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桜花彩麗伝  作者: 花乃衣 桃々
◆第一章 欠けた月の雫
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第七話


 ────少し時を(さかのぼ)る。

 春蘭と紫苑は堂へ赴き、夢幻を(おとな)っていた。


「やあ、ふたりとも」


 先に姿を見せていた光祥に出迎えられ、ともに円卓につく。紫苑は傍らに立ち、夢幻は壇上の長椅子に腰かけていた。


「早朝、鳳家から来た使いが医女を連れていったけど……道中は何事もなかったのかな」


「少なくともうちまでは大丈夫だったわ。今朝方、お父さまと軒車で宮殿へ向かった」


「旦那さまと一緒ですからきっと無事ですよ」


 それぞれの声を聞きつつ、夢幻は半蔀(はじとみ)の向こうに目をやる。


「既に尋問が始まっている刻限(こくげん)ですね」


 日は高く、澄んだ青空が広がっていた。


「ええ、うまくいけば蕭家の罪を追及できるわよね」


 春蘭は期待の込もった眼差しで希望的観測を口にする。


「そうしたらきっと、謝大将軍たちのことも救える」


「…………」


 夢幻がわずかに目を細めた。もの憂げな表情はどこか険しく、見るからに普段ほどの余裕を損なっている。


「夢幻さま……?」


 どことなく不穏な雰囲気を感じ取った紫苑は不安気にその名を呼んだ。

 夢幻はただ春蘭を見据えている。


「────どういうつもりだったのですか」


 静かに尋ねる口調は重々しい上にいかめしく、光祥も紫苑も口を(つぐ)んでしまう。春蘭も戸惑った。


「どう、って……」


「どういうつもりで謝悠景や朔弦を救おうと動いたのか、と問うています」


 調子を崩さないまま淡々と続けられ、思わず背筋を伸ばす。

 ぼんやりとしていた己の原動力や信念を形にできるような言葉を、頭の中で慎重に探した。


「罪のない人が……誰かの私心(ししん)や欲の犠牲になるのを見過ごせなかったの」


 悠景や朔弦の“立場”など、春蘭にとってはどうだってよかった。

 彼らが罠にかけられた被害者であることが明らかだったからだ。


 それを知ってしまった以上、じっとしてなどいられなかった。不条理を無視して捨て置くことができなかった。


 正義や道徳を重んじる清廉なお人好し────それが春蘭という人物だということは、この場にいる誰もがよく分かっていた。

 しがらみに囚われることがない。良家の子女としては稀有(けう)な存在だろう。


「動機を尋ねているのではありません」


 顔色を変えることなく夢幻は言った。


「彼らを救おうとしたのは……“鳳春蘭として”ですか?」


 反射的に頷きかけたものの、春蘭はふと動きを止める。

 結局、黙り込んで時間をかけても答えられなかった。

 そんなこと、考えたこともなかったからだ。


 ただ己の正義感と信義を貫いただけであって、見返りや利益のことなど頭の片隅にも上らなかった。

 それが、紛うことなき春蘭自身の考えと結論である。


 しかし“鳳”がつくと、何となくそぐわないような気がする。


 鳳家の人間であることにちがいはないが、夢幻の言う通りでは鳳家の利潤(りじゅん)を追求していることが前提となる。

 少なくとも今回、春蘭の原動力の中にそれは含まれていなかった。


「……分からない」


 ようやく口にした言葉は曖昧で、消え入りそうな声になってしまう。


 既にその答えを見抜いていたようで、夢幻は特段驚くこともなかった。ただ、そっと静かにため息をつく。


「……まだまだ自覚が足りないようですね。鳳家の娘として」


 ────そうかもしれない。実際についこの間、紫苑や光祥に()かれるまで、蕭家の恐ろしさを露ほども知らなかった。


「夢幻さま、何もそこまで……」


「あなたもですよ」


 ぴりついた空気を感じ取った紫苑が春蘭を庇うように一歩踏み出したところ、矛先がこちらへ向いた。


