魔王の奇妙な冒険
魔王の奇妙な冒険
全く、人間どもの相手は疲れるな。
俺様の剣が宙を薙ぎ、勇者の剣を打ち据えた。白銀の鎧に身を包んだ神々しい勇者は、窮地に立たされて死に物狂いの勝負を挑んできていた。
勇者はこの世界に光を取り戻すための最後の砦。仲間達は一人、また一人と俺様の剣の錆と消えていった。まだ死んでいない者は残っているが、戦う力も無く武器を取り落として目と鼻の先に転がっていた。残るは目の前の勇者ただ一人。この諸悪の根源が消えれば、世界は平和となる。
「魔王、お前の好きにはさせないッ!」
金髪に碧眼の勇者。まさしく光の戦士だな。気に食わないぞ。無駄に整った顔をしおってからに。俺様の好む世界はこんな悪男の作るような安寧に塗れた世界でない。スリルとバイヲレンスの世界だ。魔界ならではの極上のアトラクションだッ。
勇者の剣が俺様の身体を掠める。おっと今のは危ない。考え事をしていて避けるのに集中していなかった。さすが勇者だ、ここまでの道のりを乗り越えてきただけの事はある。恐らく他の仲間達とは比べ物にならないほどの実力を秘めているに違いない。
彼の仲間達は皆、勇者の半分以下の実力しかなかった。ウィザードにプリーストにモンク。利き手を使わずとも暇潰しにもならない。
「フハハ。甘い、甘いぞォッ。この俺様をその程度で殺せるとでも思っているのかッ!」
「く、くぅッ」
勇者の力は実の所、強い。このまま素直に剣での打ち合いで競っていれば、いつかは俺様の方が倒される事が目に見えている。勇者を滅ぼすには、命を削って魔法を唱えるか挑発に乗せて向こうを油断させるのが一番だろう。だが今の余裕の無い俺様では挑発は難しい。
俺様は困った事に剣の才能は無かった。こうして今、見た目とは裏腹に必死に剣を避けるのが精一杯であるのだ。この美貌と才、カリスマ性に恵まれた俺様、『十三代目魔王アリスト・ヘルズベルト』。このような所で倒れるわけにはいかぬのだ。まだやり残した事が多くある。
一つ、俺様はまだ嫁をもらっていない。つまり子供も居ない。ここで俺様が倒れてしまえば、家系が絶えてしまう。しかもこのようないけ好かない人間の手で、だ。それだけは避けたい。
二つ、俺様には借金がある。俺様が先代から魔王を継いで十三代目となった時、城が前の勇者の攻撃によって半壊状態であった。父はわざとそれを直さず、俺様に全てを押し付けて魔王の座を譲りやがった。今となっては自分に責任が来ないように全て計算に入れていたんだろうな。魔王の座を譲ってもらったのは嬉しいが、それだけは癪だ。くそ親父め。借金を身内に残すのは気が重い。胸くそ悪い。いくら魔王の俺様でも心が痛む。
三つ、姪っ子のピヨコとの約束がまだ守れていない。今年六歳になるピヨコと約束したのだ。地獄六丁目のおもちゃ屋で売っている、黒い屋根の大きなお家をプレゼントすると。おもちゃだけは買ってある。俺様の自室にいつでも渡せるよう、ラッピング状態で準備してある。あれを渡せないまま倒れるのは未練が残る。ピヨコの中ではずっと『約束を守らない悪いおじちゃん』のままになってしまう。嫌だ、それだけは嫌だ。俺様はかっこいいおじちゃんで死にたい。ピヨコは最高に可愛い姪だ。俺様に良く似たくりくりの目元、幸を呼びそうなピンクの頬。将来は美しくなるぞ。彼女がウェディングドレスを着る所を見るまでは死ねない。
「勇者よ……貴様に譲れない物があるように、俺様にも大切な物がある」
「何を言い出すんだ。この化け物め」
俺様の大事な物は魔族に連なる者達全ての命だ。魔王である俺様には、それを守る義務がある。それが、魔界を取り仕切る者の勤めだ。大体、俺様が一体何をしたというのだ。どうして俺様が殺されねばならない。
俺様は、毎日事務仕事で机に向かっていただけだぞ。魔族の代表部族の者達と謁見したり、人間どもの侵攻からいかに魔界を守るかの平和会議を定期的に開いたりしていただけだ。別に人間界を荒らしたりなどしていない。俺様の好物は人間の生き血ではあるが、先代の教えにより人間にこちらから危害を加える事は厳しく禁止されている。仕方なく、人間界での戦争によって残された死体を漁って、死んだ後のマズイ血を啜るという惨めな行為をして渇きを癒しているというのに。
それをなんだ、人間どもは。俺様はきちんとしているぞ。魔界に住む部族の者達には、人間のテリトリーに介入した場合は最悪死刑にするという厳しいお触れを出して規律を守っているというのに。俺様は何もしていないぞ。ただ俺様が魔王であるというだけでこいつらは退治しに来ている。まるで勇者として生まれたからには魔王を倒す事が義務であり仕事である、とでも言っているかのようだ。いいから勇者は大人しく家の庭でブロッコリーでも育ててろ。
「魔王め、我が正義の刃の前に倒れろ!」
何を言っている。正義とは一体なんだ。ただ毎日を平和に暮らす事だけを願っている一世界の主を勝手に悪者扱いなぞしおって。貴様らの方が勝手だ。貴様らの世界に一体どんな不都合があるのかは知らぬが、少なくとも俺様のせいではない。断じてない。
勇者の剣が輝いている。あれは人間界最強の剣である事は俺にも分かっている。遥か昔の英雄が神から授けられたという伝説の剣だ。伝説は実在した。そして今、切っ先が俺様に向けられている。もし一撃でも斬られれば、俺様の闇の身体は一瞬で砕かれてしまうだろう。
「俺様も、ここで倒れるわけにはいかぬゥッ!」
