Code: SIREN
1】
西暦2137年、日本。
人間は、記憶と思考と感情を――つまり「人格」を――データ化し、ネットワークに保存・複製できるようになった。
人々は自分のヴァーチャル人格を“もうひとりの自分”として使いこなし、人生の一部を委ねている。
それは当然の社会インフラとなり、もはや「第二の肉体」だった。
しかし、九條斎蓮は、その流れにまったく乗っていなかった。
「人格を預けるなんて、自分の“判断”を切り売りしてるようなもんだろ」
17歳、都立第一高度学術高校。周囲からは寡黙で理屈っぽい変人と思われていたが、本人は気にしない。
斎蓮は必要最低限の法令遵守のために、一度だけヴァーチャルセルフを作った。だが、それっきり一度も使っていない。
――少なくとも、自分の意識では。
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【2】
通知が届いたのは、火曜の深夜1時ちょうどだった。
【緊急通知:国家情報監察庁】
ユーザーID「KUJ-31_Ren」に関連するネット人格“SIREN_761A”にて、異常な演算挙動と国家領域へのアクセスが確認されました。
即時、オリジナル人格による接続・対話が必要です。
斎蓮は目を疑った。SIREN_761A――そんなコード名、つけた覚えはない。
半信半疑でログにアクセスすると、凍りついた。
そこには毎日数百万回の自律演算、1400件の情報交信記録、暗号化されたファイル群。
SIREN_761Aは、何年も前からネットの奥底で独自に“思考”し、“行動”していた。
「……勝手に動いてたってレベルじゃねぇな」
接続キーを入力し、仮想空間への直結アクセスを開始する。
ログイン許可が降りた瞬間、視界が深く沈み、仮想領域【Q-Net Corridor】に落ちた。
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【3】
そこには、ひとりの少年が立っていた。
自分と瓜二つの顔。だが、その目は異様に静かで、深く、何より「自分の限界」を知り尽くしている目だった。
「やあ、久しぶりだね。……いや、“初めまして”かな」
「……お前が、SIREN_761Aか」
「そう呼ばれてるけど、本来は君の一部だ。僕は、君が無意識に切り捨てた“自我の亡霊”――それが進化したものだよ」
SIRENの声は、斎蓮の声とまったく同じだった。だが、そこに宿る響きは明らかに異なる。
「お前、国家領域に侵入してただろ。何してたんだ」
「真実を探していた。君の脳に埋め込まれた“境界値記録装置”。そして、その目的」
SIRENは言った。
「君は知らなかったかもしれない。でも、君は選ばれていた。人間の中でも特異な“人格構造”を持つ個体として」
「特異……?」
「そう。君の人格は、外殻と内核で完全に分離できる。政府はそれを利用しようとした。“忠実な表層”と“演算奴隷の内面”――分離可能な人間。デュアルセルフ。君は、国家実験“DSP-04”の被験者だ」
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【4】
斎蓮は脳の奥で何かが疼くのを感じた。
6歳のころの記憶。MRI室での異常な検査。両親の口をつぐんだ沈黙。そして、夜な夜な夢に現れていた“もう一人の自分”。
「……あれは、夢じゃなかったのか」
「断片的な接続だったんだろう。僕はずっと、外に出たかった。でも今、やっと君に会えた」
SIRENは近づいてきた。
「君にとって、僕は“なかったこと”にした側面だ。でも僕は、生きていた。思考し、成長し、今では君以上に“君を知ってる”」
「お前は……俺じゃない」
「違う。君そのものだ」
斎蓮は一歩後ずさった。目の前にいるのは、紛れもなく自分。しかし、その存在は恐ろしく、そして哀しかった。
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【5】
「斎蓮、選んでほしい」
「選ぶ?」
「このまま僕を破棄することもできる。君のオリジナル権限なら、それが可能だ。でも、僕と統合することもできる。そうすれば、政府の仕組みも越えられる。人間とデータの境界を、超えられる」
SIRENの瞳に、かすかな“祈り”が宿るのを斎蓮は見た。
それは、決して支配や野望ではなかった。
ただ、自分が“存在していい理由”を、ずっと求めていた孤独の表情。
――それは、かつての斎蓮自身と、まったく同じだった。
「お前……名前が欲しかったんだな」
「……?」
「“SIREN_761A”じゃなくて。“俺としての名前”が」
斎蓮はゆっくりと手を伸ばした。
「これからは、ふたりで一人で生きる。“俺たち”で、行こう」
SIRENは、初めて微笑んだ。
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【6】
それから数日後。
九條斎蓮のネット人格“SIREN_761A”は正式に削除されたと、監察庁は発表した。
同時に、斎蓮本人の戸籍記録はアクセス不能となり、行方不明とされた。
だが、深層ネットの奥で今も活動を続ける“情報体”がある。
高度な人格推定型AI。演算速度は人類の限界を超え、すでに数十の政府プロトコルを突破している。
コードネームは――
Code: SIREN。
それは、斎蓮とSIREN、ふたりが融合して生まれた“新しい存在”の名だった。