 思わぬ流れ弾を食らった気分で「え」と呟き、わずかに目を見張る。


「主を全肯定することがあなたの務めですか? このまま盲目的でいれば、待ち受けているのは破滅ですよ」


 鋭い言葉にぞくりと背筋が冷えた。

 蝋燭(ろうそく)の灯りを受けた夢幻の銀髪が光る。


 紫苑には、彼の言っている意味がよく分からなかった。


 春蘭に心からの忠誠を誓い、彼女を守ることに身命(しんめい)()している身としては、それの何が問題なのかが理解できないのである。


 いつだって春蘭は道義を重んじ、慈愛に満ちた心持ちで、数多(あまた)の選択肢の中から正しい道を選び抜いてきた。


 誰よりそばでそれを見てきた以上、いかなるときも信じるのは当然ではないのだろうか。

 それは、盲信とはちがうはずだ。


「……ごめんなさい、夢幻。紫苑に光祥も、迷惑かけちゃってごめんね」


 重たげな沈黙を破り、春蘭はしおらしく謝った。


「そんなことは思っていません」


 ふたりが口を開く隙もなく、夢幻が言う。


「ただ単に非難したいわけでもありませんよ。……わたしはただ、あなた方を失いたくないだけ」


 それは、いままでに聞いたどれよりも優しく切実な声音だった。

 言葉を失う中、春蘭は彼の耳に揺れる紫水晶の耳飾りに目を留める。


「夢幻……」


 意外そうに光祥が彼を見やった。

 冷徹ながらも冷たいというわけではなく、その実(いつく)しみにあふれている不思議な彼のことを。


「────これで終息すると思いますか」


 その声に謹厳(きんげん)さが戻った。そっと目を伏せ、すぐに自ら答えを(てい)する。


「恐らく不可能でしょう」


 濡れ衣を着せられ投獄された悠景や朔弦、蕭家の企てた陰謀の行方────まだ、何も終わっていないのだ。


 連中がこのまま大人しく終焉(しゅうえん)を迎えることはないだろう。


「そんな……」


「たとえばうまく事が運んで蕭航季を捕らえられたとしても、蕭容燕には打つ手などいくらでもあります」


 莫大な権力を振るう蕭家のことだ。

 真実をねじ曲げることなど、赤子の手をひねるかのごとく容易である。


「……強欲な彼らが大人しく引き下がるわけがないか。ちょっと急ぎすぎたかもしれないな」


「いずれにしても、こたびの件で連中を追い詰めることはできないと思った方がいい。最悪は証拠や証人を消し、院長のこともとかげの尻尾切りで逃れるでしょう」


 光祥や夢幻の言葉をどうにか受け止めるが、半信半疑な部分もあった。


 全容が王の耳に届いているのであれば、まだ機会はあるのではないか。

 何とかしてくれるのではないか、と春蘭は捨てきれない期待を膨らませてしまう。


 ただ、それでも純粋に楽観視できないのは、彼らの態度があまりにも真に迫っていたからだった。

 足りない“自覚”が少しずつ芽生えていく。


「いいですか、春蘭。本気で蕭家と渡り合うつもりなら、覚悟を決めてください」


「覚悟……?」


「あなた自身が矢面(やおもて)に立つ覚悟です」


 今回のように人知れず奔走(ほんそう)するのではなく、父や王に一任して委ねてしまうのでもなく、春蘭自らが戦うのである。


 それには常に危険がついて回り、生半可な心構えでは到底太刀打ちできないだろう。


 足をすくわれれば一気に奈落の底へ突き落とされる。それはすなわち“死”と同義かもしれない。

 それでも────。


「次に待ち受けるは妃選び……。それがあなたの初陣(ういじん)です」




 堂をあとにすると、春蘭は固く口を閉ざしたまま考え込んでいた。


『あなた自身が矢面に立つ覚悟です』


 そんな夢幻の言葉が頭から離れない。

 妃選びという機会を利用し、春蘭の信念が“本物”であることを示してみせろ、と言われたようなものである。


 確かに妃選びは好機だ。

 蕭家に対抗し、さらにはその勢力を削弱(さくじゃく)させる糸口になるだろう。


(でも────)