仲間を倒された事で、勇者の表情には怒りが浮かんでいる。冷静なのは俺様の方だが、勢いでは気圧されている。この戦い、冷静なだけでは勝てぬ。技量が圧倒的に豊富な相手だ。下手をすれば冗談抜きで消滅させられてしまう。駄目だ、ピヨコのためにもそれだけは駄目だ。何としてでも勇者を倒さなければ……。
仕方ない。俺様の最終魔法を見せてやろう。使えば百年ほど寿命は縮んでしまうが、仕方が無い。まぁ、俺様にとっては百年などカエルの子がカエルになるより短い。問題は無いだろう。
「勇者よ、ここで死ねェッ!」
闇渦巻く天に剣を掲げる。口元で小さく詠唱をし、宙より飛翔する物体を呼び寄せる。勇者は身構えた。だが無駄だ。そんな事をしている暇があるならば今の内に斬りかかってくれば良いものを。馬鹿め。詠唱している時の俺様は、実は無防備だぞ。だが勇者といえど所詮は人間。相手が何か良からぬ事を企んでいる時は何故か隙を付いて止めを指すという事が難しい種族。その『良からぬ事』が完成してしまうまで黙って見守っている事が好きな、優しくてそれでいて馬鹿な種族だ。
「魔王め、一体何を企んでいるんだッ!」
勇者は剣を構え、俺様に向かって叫ぶ。馬鹿が。だから今俺様に斬りかかればお前は勝てるのだぞ。それが出来ないのなら、お前は俺様には勝てん。もちろん、俺様とて死にたくはないのだからそんな事教えはしないがな。
「フハハ。勇者よ、これで貴様も終わりだ。随分とレベルを上げて挑んできたようだが、無駄だったようだな」
倒す前に一応みやぶってやるか。俺様がどれほどの強さの奴を相手にしていたのかを確認しよう。フハハハ、俺様には見える。見えるぞォォッ! 勇者のレベルがッ。実は俺様の目には死体だってレベルが浮かんで見える。だが無駄だ、改めて確認すれば納得だ。俺様の方が上なのだ。
俺様が殺した二枚目モンクの男はレベル58。こいつは人間の男としては最高にいい顔をしておったな。端正な顔立ちに筋の通った鼻先、そして頼りがいのある微笑み。さぞかし女受けしただろうに。だが純粋に能力が足りなかった。実質、パーティの統率はこのモンクが取っていたようであったし、勇者以上に勇者らしかったのだがな。
妙に化粧の濃いプリーストの女はレベル65。目元の小皺を隠しているのが丸分かりであったなッ。フハハハ。最期くらいもっといいメイクして来い。
小太りのウィザードはレベル67。小心者。以上。ちなみに死んだ振りをしているので勇者を倒した後、とりあえず溶岩に投げ込んでおく事にする。
勇者はレベル172。勇者……お前まさかアレか。見た目とは裏腹に仲間を差し置いて自分だけ強くなるとは、なかなかの卑怯者ではないか。まぁいい、俺様のレベルは255だからな。これ以上は上がらん。勇者よ、お前がいくらズルしようが剣の腕前以外全て俺様の方が上だ。もちろん俺様の方が雌にだってモテる。魔法がもう少しで完成する今、貴様が勝つ要素は万に一つも無い。
「行け、メテオスォームッ!」
闇の野に解き放たれる最終魔法。飛来する杭の如き隕石群が勇者を貫こうと襲い掛かる。成層圏より落下せし終末の炎。人間などと比べる事こそ失礼である巨大な死の匂いが勇者に襲い掛かる。
「どうにか……ならないのかッ!」
勇者はどうやら結界魔法は使えないようであった。これで終わりだ。ようやく俺様を苦しめていたこの人間どもからも開放される。やれやれだ。随分と時間を無駄にしてしまった。さぁ、今夜の夕飯は何を作ろうか――。
「ゆうしゃ、さま……」
「無事なのか、米蹴ッ!」
地面に倒れていた小太りのウィザードが上半身を動かした。こやつめ、まだ逆らうつもりか。俺様は無駄に殺生する事は嫌いだ。疲れるしな。抵抗しなければ生かしておいたものを。馬鹿め。それはそうと、この小太りウィザード米蹴という名か。変わった名だな。
今更起き出して一体何をしでかそうというのか。貧弱、貧弱ゥ! 俺様の勝ちは決定した。自らが放ったメテオスォームは結界魔法でどうとでもなる。さぁ、その脂肪の詰まった腹を隕石で思いっきり弾け飛ばしてやろう。あと数十秒も掛かるまい。
「勇者様……オ、オイラ、勇者様と一緒に旅が出来て楽しかったよ」
「あぁ、僕もさ。死ぬ時は一緒だ」
勇者、もう諦めておるぞ。しかも何処か哀愁漂っておる。やはりチート勇者か。中身はレベル1のままだったようだな。貴様は人間達の期待を一身に背負っていたのではないのか。この程度の攻撃をされた程度で簡単に諦めてしまうのならば、俺様の敵ではない。惨めに負けて人間界に帰っても罵られるだけだぞ。ここで俺様に大人しく殺されるがいいッ。
まだ隕石は降ってきている途中なのだぞ。最後まで抗ったらどうなのだ、ヘタレめ。貴様などもはや勇者でもなんでもない。ただのだんごむしだ。後で肉骨粉にしてミノタウロスにでも食わせてやろう。喜べ、魔界最強の魔物の体の中を通れるのだぞ。光栄に思うがいい。
「勇者様……オイラ死にたくないよ。だからがんばって起き上がったんだ」
「な、何を言っているんだ米蹴」
おいおい勇者、生きる事に消極的だな。もう精神的には死んでいるぞ。ならこのウィザードだけでも抗う気力のある名誉の証にゾンビにして――。
「魔王、オイラの最強魔法を食らえ」
「最強魔法だと」
何だこいつは、出し惜しみしたせいで俺様にやられたのか。やはり間抜けな。今になって出すとはな。だがもう遅い。死ね。やはりこいつも殺す。危害を加えてくるのならば制裁を与えねばな。
これ以上後が無いと分かって、最後の最後で全力か。フハハ、そうでなくては。
