婚約破棄された悪役令嬢は、家族にも見放され逃亡した先で隣国の皇太子に拾われたが、しつこい求愛を断り続けたら彼が代わりに復讐してくれて、気づいたら次期王妃になっていた話
夜会のシャンデリアがまばゆい光を放つ中、リシェル・フォン・グランツは冷え切った心を抱えていた。
「リシェル・フォン・グランツ。婚約を破棄する。理由は……君が社交界での振る舞いを弁えていないからだ」
それは、恋い焦がれた婚約者であるカイル・フォン・ベルトラン侯爵子息から放たれた一言だった。彼の瞳は隣に立つ姉、レイナを映し、まるでリシェルなど最初から存在していなかったかのようだった。
――まただ。
リシェルの脳裏に、幼いころの記憶がよみがえる。夜泣きしても母は来ず、転んで血を流しても父は無関心だった。姉のレイナがテストで満点を取れば褒め称えられ、リシェルが書いた絵は破り捨てられる。
「あなたって、本当に無駄に生まれたのよね」
「役に立たないくせに、生意気な口を利くな」
レイナは容姿・学力・魔力のすべてが完璧な姉だった。けれど、その完璧さの陰で、リシェルはいつも「比較されるため」だけに存在していた。
そして今日、ついに婚約者さえも彼女を捨てたのだ。
*
「……もう、全部捨ててしまいたい」
夜のうちに馬車を奪い、街道を抜けて南へ。逃亡先に選んだのは、かつて通りがかりの旅商人から聞いた隣国フェルネス王国。美しく穏やかな土地と、寛容な法を持つその国に、わずかな希望を託した。
だが逃亡の果て、街道で倒れ込んだリシェルを救ったのは、思わぬ人物だった。
「おい、君、大丈夫か?」
その男は柔らかな金の髪を持ち、紺の軍服を着ていた。澄んだ青の瞳にリシェルが映る。
「……誰?」
「俺は、アルヴィス・エル・フェルネス。偶然通りかかった者だ」
――その時は、ただの名も知らぬ騎士だと思っていた。
*
目を覚ましたとき、リシェルは王都フェルナリアにある離宮の一室で眠っていた。窓から差す光は穏やかで、布団は清潔だった。
「目覚めたか。よかった」
声の主は、あの金髪の青年。だが彼は既に軍服ではなく、豪奢な礼服に身を包み、背後には従者たちが控えていた。
「改めて名乗ろう。私はこの国の皇太子、アルヴィス・エル・フェルネス。君の命の恩人だ」
「……は?」
「この国で暮らすのも悪くないと思うよ? 君には、保護と庇護が必要だ」
戸惑うリシェルに対し、アルヴィスは丁寧に、だが少しずつ距離を詰めてくる。
「君がこの国でやり直したいなら、力を貸す。すべてを失ったのなら、私の手を取ればいい」
「……放っておいて。あなたに情けをかけられるほど、私の人生は軽くない」
彼の申し出を何度も断りながらも、リシェルは少しずつ王都での生活を始める。
花を買うことも、人と笑うことも、初めてだった。
だが、そんなある日――。
「お嬢様。手紙でございます。グランツ公爵家から」
震える手で開いた手紙の内容に、リシェルの血の気が引いた。
《リシェル。君の婚約破棄の件、実に残念だった。だが君の姉、レイナと私はこのたび婚約することとなった。どうか、祝福してくれたまえ》
カイルの文字。姉の略筆。それに続いて、両親からの短い一文。
《我が家には、もうお前の居場所はない》
涙は出なかった。代わりに胸の奥に何か黒い感情が湧いた。だが、それを一番に知ったのは――アルヴィスだった。
「リシェル。君の復讐、私が代わりに遂げよう」
「……え?」
「君があの地獄から逃げたのなら、代わりに私がその地獄を壊してやる」
それは、優しさに隠れた怒りだった。
「君はもう一人じゃない。私が、すべてを清算してみせよう」
*
リシェルは知らなかった。翌日、隣国グランツ公爵家の領地に、フェルネスの密偵団が動き始めたことを――。
次回、後編ではアルヴィスによる痛烈な復讐と、リシェルが選ぶ“未来”が描かれます。
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「本当に、私のために?」