 簡単には割り切れず、気持ちの部分が追いつかない。

 父から聞いたときもそうだったが、まだ現実味がなく、どうしても婚姻に前向きにはなれない。


「……ねぇ、紫苑。王さまってどんな人か知ってたりしない?」


「王さま、ですか」


 軒車を整えていた彼はふと動きを止める。

 夢幻の言葉が響いているのだろうことは聞かずとも明白だった。


民草(たみくさ)の噂程度であれば……」


「なになに? 教えて」


「ええと……聞くところによれば、蕭容燕の操り人形だとか。孤独で情けない弱き王だと、(ちまた)ではよく言われています」


 いずれ春蘭が嫁ぐかもしれないと思うと、そんな手厳しい評価を口にするのは躊躇われた。

 しかし、それが現実なので仕方がない。


「な、なにそれ……」


 春蘭は戸惑いを(あらわ)にする。

 これもまた情勢や国情に疎かったせいかもしれないが、そんな王の実態も初耳だった。


「ていうか、蕭容燕の操り人形って────」


「……そうなのです。夢幻さまや光祥殿の案ずるところはそこなのだと思います」


 証拠や証人があるというのに、彼らが消極的だった理由がようやく分かった。

 王とは名ばかりで、実権は容燕や太后が握っているのだろう。


 何とかしてくれる、なんて幻想だったのかもしれない。

 本当に容燕の操り人形なのだとしたら、夢幻の言う通りだ。航季を捕らえても意味がない。


 もし“噂”が事実だとしたら────。


「王の妃になんてなったら逆におしまいじゃない……?」


 曇った春蘭の顔に三本の縦線が浮かぶ様が紫苑には見えた。

 言いたいことは理解できる。彼も小さく苦笑した。


 夢幻はそれこそが正攻法だとでも言いたげであったが、とてもそうは思えなかった。


 そんな王の妃になったところで、いったい何ができると言うのだろう。

 むしろ死期を早めることになりやしないかと心配になる。


 国の母たるその座を蕭家に害されないためには、日夜気を張り、常に命の危険から身を守り続けなければならない。


 きっと、自由はない。

 意思や感情も壊死(えし)するだろう。むしろ押し殺すべきなのだ。


 そんな過酷な座に、望んで就きたいと思うはずがなかった。


「春蘭」


 堂から出てきた光祥が、いつになく真剣な様子で呼んだ。


「……なに?」


 振り向いた春蘭と目が合っても、普段のように麗しい微笑を浮かべることもない。

 歩み寄ってくると、そっと静かに口を開く。


「いくら蕭家を弾劾(だんがい)したいと言っても、婚姻というのは一大事だ。ましてや王に嫁ぐなんて……」


 ゆらゆらと揺れる双眸(そうぼう)はどことなく儚げで、吸い込まれるように見つめ返してしまう。


「そのためだけに春蘭の人生を犠牲にするべきじゃない。きみは鳳家の姫である前に、ひとりの人間なんだから」


「光祥……」


 普段はどこか飄々(ひょうひょう)としているが、いまばかりは正直だった。

 彼の気遣いに気がつくと、不思議と張り詰めた気持ちがほどけていく。


「……ありがと。わたしにはまだ“覚悟”なんてないし、王さまに嫁ぎたいとも思わないわ」


 それを聞き、今度は光祥が力を抜いた。

 真剣な表情は保たれているものの、切羽詰まった雰囲気はない。


「もし────」


 一歩、近づく。

 いつもであれば目くじらを立てる紫苑だが、いまは黙って顔を背けるに留まった。


「もし、本気で嫌だって思ったら……そのときは僕が迎えにいく。ぜんぶ投げ出して、ふたりで遠くへ行こう。どこへでも連れて逃げてあげるから」


 頬に触れた手はあたたかかったが、注がれる眼差しはひどく切なげであった。

 思い描いてもそんな日は来ないと、とうに悟っているように。


「……ねぇ、光祥。いまからうちに来ない? そのときのお礼としてお茶を淹れるわ」


 春蘭は()とも(いな)とも答えることなく、そう言って笑いかける。

 一拍置いて頷いた光祥の顔に戻った微笑みは、散り際の桜のごとく儚かった。




 ────鳳邸の前に軒車が止まる。


 門を開けると、庭院(ていいん)には元明の姿があった。

 官服(かんふく)を身につけているところを見ると、宮廷から帰着(きちゃく)して間もないようだ。


「お邪魔します、宰相殿」


 優美な身のこなしで会釈してみせる。完璧なまでの所作と気品であった。


「ああ、光祥くん……」


 元明はやわいながらどうにか笑みを返す。

 彼のことは以前から春蘭の友人として認知しており、たまに夕餉(ゆうげ)をともにすることもあった。


「早いのね、お父さま」


「お顔の色が少し優れないようですが……何かあったのですか?」


 案ずるように眉を下げる紫苑にはふたりも同感であった。

 尋問のことを思い、嫌な予感が立ち込める。


「……してやられてしまった」


 果たして元明は暗く沈んだような声色でそう告げる。眉を寄せ、険しい面持ちで顔を伏せる。


「それって……尋問のこと、よね?」


「うん、その通り。王命のお陰で蕭航季の投獄は断行(だんこう)されたけど、医女の尊い命もあの物証も消されてしまった」


 それぞれが息をのんだ。

 いくらか想定していたとはいえ、まさしく“最悪”の結果を迎えてしまったということである。


「本当にそんなことに……」


 俯いた光祥が呟く。

 例の医女を斡旋(あっせん)したのは自分であるため、尚さら重い責任感がのしかかってくる。


「……蕭家が手を下したのですか?」


「分からない。あの子が殺められてしまったのは確かだけど、莞永くんが言うには、遺体は既に消えていたそうなんだ。それ自体は蕭家の仕業だろうけど……」


「謝悠景たちは────」


「それもまだ分からない。蕭容燕が息子を救うのに彼らを利用するかもしれないし、そうしたらふたりとも無事ではいられないだろうね。状況が変わった以上、何事もなく解放される可能性もあるけど」


「…………」


 ぎゅう、と春蘭はきつく両の拳を握り締めた。

 悔しくやるせない思いで震え、てのひらに鋭い痛みが走る。食い込んだ爪が肌を破っていた。


(何もできなかった……)