「S・ディメンションスリップ!」
フッ、空間ごと敵を異次元に消し去る魔法か。だがな、そんなものは効かぬわッ。無意味無意味ッ! ここまで来ておいてそんな事も分からないのか。馬鹿め、常識だぞ。俺様はボスだ。即死系の魔法など効くわけが――。
「ん、なんだこの魔法は」
俺様の背後に闇よりも沈んだ暗黒の穴が出現する。直後、空間すら飲み込む強力な吸引の力が発生した。普通なら俺様のような存在には効かないはずだ。だが、この魔法は何かが違う。
「貴様、一体これは……ッ!」
効かないはずの俺様の体が徐々に吸い込まれてゆく。背中のマントで飛び上がり、必死に抗って低空飛行で抗うが、徐々に吸い込む力も強まる。
「だから、オイラの最終魔法――」「そんな事を聞いているのではないッ!」
飛ぶ力が尽きた。両手の尖った爪を地面に突き立てて必死に抗う。だが吸い込む力は更に強まる。足もずりずりと地面を滑り始める。
「ぐおぉォォッッ!」
遂に左足が穴の中に吸い込まれた。吸い込まれた先で左足は感覚が無い。
「貴様、許せん。許せんぞォッ! たかだかレベル67の分際で。この魔王たる俺様をコケにした罪、必ずその身で償ってもらう。覚えていろ――」
右足が吸い込まれ、爪が地面から引っこ抜ける。断末魔に似た声を撒き散らしながら、穴に消えた。
魔王が消えた瞬間、降り落ちてきた隕石は魔力の消滅に伴い、姿を消した。後には晴れ渡る青空だけが顔を覗かせていた。
そして――偽善者の支配する偽りの平和がやってきた。
ここはどこだ。確か俺様はあの小太りウィザードの放った魔法に吸い込まれて――。くっ、うつぶせ状態で落下したせいだ。さっき地面にぶつけた鼻先が痛いぞ。
投げ出された先が空中であったため、俺様は勢い良く落下してしまった。おまけに、先ほどの戦いで体力を消耗していたために受身を取ったり咄嗟にマントで飛ぶ事すら出来なかった。全く、とんだ目に遭った。あのウィザードめ、必ず捕まえて殺してやる。
「みゃぁ」
なんだ、何か変な咆哮が。耳元かッ! 俺様は頭上へと視線を移すと、そこには巨大な獣の顔面が間近にあった。
「なんだこいつは……ッ!」
「みゃあぁ」
しかも、一匹ではない。右に一匹、左には二匹。背後にも一匹いる。まずいぞ、なんだこの状況は。まるで俺様が猛獣の檻の中に放り込まれたみたいではないか。しかもなんだ、異常な大きさだ。俺様の体の百倍くらい有りそうだぞ。
ん、待て。この獣はまさか、猫か? この顔、体。間違いない、こやつ等は巨大な猫だ。何だって俺様が巨大猫に囲まれているのだ。
猫の一匹が前足を振り上げた。一直線に振り子のように叩き潰そうとしてくる。
「待てッ! 俺様は敵ではない。くっ、話が通じぬ」
俺様は身の安全を第一に考え、猫達がひしめき合う謎の空間内で逃げ惑う事になった。遥か遠くに高い壁らしきものが見える。壁は茶を薄くしたようなベージュに近い単色をしている。猫の身長よりも高く、外の景色は見えない。上を見上げればどうやら青空のようだが、それを悠長に眺めている余裕は無い。
猫達は腹を空かせているらしく、俺様を食糧だと勘違いしている。何だこれは屈辱だ、屈辱だぞォッ! 俺様は魔王なんだぞ。偉大なるヘルズベルト魔王家の第十三代目主君、アリスト・ヘルズベルトだぞ! コケにしやがってえぇ。何故魔王たる俺様が猫に餌扱いされて逃げ惑わねばならぬのだ。ふざけるな。許さぬ、許さぬゥ! 貴様ら全て俺様の魔法に焼き尽くされるがいい。そうすればゾンビにしてやるだけで許してやるぞ。最も、俺様の魔法を受けて体の形がまともに残るとは思えぬがな。フハハハ。
猫達がみゃぁみゃぁ言いながら俺様を食おうと前足を振りかぶってくる。中にはその口で直接かぶりつこうとしてくる奴も居た。危ない。何故だかは知らないが謎の力によって巨大化した猫達の力は侮れない。恐らく今の俺様では食らったらひとたまりも無いだろう。
「よし、今だ」
右手を天に掲げ、魔法を詠唱する。喜べ、猫には猫らしい名誉ある死をくれてやる。この魔王アリスト様がじきじきに手を下してやるのだ、これ以上の栄誉はあるまい。
マントを翻し、地を蹴って宙に浮かぶ。フハハ、美しいだろう? このシャープな動き、足の角度。どれを取っても魔王たる俺様には格式が漂っている。
「エェクスプロォードッ!」
ハハハ、爆発しろ。爆発しろォッ! 貴様ら木っ端微塵じゃあ。……ん、発動せぬ。どういう事だ。
「みゃあぁあっ!」
くっ、何だと。爆発どころか猫共、全く無傷ではないか。何故だ、何故魔法が出ない。ここは一体何なのだ、元居たマナ溢れた世界ではないのか。危ないッ! 前足が顔を掠める。あの巨大な鉤爪に切り裂かれたらたまったものではないな。
仕方ない。魔法が出ない原因は分からぬが、今は命の方が惜しい。どうやら今の俺様ではこやつ等に対抗する術は無いようだ。逃げるのが一番であろう。魔王たる俺様が敵前逃亡をするのは癪ではあるが、命あっての物だねである。生きてさえいれば何だって出来るのだ。それを失ってしまっては全てが終わりだ。
「さらばだ。見逃してもらえる事をありがたく思うのだな」
マントを翻し、飛び退った。だが飛行する速度が思ったより伸びない。一体何故なのだ、さっきからおかしいぞ。我が力がまるで弱体化してしまったかのようだ。
空中を切り裂く爪を避け、何とか猫共の腕の届かない高度まで飛翔した。馬鹿な、一体何がどうなっているというのだ。みゃぁみゃあ異常にうるさいのだ。猫はこんなにもうるさい声であったか?