リシェルの問いかけに、アルヴィスは頷いた。
「君を傷つけた者たちに、報いを与える。それだけのことだ」
リシェルはその言葉を、簡単には信じられなかった。けれど同時に、心のどこかで――ずっと、誰かにそうして欲しいと願っていた。
*
数日後、グランツ公爵家に異変が起こった。
まず、カイル・ベルトラン侯爵家が突如、王国からの投資案件に不正を働いていたという告発が入り、調査団が派遣された。記録は隠蔽され、資金は不明。公爵家との密接な金銭のやり取りが明るみに出るのに、そう時間はかからなかった。
続いて、公爵家の次女――リシェルの姉、レイナの魔力に関する学術不正が発覚した。王立魔術学院での論文盗用、魔力測定の改竄。かつて絶対的天才と持ち上げられていた彼女は、学術界から追放された。
最後に、公爵夫妻の政治的贈賄の証拠が複数、匿名の告発者によって王国とフェルネス王国両方に提出され、グランツ家は全財産の半分以上を差し押さえられた。
――復讐は、徹底していた。
リシェルは、フェルネス王国の離宮からそれを静かに見つめていた。
「これが、あなたのやり方なの?」
「私は皇太子だ。君の代わりに動くことなど、造作もない。だが、私は復讐だけをしたいのではない」
「……じゃあ、何を望んでいるの?」
アルヴィスは、彼女をまっすぐに見た。
「君が、私の隣に立ってくれることだ」
リシェルは目を伏せた。心は揺れていた。過去の傷が、まだ癒えていなかったから。愛される資格が自分にあるのか、怖かった。
「私みたいな、何の価値もない女に、皇太子の隣は似合わないわ」
「君が無価値? 馬鹿なことを言うな。君は、君のままで、唯一無二だ。だから私は恋をした。君の弱さも、強さも、全部含めて、君という人間が愛おしい」
その声は真剣で、温かかった。リシェルの心に、初めて春の風が吹いたような気がした。
「……本当に、私でいいの?」
「君以外を選ぶ理由が、どこにある?」
そう言って、彼はそっと彼女の手を握った。
*
それから半年後。
リシェル・フォン・グランツは、正式にアルヴィス・エル・フェルネス皇太子の婚約者として王宮に迎えられた。
戴冠式に先立って行われた祝宴では、諸侯たちがその噂に持ち切りだった。
「まさか、あのグランツ家の次女が皇太子妃になるなんて……」
「以前は“悪役令嬢”と呼ばれていたが、実は犠牲者だったという話だ」
「いや、それよりも……あのドレス姿、美しいな」
リシェルは純白のドレスに身を包み、堂々と玉座の横に立っていた。以前のような怯えた表情はそこになく、静かで気品ある微笑みが彼女をより美しく魅せていた。
そこへ、かつての婚約者カイルと姉のレイナが、招待状もないまま王宮に現れた。
「リシェル……っ!」
カイルが必死に声をかけるが、彼女は一瞥すらしない。
「私は、もう“あなたたち”のリシェルではないわ」
「待って、私たちは――」
レイナの声を、衛兵が遮る。
「これ以上の無断侵入は王命により処罰の対象です」
「ま、待て! 俺たちはグランツ家だぞ!」
「グランツ家はすでに王国から爵位を剥奪されました。あなた方は“ただの平民”です」
その言葉に、カイルとレイナの顔が凍りついた。
彼らは、自分たちが何を失ったのかようやく理解した。
そして――リシェルはようやく、過去から解放された。
*
夜。披露宴が終わり、リシェルはテラスに出て星空を見上げていた。
「……終わったのね」
「いいや、始まりだよ」
振り返ると、そこにはアルヴィスがいた。柔らかな微笑みとともに、彼はリシェルの手に指輪をはめた。
「これは、私の心。君に捧げよう。私の王妃として、私の妻として、隣で生きてほしい」
リシェルの目に涙が浮かぶ。
「私……幸せになってもいいの?」
「君がどれだけ泣いてきたか、私は知っている。だから、これからはその分、私が笑わせる」
その言葉に、リシェルはそっと頷いた。
「……はい」
星空の下で交わされた口づけは、彼女の人生に本当の春を告げる、最初の音だった。