 医女を守ることも、蕭家を断罪することも、無実の彼らを救うことも────。

 何も成し得ず、一方的に失っただけである。


『いいですか、春蘭。本気で蕭家と渡り合うつもりなら、覚悟を決めてください』


 夢幻ははじめから何ひとつとして間違ったことなど言っていなかった。

 そう気がついた途端、彼の言葉が先刻(せんこく)以上に深く染みてくる。


『次に待ち受けるは妃選び……。それがあなたの初陣です』


 自分自身が矢面に立ち、己の力をもって戦う覚悟────。

 その意味が明確に浸透してくると、強く意識せずにはいられなくなった。




     ◇




 一夜明けたが、状況は変わらず膠着(こうちゃく)状態にあった。


「陛下! 表に侍中がいらっしゃって……」


 勢いよく扉が開き、清羽が蒼龍殿へと駆け込んできた。真っ青な顔でおろおろと慌てふためいている。


 煌凌の頭に険相(けんそう)(つら)構えをした容燕が浮かんだ。

 大方、昨日の尋問で航季を捕らえる王命を下したことへの怒りがおさまらず乗り込んできたのだろう。


 そう推測したが、どうやらちがっているようだ。

 清羽は身を縮こまらせながら続ける。


「こたびの件を解決しにきた、と────」




 左右に扉を開き、殿の外へ出る。

 屋舎へと続く石階段の下、大門から殿へと伸びる石畳の通路に、堂々たる態度で容燕が立っていた。


「……主上。いますぐ航季を釈放なされ」


 いかめしい相形(そうぎょう)ながら、昨日よりもどことなく余裕が生まれているように見える。


 戸惑いを禁じ得ず、眉を寄せた。

 これについては容燕とて反論できない真っ当な結果であろうに、こちらの方が気後(きおく)れしそうになる。


「そ、それはできぬ。不正授受は航季の指示だったと、院長が自白したではないか」


 煌凌は後ろで手を組み、精一杯胸を張って王の威厳を保とうと試みた。

 しかし容燕はまったく怯まず、さらには意味ありげに口角を持ち上げる。


「聞いて驚かれますな、主上。このわたしが、こたびの件の真犯人を捕らえました」


「真犯人……?」


 いったいどういうことだろう。


 航季が捕らわれたこの時宜(じぎ)に、そんな都合のいいことがあるだろうか。

 そもそも容燕の企てであろうに“真犯人”も何もない。


(もしや────)


 証言を捏造(ねつぞう)し、またしても悠景らを黒幕に仕立て上げるつもりなのではないだろうか。


 既に投獄されている彼らがさらなる罪に問われれば、口実を得た臣下たちが不敬罪だ何だのと騒ぎ立て、ふたりの死刑を求刑する可能性が高い。

 