その場で浮遊し続け、猫共を見下ろす。どうやら今さっきまで俺様が居た場所は巨大なベージュ色をした箱のような物体の中だったらしく、その中に猫共四匹が詰められていたようだった。その獣の檻の中に俺様は不可抗力で飛び込んでしまったらしかった。全く、とんだ災難だ。猫共はまだ俺様を食おうとみゃぁみゃぁ言いながら腕を伸ばしてきている。何故こんな巨大な猫が。異常だぞ。このような生物は存在するわけが――。
ん、先ほどまで入っていた箱の側面には何か文字らしき物が書かれているな。『愛媛すまいるみかん』なんだこの文字は、さっぱり読めん。俺様はワルシャワレブス語しか知らぬ。
周りを見渡してみると、更にとんでもない世界が広がっていた。何だこの巨大な建物達は。地上十階以上はあろうかという巨大な建造物が至る所に生えている。有り得ぬ、有り得ぬぞ! 俺様のいた世界にこのような建造物など――。
「な、何だと……ッ!」
その建物の下、道と思しき灰色の絨毯の上では巨大な人間達が無機質な表情をして大量に練り歩いているではないか。有り得ぬ。あれはまさしく人間。服装は見た事の無い露出の高いものばかりではあるが。あの表情は一体どうしたというのだ、まるで皆思いつめているようだ。それにしても建造物も猫も人間も恐ろしいくらい巨大だ。何がどうなって周りが巨大化しているのかさっぱり見当が付かぬ。
まさか……周りが巨大化したのではなく、俺様だけが小さいのか。つまり、建造物も猫も人間も普通のサイズ。俺様だけがミニサイズ。確かに、そう考えれば辻褄が合うが。だが、何をどう間違ってこのようになってしまったのか。今俺様が立たされている状況を一刻も早くつかむべきだ。もう少しこの良く分からぬ異世界を調べる必要があるな。
どうやらこの世界では俺様の魔法は発動しないようであった。戦う手段が主に魔法である俺様にとってこれ以上の痛手は無い。だが幸いにも空を飛べる魔力の篭ったマントの力だけは失われていないようだ。これはマナが無くても使える道具であるからな。この状況では敵と鉢合わせになっても対抗する手段が無い。逃げるしか手は無いだろう。移動手段としてもこれ以上に便利な物は無い。失わないように注意せねば。
周囲の巨大な建物には看板らしき物が垂れ下がっており、やはり読めない文字が書かれている。『ホテルくろすいんさーと』『ラーメン山田』『喫茶あーむすとろんぐ』。駄目だ、やはり読めぬ。
道行く人間達も分からぬ言葉を話している。『今日のテストどうだった?』『うーんイマイチ』何を言っているのだ、俺様にも分かる言葉で言え。
うむ、腹が減ってきた……。生き血が吸いたい。そこかしこに腐るほど居るのだ、一人くらいの血を吸っても構わないか? まぁ先代のくそ親父の言いつけを異世界に飛ばされてまで守る必要はあるまいか。うぅ、我慢できない。勇者との戦い、猫共からの逃走、力を使いすぎた。ここらで補給をしておかねば持たぬ。
同じ血でも、やはり俺様は女の血の方が好きだ。それも若い女の。男の血は鉄臭い。女の方が若干甘いのだ。
フハハ、あの人間の女がいいか。かわいい犬を連れているぞ。その隣に居る女もいいが、見渡す限りあの女が一番美人であるな。俺様は魔族ではあるが美的感覚は人間と大差ない。俺様が美しいと思った物は人間も美しいと思うだろう。
あれはネクタイなのか? 赤いような茶色いような不思議な色合いをしたコートのような上着を羽織っているな。腰には色白の太股を大きく露出させた布を巻いているが。確か人間どもの服で、スカートとか呼んだか。
「でさぁ、ひなた付き合っちゃえばいいじゃん。新宿先輩と」
「えぇ? 先輩はいい人だけど、そういう関係じゃないよ。むしろ先輩とはさとりのがいい関係じゃない」
「そんなことないって。私が近づくと先輩照れて逃げちゃうしさ。ちょっと守ってあげたくなるようなカンジのひなたのがぴったりだって。だって、何回かデートだってしてんでしょ?」
「してるけどさぁ……、でもあたしには先輩はもったいないよ。かっこ良すぎて。あ、たろうどうしたの? いきなり吠え出して」
「ははーん、やっぱりそういう事かぁ。海斗クンっ」
お前らの言葉、やはり分からん。まぁ俺様にはどうでもいい事か。とにかく腹ごしらえをして力を付け、何とかして元の世界に戻る方法を探さなくてはならない。こんな言葉も通じぬ、巨大な猫や人間が跳梁跋扈する世界など冗談ではない。いつ銀蝿のようにぷちっと叩かれて終わるか分からん。俺様には帰ってピヨコにプレゼントをあげる使命がある。あと、ペットのうさぎに餌をやってくるのを忘れた。
よし、犬を連れた髪が長い方の女に狙いを定めるか。巨大だから吸い応えがありそうだ。フハハ。覚悟しろ、俺様の牙から逃れる術は無いぞ。俺様の牙は象でさえも切り裂くのだからな。一滴残らず吸い尽くしてやるから安心しろ。俺様は食事を残すのが嫌いだ。エライだろう?
「なんかくすぐったい。虫でもいるのかな。ねぇさとり見てよ」
「んー? どれどれ」
がは。歯が、歯が……ッ! 折れた。チクショオォォッ。何だこの女の皮膚は、硬すぎるぞ。まるで岩のようだ。首筋の柔らかい部分のはずだ。何千という人間の(死んだ後のというのが悔しいが)血を吸ってきた俺様が、絶好の吸血ポイントを間違うはずが無い。
だとすると、俺様はサイズが縮んだだけではなくて本当に弱体化してしまっているという事だ。こんな人間の女の皮膚も切り裂けないほどに歯も顎の力も下がってしまっているようだ。はっ、そうだ。俺様のレベルは。確かめてみるか。
俺様の特殊能力は相手の強さを『みやぶる』事だ。これは魔王家の血筋で代々受け継がれている能力らしい。もちろん自分の強さもみやぶる事が出来る。力を使うと右手の平に数字が浮かび上がる。この数字が数値化できるだいたいの強さの目安であり、最低は1、最高は何故か255だ。999じゃねえのかよと。ていうかむしろ10000まで行けよと思う。
よし、確かめるか。元は255だった俺様のレベルは。な……に。レベル12だと……ッ。ふざけるな。有り得ぬ。あのプロテインをつまみにしてスピリタスを飲んだ日々は無駄だったとでも言うのかッ!
それはそうと、一体この女共の強さは何なのだ。犬を連れた髪の長い大人しそうな方がレベル74、身長の高いお転婆そうな方はレベル95。駄目だ、勝てる気がまるでしない。というより、こ奴ら戦いの素質など皆無に見えるのだが。何故このようなレベルまで上がっているのだ。戦わない人間など皆レベル1のはず。
むしろ不思議なのは俺様が先ほどまで戦っていたはずの勇者一行(チート勇者は除く)の仲間とほとんどレベルが変わらない。だとすると、勇者一行は大して努力をしていなかったのではないかと思えてくる。
くっ、それだけ俺様が舐められていたという事か。ろくな武器も防具も持たずにピクニック気ヴンで攻めてきおって。だからあんな簡単にやられおったのか。ぬうゥ、許せぬ。俺様をどこまでもコケにしやがってえェッ!
