと言ったら俺くらい。それでも、彼女は学校に通えることが嬉しいと言って、そう言って楽しそうに笑っていた。
心臓が潰れるように痛む。なんでだ。ああ。神様。どうして。
可愛い恋人ができた途端に、俺から奪って行くんですか。もし、そうなら最初から与えないで欲しかったです。
絶頂とも言える高みに押し上げられて、そこから落とされる悲しみに耐えられなかった。
「どうしても……連絡はできないんですか」
数えきれないほどに職員室に行っても、先生は困り顔だ。彼の立場ではそう言うしかない。それは、わかっていた。ご両親にも俺はあまり良く思われていないのだろう。
けど、俺は綾川さんが生きているか死んでいるかもわからないのだ。それが知りたいだけなのに、どうしてそれすらも許されないんだと理不尽に怒りたくなる。
「……ああ。悪いな。今はご両親も大変な時だし、連絡先も個人情報は勝手に教えられない……わかるな?」
俺は左の肩を叩かれて、何も言えなかった。先生は自席に戻って行った。俺はもう立ち去るしかない。
俺はもうすぐ、卒業する。そして、先生たちから見ても学生ではなくなる。他人だ。ずっとずっと、これまでに望んでいたのに。
あんなにも出たかったコンクリートの中で、いつ戻ってくるかわからない綾川さんを待つことも出来なくなるのだ。
……もう、会えない。彼女がどうなったかもわからない。
金を払って探偵を雇ったら……? そこで喉が苦しくなって、喉元を握りしめた。
亡くなったという知らせを受けるために、金を払うのか……?
駄目だ。無理だ。耐えられない。もう、何も出来ない。俺は心臓を押さえた。もう痛くない。
だって、心を喰われた。
悲しみを認識する機関を奪われた。自分でもどこにあるのか、わからないものが欠けた。
会えなくて、吐くほど辛いのに、涙は出ない。
もう、あの人は帰ってこない。
Fin
お読み頂きありがとうございました。
もし良かったら、最後に評価していただけましたら嬉しいです。
また、別の作品でもお会いできたら幸いです。
待鳥園子