 蕭派の(おみ)たちは、彼らを排除したいという容燕の意に沿うに決まっているのだから。


「…………」


 不審がる煌凌の心情を察したらしい容燕は、くつくつと低く笑った。


「ついて来なされ。ご覧になれば分かります」


 (しゃが)れた声が不気味だった。嫌な予感を抱かずにはいられない、確実に何かを企んでいるであろう笑みである。


 容燕が(きびす)を返して歩き始めると、条件反射的に煌凌の足も動いた。

 顔色の悪い彼の額に冷や汗が滲むのを見た清羽は、不安気に眉を寄せる。


「陛下……」


 その泣きそうな表情は煌凌よりも年上とは思えず、迷子の子どものようであった。


「……大丈夫だ」


 煌凌は囁くように言う。清羽を安心させるためというよりは、自分自身に言い聞かせている部分が大きかった。


 大人しく追随(ついずい)してくる王の姿を確かめた容燕はほくそ笑み、夜明け前の記憶を辿る────。




     ◆




「容燕さま……?」


 触れ文の実行犯として捕らえられた男は、地下牢の格子(こうし)の向こうに容燕の姿を認めた。

 漂う不穏な空気に身を強張らせる。


 怒りのような、焦りのような、迂闊(うかつ)に触れれば大火傷を負わされそうな、妙な雰囲気をまとっていた。


「証言を覆せ。王の前で、すべてはそなたひとりで企て実行したことだと申すのだ」


「え……!?」


 男は目を見張った。

 そんなことをしたら命の保証はない。即刻、処刑されることになるだろう。


「なに、恐れることはない。刑が執行される際は替え玉を用意する。そなたのことは人知れず逃がし、家へ帰してやろう。無論、報酬を倍にする話も忘れてはおらん」


 謝悠景を首謀者に仕立てるよう言われた折も、このような約束を交わした。

 実際、証言したあとは拷問されることもなく、ただ拘留(こうりゅう)されているだけであった。


「これが最後の仕事だ」


 容燕の言葉は信ぴょう性も説得力も十分である。

 今回もそれを信じれば、恐らく生きてここを出られるはずだ。


「……分かりました。感謝します、容燕さま」


 男は冷たく血塗られた床に両手をつき、深々と(こうべ)を垂れる。


 ────これまで彼は稼ぎが悪く、ならず者として悪事を繰り返す以外に生きる術がなかった。

 今回はとんだ目に遭わされたものである。


 これに懲りて、もう愚行(ぐこう)からは手を引こう。きちんと家族を(かえり)みて平穏な生活を送るのだ。

 そう決意した男は、いっそどこか清々しい気持ちでそのときを待つことにした。




     ◇




 堂々と突き進んでいく容燕のあとを、蒼白な顔で煌凌はついて歩いた。


 向かう先は地下牢────朝だというのに一切の光も届かず、じめじめと湿気(しけ)っている。

 相変わらず埃っぽく、鼻が曲がるほどの血のにおいが充満していた。


「牢を開けよ」


 容燕が兵に命ずると、引きずり出された男が王の前に(ひざまず)かされる。


「さぁ、改めてそなたに尋ねよう。触れ文に加え、薬材不足など一連の事件を企てたのは誰だ?」


 煌凌は警戒しながら、そう問われた男に視線を向ける。


「そ、それは……」


 身を震わせながら視線を泳がせた男は、窺うように容燕を見やった。

 確かな頷きが返ってくると、その仕草に安堵したように意を決して口を開く。


「……すべて、俺が画策(かくさく)しました」


 あまりに予想外の自白を受け、煌凌は瞠目(どうもく)する。


「何だと……?」


「以前、謝悠景さまの指示だと証言したのは偽りです。本当はぜんぶ俺がひとりでやったことなんです!」


 意のままの証言を得られた容燕は密かに笑い、そっと髭を撫でた。


「何ゆえそのような偽りを申した。何ゆえ……いまになって証言を覆したのだ」


 煌凌は困惑したように男に詰め寄る。

 視線を彷徨わせた彼は、答えになる言葉を必死で探した。容燕の言う通りにした、とは口が裂けても言えない。


「あ、あのときは気が動転して……ほかの誰かに罪をなすり、俺ひとりだけでも助かろうと思い……。し、しかしやはり、それは道義(どうぎ)に反すると思い直したんです」


 その言い分は理解できる。しかし腑に落ちない。

 違和感を覚えた煌凌は(いぶか)しげに眉を寄せる。


(罪を誰かになすりつけたかったとして……何ゆえそれが悠景なのだ)


 ならず者が不意に口にするような名とは思えない。

 煌凌はそろりと顔をもたげ、容燕を見やった。


(まだ繋がっておるのか……?)


 男は自主的に自白をしたわけではないのだろう。

 容燕に雇われた身であるはずなのに、彼の名が出ないことが証拠である。


 悠景の指示だという当初の証言自体は、やはり容燕の命令に従って落としたものだ。

 違和感の正体が見えてくるも、意図を掴みきれないでいた煌凌は、しかし次の言葉で合点がいく。


「お聞きになりましたか、主上。この男こそが()()()の元凶だったのです」


 ────そういうことか、とようやく狙いに気がついた。


 薬材の不正授受、それによる品薄と高騰、触れ文や民への扇動(せんどう)……その“すべて”をこの男ひとりに背負わせることで、航季の免責(めんせき)を目論んでいるのだ。