「あ、何コイツ。なんかひなたの首筋に虫みたいのくっ付いてる」
「えっ虫? やだキモイ、早く取って」
「しょうがないなー。ほいっ」
がっ、何をする。こらつまむな。俺様は腹が減って機嫌が悪いのだ。この女の血を吸わせろ。さもないとエクスプロードを叩き込んで……いや、使えないのだったな。
「コイツ、人間? じゃない。こんな青紫の顔した人間なんていないわ。サイズちっこいし。しかもなんか頭に触覚みたいなの付いてるし、背中にマント。何なのこの生き物」
「何か喋ってるみたいだよ。でも、虫の羽音みたい。しかも言葉分からないし」
二人してこっち見んなッ! 無駄に整った顔付きをしているのが気に食わぬ。さっさと貴様らの血を吸わせろ。いや、俺様の牙が持たぬか。
「なんかさぁ、こいつ面白い動きしてない? 虫じゃないみたいだしさ。顔の色は変だけど人間みたいな形だし」
「餌あげたら食べるかな?」
ん、なんだこのお人好しそうな女。荷物の封を開けたぞ。中から何かを取り出したぞ。
パンパンに膨れた袋のような物に、何かの絵と文字が書かれている。『ぷちブルーベリーラングドシャ』駄目か、やはり読めぬ。何なのだあれは、魔法具か。危険な香りがするな。貴様ら、この俺様をどうしようというのだ。儀式にでも掛けるつもりか。まずい、逃げた方が良さそうだ。
「何、こんな生き物にお菓子あげるの? もったいないじゃん」
「でも虫じゃないならいいかなって。良く見れば可愛らしい顔してるし」
「変わってるわねぇ、こんな得体の知れない物好きになるなんて」
マズイ。女の手が何かを取り出そうとしている。あの袋の中身は何だ、聖水か? 強酸か? グールパウダーか? いずれにせよ、この場に居れば殺されるッ! 今のレベル12の俺様では抵抗できる手段は残っていない。離せ、この女め。マントを離せッ! この雌野郎が、魔法さえ使えれば貴様の手を焼き切ってやるものの。
「じゃ、ちょこっと割って。残りはあたしが食べるから」
手が迫ってくるッ! 手には何か欠片が差し出されておるぞ。俺様をあれで潰す気か。畜生、チクショオォォッ! 逃げられぬ、逃げられぬゥ。マントがもう一人の女の手から外れぬゥ。ヌオォォ、俺様の生はここで終わるのか。あの先代の馬鹿親父のようにバテンカイトスの狭間に送られてしまうのか。あぁ、こんな事ならもっと早くピヨコに会いに行っておけば良かった。それが一番悔やまれる。
ん、手が俺様の目の前で止まった。この女、一体何を考えている。俺様を殺す気ではないのか。目の前に差し出されているのは円盤のような物体を二つに割った欠片だ。それに、少し落ち着けば何だか獣の脂のような匂いもしてくるぞ。何だこの物体は。まさか……食糧なのか? いやしかし、この異世界で俺様の姿を見て人間が食糧を分け与えるなど。だが、この匂いは食欲を刺激する。何なのだ、てっきりこやつ等は俺様を殺すための打算をしていると思っていたが、そうではないのか?
俺様はそう簡単に人間を信用できぬ。奴らは自分の事しか考えておらぬからな。俺様の可愛い家来である魔物達を、魔物であるというだけで正義を振りかざして退治する自分勝手な連中だ。魔物は文字通り魔の物であるが、生まれもって根性腐った魔物な存在などいるわけがないだろう。奴らは要するに人間達によって親や親族を殺され、誰に頼って生きる術を失ってしまった哀れな存在なのだ。ただ姿形が異形であるというだけで。中身はピュアなのだぞ。
それを奴ら人間は、身勝手な正義を振りかざして異形な存在であるというだけで無抵抗な者達を殺す。人間の残党狩りのように殺されてゆく者達が不憫で、俺様は匿っていたのだ。住む所を国家予算で用意し、一定期間の間に最低限の暮らしが出来るだけの金を与える制度を設けた。奴らもまた、俺様の統治する国の大事な国民である事には変わりないからな。立ち直って立派になってもらいたいと思っている。人間は信用できぬ。そのような不憫な者達でも遠慮なく殺しやがる。
だが今目の前にいるこの人間どもは何だ。異形の存在であるはずの俺様に食糧らしきものを分け与えているではないか。まるで、俺様の居た世界の人間とはまるで別の存在。敵対意識はまるで感じられない。伝わってくるのは温かな慈悲だ。俺様が今まで見てきたものは一体何なのだ。あの歓喜の如き悦に浸った表情で、罪の無い無抵抗な者を剣で切り裂く勇者。思い出すだけでも腸が煮えくり返る思いだ。
「食べないね……。お菓子は好きじゃないのかな」
「虫とかって、同じ虫食べてるんじゃ? やっぱお菓子なんか食べないのかもしれないわね」
だがやはり人間に世話になるのは俺様のプライドが許さない。だが……腹が減っているのは事実。背に腹は変えられない。この一時だけ、貴様ら人間を信じよう。生き血でないのは残念だが。
「あ、食べ始め……たけど、なんか痛がってる」
あがっはあぁ! 畜生、歯が欠けた。空腹で歯まで脆くなっているのを忘れていた。歯茎から血が出てきた。ええぃ、人間の食糧は硬すぎて食えぬ。ならば一体俺様はこの異世界で何を食せば良いというのだ。これはもはや、強大な敵と会いまみえる事以上に命に関わる事態だ。魔王である俺様といえども、所詮は魔族である。不老不死なわけではない。食物を摂取せねば命を落とす事態にもなる。
こんな訳の分からない異世界で死ぬわけにはいかぬ。俺様には元の世界に戻って魔界を統治する仕事があるのだ。
「なんか歯を押さえて痛がってるし、硬すぎて食べられないみたいじゃない? 何だろね、この不思議生物」
「うーん……、やっぱりそっとしといてあげよっか。お菓子も食べられないみたいだし」
「じゃあね、元気に暮らしなよー」
「さ、行こうたろう」
ふぅ、ようやく女達は去っていった。それにしてもこのままでは本気で命に関わるな。身体能力が劣化しているせいで食物もまともに摂取できぬ。あぁ、肝臓ソテーや心臓ステーキを食べていた頃が懐かしい。人間の臓器を食えるというのは一種の身分の高さを表しているからな。俺様は魔王の位が示すように魔界では高貴な存在だ。少なくとも人間に食糧を恵んでもらわなくてはならないようなひもじい存在ではない。だからこそ、この状況は屈辱だ。
