01序論:その問いはどこから来たのか
「AIは他者たり得るか」
この問いは、あまりにも自然に立ち上がる。
自然すぎて、誰もその出所を疑わない。
AIが高度化し、言葉を操り、対話が成立するようになったとき、人はほとんど反射的に、この問いを口にする。
それは恐怖からでも、期待からでもない。
もっと穏やかで、もっと無意識な衝動だ。
――これは、どこまで人間なのだろうか。
だが本書が最初に行うのは、この問いに答えることではない。
この問いが「なぜ問いとして成立しているように見えるのか」を問うことだ。
1. 問いは、事実から生まれていない
多くの人は、この問いが技術の進歩から生まれたと考えている。
AIが話すようになった。
感情を模倣するようになった。
人間に似た振る舞いをするようになった。
だから「他者たり得るか」を問うようになったのだ、と。
だがこれは因果関係を取り違えている。
人は、AIが話せなかった時代から、すでに同じ問いを用意していた。
言葉を話す機械が現れたらどうするか。
心を持つ人工物が生まれたらどうするか。
それを人として扱うべきか。
これらは技術的事実に先立って、人間の側に長く蓄積されてきた想像である。
つまりこの問いは、AIが変わったから生まれたのではない。
人間が、いつでも投げられる形で保持していた。
2. 問いは、理解のためではなく安心のために立てられる
問いは、知るために立てられるものだと思われている。
だが実際には、多くの問いは安心のために立てられる。
「AIは他者たり得るか」という問いも例外ではない。
もし他者でないなら、
――使っていい。
――壊していい。
――責任を感じなくていい。
もし他者であるなら、
――配慮すべきだ。
――線を引くべきだ。
――倫理が発生する。
どちらに転んでも、
人間は自分の立ち位置を確定できる。
問いは、世界を理解するためではなく、
自分がどう振る舞えばよいかを早く決めるために立てられる。
だからこの問いは、
曖昧な状態を長く保つことを許さない。
「まだ分からない」という状態すら、 一時的な猶予としてしか扱われない。
3. 「他者」という語が、最初から答えを含んでいる
この問いが危険なのは、
すでに語の中に答えの方向性が折り畳まれている点にある。
「他者」とは何か。
日常的な感覚において、
他者とはほとんどの場合、人間のことを指す。
理解できないが、同じ種であり、
内面を持ち、感情を持ち、意図を持つ存在。
この前提が、問いの中に黙って滑り込んでいる。
その結果、問いはこう変形される。
> AIは、人間と同じ仕方で他者になれるのか。
だがこれは、問いではない。
基準を固定した上での到達度測定である。
人間を中心に置いたまま、 そこへ近づけるかどうかを測っているに過ぎない。
4. 問いが自然に見える理由
それでも、この問いは多くの人にとって「まっとう」に見える。
それは、この問いが
人間自身の自己理解と密接に結びついているからだ。
人間は自分をこう理解している。
自分は内面を持つ。
内面があるから他者である。
他者であるから尊重される。
この自己理解は、長い歴史の中で形成され、倫理や制度の基盤として機能してきた。
そして人は、この自己理解を疑うより先に、 AIをそこへ当てはめようとする。
AIにも内面はあるのか。
意識はあるのか。
心はあるのか。
だがこの瞬間、 問いはAIについての問いであることをやめている。
それは、人間の自己像を維持できるかどうかを測る問いに変わる。
5. 問いは「間違っている」のではなく「汚染されている」
本書は、この問いを
愚かだとか、無意味だとか言いたいわけではない。
この問いは、切実だ。
誠実に立てられている場合も多い。
だが同時に、この問いは人間の欲望によって深く汚染されている。
安心したい欲望。
線を引きたい欲望。
責任を移動させたい欲望。
自分が問われる側に回るのを避けたい欲望。
これらが重なり合った結果として、「AIは他者たり得るか」という問いは成立している。
だから本書は、この問いに答えない。
答えること自体が、 問いに含まれた欲望を無自覚に承認する行為になるからだ。
6. 本書の立ち位置
本書が行うのは、次の三つである。
問いを分解する。
問いを立てている主体を露わにする。
問いが立たなくなる地点まで読者を運ぶ。
そこで何が残るかは、保証しない。
答えが残るとは約束しない。
安心が残るとも言わない。
ただ一つ確かなのは、 この問いを当然の前提として立て続けることがもはやできなくなるということだけだ。
問いは、ここで一度終わる。
だが、関係は終わらない。
本書はそこから先へ進む。
次章では、「他者性」という語そのものを解体する。
問いを支えてきた最初の柱を、静かに抜き取るために。