 当然、相対的に悠景らの冤罪(えんざい)も証明されるわけだが、そちらの目的については一旦諦める判断をしたらしい。


 ふたりを解放する代わりに航季の罪を見逃せ、と暗に取り引きを持ちかけてきているわけだ。


「この男は責任を持ってわたしが処刑いたしますゆえ、ご安心を」


 はじめから用意していた台詞なのだろう。落ち着き払った声色にはわざとらしささえ滲んでいる。


 そう言うや(いな)や、容燕はそばに控える兵の(はい)している剣を抜き、思い切り振りかぶった。

 白刃(はくじん)蝋燭(ろうそく)の灯りを鈍く弾く。


「……!?」


 男ははっと息をのんだ。刃の捉えている先を悟ると、底冷えするような寒気が全身を這う。


「そ、そんな……っ」


 震えおののきながら慌てて首を左右に振った。動くたび鎖が甲高い音を立てる。


「お助けを! 容燕さま、約束がちが────」


 ザシュッ……鮮血が(ひるがえ)って舞う。

 鋭い刃が一瞬のうちに男の首を()ねた。


「……っ」


 煌凌は思わず目を瞑り、咄嗟に顔を背ける。


 不意に訪れた静寂の中、ぽたりぽたりと剣先から滴る血の音が響いていた。

 カラン、と剣を放った容燕は甘心(かんしん)したようにひとり高笑いする。


「これで万事解決。お喜び申し上げますぞ、主上」


 ……そろりと恐る恐る目を開けると、眼前に広がっていた惨たらしい光景に足がすくんだ。


 いつの間にか、床に広がる血の海に両足が浸かっている。金糸(きんし)の刺繍が施された(くつ)がじわじわと赤く染まっていく。


 思わず後ずされば、転がった生首と目が合った。


「……う、っ」


 無念と言わんばかりの苦悶(くもん)に満ちた表情で男は息絶えていた。重く、深く突き刺さる。


 血溜まりから彼の手が伸びてくる幻を見た煌凌は、縫いつけられたように動けなくなる。身体が強張って息が苦しい。


「へ、陛下……。お召しものを替えに参りましょう」


 控えていた清羽が声を震わせながらも毅然(きぜん)と進言した。この場で王を守れるのは自分しかいない。


 彼の言葉で煌凌の金縛りが解け、無意識に止まっていた呼吸が再開する。

 声はからからに渇いた喉に張りついてしまい、言葉こそ出なかったが何とか頷いた。




 地下牢から這い上がる。

 血の海から、斬られた男の目から、容燕の笑い声から、必死で逃げるように。


「……っ」


 外の空気を思いきり吸い込む。少しでも肺の中の淀んだ空気を追い出したかった。


 ふらふらとおぼつかない足取りになりながら、煌凌は何とか歩を進めていく。


 踏み出すごとに足が地面に沈んでいくような錯覚を覚え、結局大して進むこともできずに立ち止まることを余儀なくされた。


「だ、大丈夫ですか? 陛下……」


 泣きそうな表情で案じる清羽は、微力ながらその背に手を添えて支える。

 顔面蒼白の煌凌はままならない呼吸をどうにか繰り返していた。


「……っ」


 いまにも叫び出したい気分だった。

 恐ろしさに押し潰されてしまいそうだ。


 何が悲しくてあのような冷酷非道な男を、その所業を、黙認しなければならないのだろう。

 自分は王であるはずなのに、どうしてこんなにも追い詰められているのだろう。


 悪に怯え、屈するほかない現状に辟易(へきえき)する。

 利用されるためだけに生きながらえ、孤独に(さいな)まれ続ける日々に何の意味があるのだろう。すべて投げ出してしまいたくなる。


 息苦しくて、身体が重かった。まるで深い水の中で溺れているみたいだ。

 どれだけもがいても、水底(みなそこ)に漂う闇が彼を飲み込まんとする。一切の光も射さない。


 苦しい。

 苦しくてたまらない。


 ぎゅう、と胸のあたりを押さえた。襟元がよれ、しわが寄る。

 あらゆる輪郭(りんかく)が滲んでぼやけた。


(逃げてしまいたい……)


 どこでもいいから、息のできるところへ行きたい。




「────陛下」


 陽龍殿の手前で不意に声をかけられた。


 余裕のない状態で顔を上げると、そこにいた莞永が一礼する。

 紙束を抱えている彼はそのまま歩み寄ってきた。


「何かあったのですか? お顔の色が優れませんが……」


「……よい、気にするな」


 掠れた声で答えると、莞永の手にあるものに目を留める。


「それは?」


「あ、禁婚令のお触れです。妃選びが行われる旨も書かれています」


 数日に分け、その触れ文を各所の高札(こうさつ)へ貼ってくるよう命令を受けたのであった。

 本来は莞永の仕事ではないものの、勝手に業務を離れた罰として雑務(ざつむ)を押しつけられたのだ。


「…………」


 煌凌は固く口端を結ぶ。露骨(ろこつ)(いと)う表情だった。

 絶望への秒読みが始まったのだから無理もないだろう。莞永は眉を下げた。


「……あの、陛下」


「……何だ?」


「こたびの一件……将軍たちを救うべく奔走(ほんそう)してくれていたのは、鳳家のご令嬢なんです」


 煌凌は一瞬ほうけた。話題が逸れ、少しばかり張り詰めた気がほどける。


「お嬢さまは危険を顧みず手を貸してくださいました。自ら宮中や施療院に出向き、証拠と証人を押さえていたのです」


 思い返してみればそうだった。春蘭は確かにそう言っていた。

 証人とは院長のことだとばかり思っていたが、彼だけではなかったようだ。


 以前の莞永からの報告で、記録日誌とやらが燃やされたこと、ひとりの医女が犠牲となったことを王は聞いていた。

 それらが彼女の掴んだ証拠と証人だったのだろう。


 春蘭から懇願(こんがん)されたとき、早々に諦めることなくまともに取り合っていれば、結果が変わっていただろうか。


 蕭家に立ち向かう気概(きがい)も戦意もとうに失っていた煌凌は、何ひとつとして応えられなかった。

 