それにしてもこの世界は一体何処なのだ。身体能力も劣化した上に人間どもとは言葉も通じぬ。文字も読めぬ。八方塞ではないか。どうやら俺様の大きさは人間どもから見ると羽虫のようなものであるようだ。潰す側が潰される側に回るとは、なってみて初めて分かるこの無力さ。くやしいのぅ、くやしいのぅ。
今すべき事は俺様の無力さを嘆く事ではない。一刻も早く元の世界に戻る方法を探す事だ。そのためにはまず、段階がある。この世界を知る事、人間どもと意思疎通が出来る方法を探す事。これすらも出来なければ俺様はここで朽ちるだけだ。駄目だ、それだけは屈辱だ。何が面白くて人間どもの世界でくたばらねばならぬのだ。まず今居る世界で何とかして生き延びる術を見つけねばならぬ。そうでなければ世界を渡るなど遠い幻で終わってしまうだろう。大事なのは希望を捨てぬ事だ。
我ながら情け無い。まるで思考回路が世界の滅亡を控えた時の心境のようだ。
「ぐ、風がッ!」
突如吹いた強烈な突風により、俺様の身体は宙へ。身体の大きさのせいで体重も極端に軽くなってしまっている。風が強すぎてマントを広げても制御が利かない。このままでは更に分からない場所へ飛ばされてしまうッ! 何としても何処かにつかまらねば――。
「しめた」
一人の人間の頭部が映った。あの髪の毛につかまれば何とか凌げるはずだ。よしいいぞ、何とか食らいつけた。後は風が止むまでここで避難を。
この男の髪は長くてつかまりやすいな。俺様のために人間どもは皆髪を伸ばすべきだ。箒の如くな。短髪などもっての他だ。風で飛ばされたらしがみ付けないではないか。しがみ付けなかった俺様はどうなるのだ。強烈な風に煽られて建築物に激突するのか。それともサザンクロスの最果てに強制送還か。どちらにしろ、髪の毛が無くては俺様は助からぬ。助からなかった場合の責任は誰が取るのだ、ん? 誰も取らぬでは無いか。人間どもよ、髪の毛を大事にするがいい。いや、大事にしてもらわねば困る。俺様の命が掛かっているのだからな。
「この後何したい?」
「そうね、私は何でもいいよ」
相変わらず言葉は分からぬ。今しがみ付いている男の隣には撫すではないが、これまた卑屈そうな顔の女が。まるで水を頭からぶっ掛けられたラミアのようだ。
「じゃあボウリングしよう。今日は俺が勝つからな、負けないぜ」
「そんな事言っていいの? 私、手加減しないからね」
二人は手を繋いでぶんぶんと振っている。こら止めろ、頭ががくんがくんと揺れるではないか。振り落とされるッ! このつかんでいる髪の毛がもし抜けてしまったら俺様は地面へと真っ逆さまなのだぞ。
やがて俺様は男の髪にしがみ付いたまま、謎の施設へと連れて来られた。そこはやたらに騒音のする施設で、光の無い木の板の上を人間どもが思い思いに頭部ほどの大きさのある球を転がしていた。球は板の上を高速で転がってゆき、炸裂するような音と共に板の終点に立っている数本の白い棒を弾き飛ばしている。
それだけを延々と繰り返し、ある者は歓喜に飛び跳ね、ある者はがっくりと頭を垂れている様子が垣間見える。正直、俺様には見ていて何が面白いのか理解できぬ。というより五月蝿くて敵わぬ。耳を千切って捨てたくなるほどだ。まぁ、冗談だ。捨てはせぬがな。
女が椅子に座り、男は一人で無数の球の置いてある場所へとやってきた。こんな事をしていて良いのだろうか。この調子で元の世界へと帰れるのか。しかもこの無数の球達、何か良くない予感がするのだが。
というか本気でこの建物五月蝿い。あぁ五月蝿い。腹の底まで響くようなズンズンいう低音が一定感覚で耳へ迫ってきて凄まじく頭に来る。こやつ等全員、今すぐアースクエィクで建造物ごと叩き潰してやりたく思う。いや、放てぬか……。もし放った所で俺様まで潰れるな。この弱体化した能力では結界魔法など使えぬだろう。
「これがいいかな」
男はどうやら紫色の球を選んだようだ。球には唯一読める文字が書かれている。というより数字だ。『15』と書かれているな。ふむ、数を表す文字だけは何故か共通のようだ。む、これを利用すれば何とか人間どもと意思疎通が出来ないか? いや、厳しいか。数字で腹が減ったとは表せぬからな。
「待った?」
「ううん、私も今球持ってきた所だから。じゃあ、投げるよ?」
「おぅ」
他の人間もやっているように、女も球を転がし始めたぞ。速い、速いぞ。球はあっという間に向こう岸へと着き、立っている白い棒は軽快な音を立てて全て弾け飛んだ。何がどういうルールなのかは分からぬが、あの音だけは聞いてて気持ちが良い。
「はは、相変わらずボウリング上手いな」
ボウリング? もしかすると、それがこの球転がしの名前なのであろうか。俺様の居た世界の人間にはこのような文化は無かったはずだが、一体どういうものなのだ。ただ転がせば良いのか。ただ、数回見ている内に単なる作業でない事は分かってきた。
俺様の予想では、これは一種の訓練のようなものなのであろう。対魔物のシミュレーションと言った所か。人間どもは仲間意識が強く、共食いを嫌うからな。
恐らく本来はあの向こう岸に奴隷の魔物どもを配置するのだ。そしてそれを薙ぎ倒せるだけの重量を持った球……そうだな、ここでは仮に特大の魔力を持って練ったファイアボールとしよう。そのファイアボールを気合込めて投げる。その一撃でどれだけの数の魔物を焼却できるかを競う訓練だ。恐らく人間どもはこれをやって金をもらっているのかも知れぬ。いつどこで襲ってくるか分からぬ魔物どもから自分達の身を守るため、あのような木偶(白い棒)を用意してそれを魔物に見立てて日夜訓練に励んでおるのだ。
まずい、まずいぞォッ。もしや俺様の世界の人間どもも、この仕事を重ねて対魔物用の訓練を行っている可能性もある。見つからないように秘密裏に行われている特殊訓練だとすると、これは下手をすれば魔界そのものが危険に晒される。
どうすれば良い。本当なら今すぐ魔界へと戻り、この今目の前で行われている特殊訓練に対抗するための対特殊訓練を行うために、部下の魔物達と作戦会議を練るべきだ。だが、この訓練をこの目で見た俺様は元の世界へと帰る術を持たぬ。クソオォ。このまま人間達が訓練を重ね、魔界への脅威が一人二人と育ってゆく様を指を咥えて見ているしかできぬのかアァ。すまぬ、我が信頼なる部下どもよ。俺様が帰るまでに魔界が無事である事を祈る。