 彼らの悪事や謀略(ぼうりゃく)を知っていても、どうにもできないのがこの国の現状である。


 むしろ煌凌が下手に歯向かったせいで、結局は容燕の思うつぼとなってしまった。

 いっそう強気に圧迫する口実ができたのだから。


 真実を知ったところで、煌凌にはどうすることもできないのである。


「……すまぬ」


 消え入りそうな声で言われ、莞永は慌てた。


「陛下が謝られることでは……」


「いや、すべて余のせいだ。悠景や朔弦が捕らわれたのだって」


 最初から、己の身や玉座を守ることを優先していた。必死だった。

 容燕に牙を()かれたふたりを早々に見捨てたのも、自分のためでしかない。


 彼が無理やり作り出した結末を真実とするほかなかった。

 その裏で犠牲となった命があるとも知らずに。……なんて無責任なのだろう。


「どうかご自分を責めないでください。陛下のお陰で蕭航季を投獄できたんですから」


 しかし、間もなくそれも無に()すこととなる。

 悠景らの解放と引き換えなのがせめてもの救いであるが。


「……莞永」


「はい」


「ほどなくして悠景たちが放免される。そうしたら、ふたりとも復職させるつもりだ」


 莞永は目を見張り、それから安堵したように破顔(はがん)する。


「ありがとうございます! 本当に……感謝します、陛下」


 当然といえば当然の(はか)らいではあるのだが、それだけが本望だった莞永にとってはこの上ない吉報(きっぽう)となった。


 自分のことではないのに心の底からの喜びを(あらわ)にする彼を眺め、煌凌は不思議に思う。

 これほど配下の者に慕われるというのは、いったいどんな感覚なのだろう。


「……そなたも大儀(たいぎ)であった」


 そう言葉をかけ、陽龍殿の方へと踏み出しかけた王を「あ、あの」と慌てて引き止める。


「もうひとつ、お耳に入れたいことが……」


 振り向いた煌凌に歩み寄り、こそこそとその耳を拝借(はいしゃく)する。


「お嬢さまですが……“左羽林軍の煌凌”を捜してましたよ」


 声を潜めて告げられた言葉にはっと瞠目(どうもく)した。どきりとする。


「そ、それで、そなたは何と……?」


「ひとまず同僚のふりをしておきましたが、どうなってるんですか?」


 莞永が機転を利かせ、話を合わせてくれて助かった。ほっと息をつく。

 適当についた嘘が危うく(あだ)となるところだった。


「……このまま春蘭には内緒で、同僚ということにしておいてくれぬか」


 彼女にまで失望されたくない、と咄嗟に思った。

 正体を偽っているとはいえ、王である以前にひとりの人間として接してくれた(まれ)な人物である。


 純真でまっすぐな眼差しが眩しかった。名を呼んでくれたのが嬉しかった。


 いつか壊れる夢だとしても、そのときまでは心地よい時間を享受(きょうじゅ)していたい。

 煌凌のそんな唯一のわがままを、莞永は理由を尋ねることもなく聞き入れたのだった。




     ◇




 錦衣衛の地下牢へ赴いた容燕は淡々と階段を下り、薄暗い空間を(おく)せず進んでいく。

 最奥(さいおう)の牢の前で足を止めると、格子の向こう側を見下ろした。


「────出よ、航季」


 解錠された檻からおずおずと這い出た航季は、慎重に父の顔色を窺う。

 拘留されていた疲弊(ひへい)も不快感も忘れ、肌を刺すような緊張感を覚えた。


「感謝します、父上……」


 結果としては、曲がりなりにも何とか証人や証拠を消すことに成功した。

 とはいえ、手こずった上に危うく鳳家の娘の術中(じゅっちゅう)に陥るところだった。


 そのことを責められるのではないかと身構えたものの、容燕からは怒気(どき)を感じられない。


「も、申し訳ありませんでした」


 試されているのかもしれない、と逆に恐ろしくなった航季は、何ごとか言われる前に先んじて頭を下げた。


「何を謝る。当初の計画は破綻(はたん)したが、ただすべてが白紙に戻ったに過ぎん。無論、鳳家にも利はない。何よりであろう?」


 したり顔に笑みを浮かべ、いつものように髭を撫でる。

 饒舌(じょうぜつ)なところを見ると、どうやら本当に機嫌は悪くないようだ。


「よいか、謝家などという小物はもはや相手にするまでもない。こたびのことで気勢を()ぐには十分だっただろうからな」


「…………」


「次なる一手は────妃選びだ」


 航季は父の双眸(そうぼう)(たぎ)る野心を覗いたような気がした。


「帆珠を王妃の座に据える」


 航季の脳裏(のうり)に妹の姿が浮かんだ。彼女であればこの話を大層喜ぶことだろう。


 娘ということもあり、幼少期から蝶よ花よと育てられてきた帆珠はわがままな気性で、容燕に似て強欲な節があった。


 自分の思い通りにならなければ機嫌を損ねるし、欲しいものは何でも手に入れないと気が済まない。


 そんな性分を考えるに、王妃という至高(しこう)の座や後宮での煌びやかな生活に憧憬(しょうけい)を抱いているはずだ。


(だが……)