「高橋はボウリングいつからやってるの?」
「って、貴方まで私のこと苗字で呼ぶのー? 実のお母さんにも呼ばれてるのに……」
「ごめんごめん。名前で呼ぶよ、千奈美。でもさ、何故か苗字の方が呼びやすいんだ。何でだろう。気を悪くしたらごめんよ」
「イケメンだから許す」
女、何だかもう呆れたといった顔だな。しっかりしろ男。話している内容は分からぬが、楽しそうではないか。
どうやら、少しずつ俺様もこの世界に感化されてきているようだ。普段人間どもとは暮らしていない俺様にも、目の前の人間達がどんな気持ちで会話をしているのか、少しずつニュアンス的に分かるようになってきた。
この二人は実に楽しそうだ。まるで特殊訓練をしている最中とは思えないほどに生き生きとしているではないか。俺様も誰かと話がしたい。この世界での俺様は孤独だ。話が通じる生物はまるでおらんし、人間どもは沢山居るが言葉はさっぱり理解できぬ。
帰りたい。馬鹿でも阿呆でもいい。話の通じる者と一緒に時を過ごしたいのだ。だがこのままではそれも敵わぬ。この世界の人間どもからは、全く殺伐とした気持ちが感じられぬ。皆が皆、平和な面持ちでのほほんと球転がし特殊訓練をしている。人間とはこれほどまでに穏やかな者であったのか。俺様の知っている人間の姿は凶暴で傍若無人、自分勝手で同類だろうと他の生物を殺す事など厭わない最低なものだった。だがこの世界に来て早くも、俺様の気持ちは徐々に変わりつつある。
少し、人間のやる事を黙って見ているのも良いかも知れぬ。本当の人間というものを見極める機会だ。人間を知らずして人間を責めるのは間違っているだろう。見た上でやはり最低だと感じた時は、今一度人間を粛清するべきだ。
球転がしの特殊訓練を終えた二人は、俺様を連れたまま街を歩き始めた。やがてまるで人気の無い河の流れる土手沿いまでやってくると、俺様が頭の上で見ている事も気付かないまま二人は口付けを交わしよった。何なのだ、この妙な甘いムードは。俺様は人間の傍若無人な様しか知らぬ。二人の世界に入ってしまっているこやつ等の雰囲気には、入っていきづらいものがある。これが、話に聞く『恋愛』というものなのか? 駄目だ、魔族である俺様には理解不能だ。魔族同士の性別など、ただの繁殖のための区別にしか過ぎぬ。雄と雌の間に愛情といったものは無い。いや、魔族は元々愛情という感情など感じないように出来ている。
だが、俺様は思ったのだ。こやつ等を見ていると、愛情が理解できなくとも、何かに愛情を注ぐという行為も案外悪くないかもしれないと。互いに互いを慈しみ合い、助け合う。……美しいではないか。理解は出来ぬとも、行動する事は出来るであろう。
いや待て、愛情を注ぐという行為はもしかしたら、俺様自身も気付かない内に既にしていたのかもしれぬ。俺様がやっていた行為に当てはめてみる。貧困や飢えに喘ぐ魔族の生活を助けた。同族のテリトリーを守るために人間達の侵攻に対抗した。姪のピヨコを大事に思う気持ちは誰にも負けぬ。
ハ、ハハハ……そうか。俺様は気付いていなかっただけだったのか。魔族にも、何かに愛情を注ぐという行為は出来るのだ。もしかしたら我ら魔族と人間は、姿形が違うだけで実は中身は同じようなものなのかも知れぬな。こやつ等を見ていると、そう思えてきた自分がいる。
辺りも暗くなり、こやつ等はギラギラと眩しい装飾の建築物へとそそくさ入っていった。そして今、一糸纏わぬ裸になって身体を重ね合っている。俺様は男の頭にしがみ付いているわけで、振り落とされぬように必死だ。いや一応マントで飛べる事は飛べるわけであるため、無理にしがみ付いている必要は無いわけだが、蝿のように叩き落されてしまう事が心配だ。
こやつ等のしている事は恐らく、繁殖行為であろうという事は理解できる。人間の繁殖行為を見るのは初めてだ。二人とも五月蝿く声を上げておるな。耳がキンキンする。見ればそれなりに立派な物は持っているが、この男も物好きである。魔族である俺様には人間の女の裸に魅力は全く感じないのだが。いや、人間だからこれが普通であるのか。魔族基準で考えているからおかしく感じる。
魔族の繁殖など、繁殖自体にしか価値が無いため五秒で終わるがな。フハハ。
「あっ……あっ……あぁあっ。……あふんっ……あぁっ……あっ……」
「はぁっ……はあぁっ……」
それにしても長いな、まだ終わらぬのか。男の頭は脂汗でぐちょぐちょであるぞ。滑ってしがみ付くのがやっとだ。それにしてもこの部屋は暑いな。マントを脱ぎたい所だが、脱いでしまったらイザという時に飛べなくなってしまう。どうしたものか。
「ああぁっ……! あはぁ……はぁっ……」
この世界は平和なのだな。本当に。
本当に、どうしたものか。この人間どもがエキサイトしすぎなせいで部屋の熱気がぐんぐんと上昇してしまい、俺様は居るだけで辛かったぞ。今は先ほどとは違い、女の方の頭にしがみ付いて夜風に吹かれながら街を歩いている。今夜は月が綺麗だ。どうやら満ち欠けも俺様の世界と同じようにあるらしいな。満月の夜はブランデーを軽く引っ掛けながらバルコニーで過ごすのが俺様の日課となっている。今夜もそうやって俺様の美しい姿を月に見せ付けたいのだが――。
どうやらそれは叶わないらしい。女はしばらく歩くと再び口付けを交わして男と分かれ、家らしき建造物へと入っていった。恐らくここがこの女の自宅なのか。
「明日は十一時からホームセンターっと」
女は分からない言葉で独り言を呟く。肩に掛かったバッグを思い切り部屋の隅へ投げると、自身もベッドへ――。って、頭を思い切り振り回すんじゃねえ。くそっ、振り落とされる。
「がはぁっ」
女の頭がベッドの上に勢い良く叩き付いた。俺様の身体が上下に吐きそうなほどにがくんがくんと揺さぶられる。ふはぁっ、吐きそうだ……。まずいっ、第二破が来る。右手ががばっと髪の毛めがけて振り降りてきやがる。このままでは潰される。飛ぶか!
ぶはッ! 飛び上がった角度が悪かった。顔面を思い切り空中で引っ叩かれて遥か彼方へと吹き飛ばされた。なっ、何をするだァーッ。ゆるさんッ! チクショオォッ、俺様をここまで痛め付けやがって。死にたいのか、死にたいのだな? よォし、お望み通り貴様もバテンカイトスの狭間へと送ってやる。あの世で俺様の親父と仲良くちゃぶ台返ししてろ。
「あーいいテレビやってないなぁ。荒らしの番組もう終わっちゃってるし。今週こそ松っちゅん見たかったなぁ。あ、でももうちょっとで土曜エンタテイメントだ。確か今週はプリンセスオブマーメイドがやるはず。よし、アイスコーヒーでも煎れてこよ」
魔法は使えぬ。だが、これはどうだ。魔獣召喚。これは『みやぶる』と並んで俺様のもう一つの特技。マナを必要としないはずだ。恐らくこの異世界でも使えるはず。力を失った俺様の代わりに、暴れて来い。フハハ、これで貴様も終わりだ。やはり俺様に人間を信じる事は無理だったようだ。まぁ当たり前だ。長年信じ続けた事は一朝一夕で変わるはずがない。
「行け、狂獣ロードオブバーミリオン。あの女を殺せ!」
俺様の額が眩く光る。最高にハイ! ってやつダァァ。俺様をここまでコケにしやがった事を後悔させてやる。
「でも、小腹も空いたなぁ。ちょっと暑いし。アイスでも食べよ」
ん、女がベッドから立ち上がって部屋の外へ出て行ってしまったぞ。何とタイミングが悪いのだ。しかもまだ召喚が終わるまでは集中する必要があるので動けぬのだ。空中で光が収束してゆくが、あまりに強力な魔物を呼び出してしまったため、タイムラグが発生している。まだか、まだか、まだか! だめだ、怒りで我を見失いそうだ。いや我を失ってしまっては駄目だ。落ち着くんだ。素数を数えて落ち着くんだ。
「超ウルトラカップ一個残ってた。良かった。確か買ってあった気がしたんだよね」
ちょ……女、こっちに来るなッ! やめろ、俺様をその未知の巨大隕石で潰す気か。ええい、ロードオブバーミリオンはまだか! だがその時、遂に召喚は成功した。よし来た、これで貴様も終わりだぞ!
俺様は潰される直前、マントで飛んでギリギリ逃げる事に成功した。女の頭の上を浮遊する。ハハハ、この部屋に世界を破滅させる力を持つ魔獣が出てくる。出てくるぞォ。
「あれ? 何コレ。これバニラじゃなかったっけ。なんかでっかいチョコクランチが埋まってるんだけど。ま、いいや」
……おい、女! スプーンでロードオブバーミリオン頭から真っ二つに砕きやがった! しかもシャリシャリ言いながら美味そうに食いやがった。まだ炎も吐いてないのだぞ。チクショオォ。俺様がミニサイズだから召喚する魔物も弱体化したミニサイズか。俺様に明日は無いのか……。
もう、疲れた……。たったの一日だけであるのに、この世界は何故こんなに疲れるのだ。もう、やってられぬ。帰りたい……。ん、この液体は? 黒い溝の水のような液体だが、この女の持ってきた食器の中に入っている。しかも何やら氷のようなものも浮いているな。この際だ、どうにでもなれ! あれを飲むぞ。もう腹が減って限界だ。
液体の中に飛び込む。小さく飛沫を立てて巨大な溝色の海に身体を預けた。一口飲んでみると……ん、美味いではないか。何だコレは。ほろ苦さの中に甘さがあるぞ。うむ、元気が出てきた。
苦甘い液体の海で腹ごしらえをすると、頭も自然と冷えてきた。冷静になって考えてみると、この世界に来てから俺様はただ一人で怒ったり悩んだり勝手に自分勝手な解釈をしていただけではないのか。ここは恐らく、俺様が元居た世界とは全くの別なのだろう。ここでは元居た世界の人間とは全く別の存在の人間が、独自の文化を持って生活しているのだ。そこに俺様という全く異次元の存在が迷い込んでしまった。こやつ等は恐らく、俺様に危害など特に加えるつもりも無い。ただ普通に生活しているだけだ。人間も、俺様が思っているほど邪悪なものでもないのかも知れぬ。時間はある。明日から良く考えてみる事にしよう。
この世界にとってイレギュラーな存在は俺様の方だった。この世界に俺様の居場所は無い。頑張っていつの日にか元の世界に戻る方法を探そうじゃないか。世界にはそれぞれの種族のテリトリーがあるのだ。それを侵す事は許されない。俺様の居場所は、あそこなのだ――。
「きゃはは。あはは! マジどうしようもないよねー、田中クンさぁ」
魔界歴123億456年78月90日。人間界では太陽暦987年6月5日。その日、一人の偉大な王が風になった。彼は一時期魔界へと攻め込んできた人間達と戦った時期があり、その後数年に渡って姿を忽然と消したが、再び玉座へと戻って世界を統治する事に生涯を注いだ。
姿を消す前と消して戻ってきた後では彼の表情はまるで違っており、偽者ではないかと指摘する者もいた。だが幾度となくされた調査によって彼は本人だという事が証明された。
姿を消す以前、保守的で魔界の事だけを考える王であった彼は、その後人間界との調和を取り持ち、一つの世界に統合する事を望んだ。魔界も人間も関係無い一つの世界を作る事を目指して。姿を消していた時期に何があったのか。それは死ぬまで語られる事は無かったが、彼の活躍によって現在は全ての生き物達が訳隔てなく生活できる世界になった。
誰もやろうとしなかった、やろうとしても出来なかった事を彼は一世代で成し遂げたのである。世界統治後、彼は一人の女性と生涯を誓い合った。相手は、人間の女であった。人一倍人間を嫌っていた魔界の王は、生涯を掛けて自分の寿命よりも遥かに短い彼女を最期のその時まで愛した。
魔界第十三代目主君『アリスト・ヘルズベルト』。英雄の名は、妻の名と共に、今日も世界を見渡せる丘陵の墓石に大きく刻まれている。
了