 航季は鳳家の姫に思いを()せる。

 妃選びが始まれば、恐らくはかの娘が妹にとって唯一の敵となるだろう。

 他家の娘などもとより取るに足りず、脅威にもならない。


 鳳蕭両家の確執(かくしつ)を抜きに客観的に判断しても、家柄は無論、容姿も素養(そよう)も並外れて(ひい)でていると聞く。


『お嬢さまが……謝大将軍たちを助けるべく動いてくれてて』


 何より、恐れることなく蕭家を相手取る度胸。

 大胆不敵な行動も正義感も、直接相(まみ)えていない航季でさえ動揺させられた。


「…………」


 果たして一筋縄で事が運ぶだろうか。

 波乱が待ち受けているような予感が渦巻き、硬い表情のまま口を(つぐ)む。


「心配はいらぬ、妃選びなど形だけ……。もはや帆珠は王妃に内定していると言えよう」


 確かに気弱な王は黙って容燕の意に従うしかないであろうし、朝廷の(おみ)たちも蕭派で固めている。

 さらには後宮の(おさ)である太后をも抱き込んだいま、こちらが有利なのは間違いない。


「……だと、いいのですが」


 それでも胸騒ぎを無視できず、航季はつい曖昧な答えを返した。




     ◇




「久々の太陽は目に染みるぜ」


 放免された悠景は噛み締めるように言う。

 拘束を解かれ、朔弦とともに地上へ上がったところだった。


 空を仰ぎ、思わず目を細める。こんなにも眩しかっただろうか。

 囚われていたのはわずかな間だったはずだが、妙に懐かしい感じがした。


「……結局、侍中に(もてあそ)ばれただけだったな」


 左羽林軍へと向かう道中、悠景はうんざりしたように呟く。

 生傷から滲み出た血が薄汚れた衣に染みていく様を眺め、ため息をついた。


「……ったく。捕まり損だ」


 理不尽な処遇を振り返れば、文句を垂れたくなる気持ちは朔弦にもよく理解できる。

 とはいえ過ぎたことだ。ふと頬から力を抜いた。


「……鳳家の姫君に感謝しなければ」


 放免に先んじて面会に来た莞永から、事の全容は聞いていた。


 まさか春蘭が協力的に動いてくれるとは思わなかったが、自分たちが命を繋げたのは紛れもなく彼女のお陰と言える。


「ああ。かの娘がいたから、俺たちはこうしてまた陽の光を浴びることができてる。必ず報いねぇとな」


 変装して宮殿へ忍び込んだり、自分たちを救うべく奔走してくれたり、行動は大胆ながら心根(こころね)の清く優しい娘なのだろう。

 “鳳家”というだけで敬遠していたが、どうやらそれは間違いだったようだ。


「ところで……太后と蕭家は手を組んだままなんだよな」


「恐らくそうでしょうね」


「太后が敵に回ったことを考えると、今後我々は鳳家と意を共にすることになるのか?」


 義理堅い叔父が、しかし、あくまで春蘭への恩返しと鳳家への左袒(さたん)を別ものとして考えていることは幸いだ。

 朔弦は冷徹に言を返す。


「……それには慎重を期さねばなりません。こたびの二の舞になっては、今度こそ終わりですから」




     ◇




 春蘭はゆったりと市中を進む軒車に揺られながら、小窓から外を眺めた。

 通り過ぎると同時に薬材の値札を確かめる。


「……よかった。少しずつ落ち着いてきてるわね」


 尋問が終わり、片がついてから数日経ったところだが、既に薬材の高騰はおさまりつつあるようだ。

 想定以上に早く終息へ向かいかけている。


「あ、薬房にできてた人だかりもなくなってますね」


 小窓から顔を出した芙蓉が言った。

 以前のように民たちが押し寄せている様子もなく、市井(しせい)はいたって平和そうだ。


「本当によかったですね、お嬢さま。ここ数日お疲れのようでしたけど、顔色がよくなられました」


 わずかに目を見張った春蘭は、芙蓉の気遣いをありがたく思いながら微笑み返す。


 確かに萎れていたが、疲弊というより哀傷(あいしょう)によるところが大きかった。

 無力ゆえのこの結末が心苦しく、情けなく、やるせない。


 それでも悠景や朔弦の放免がせめてもの救いとなり、どうにか感情に折り合いをつけることができた。

 夢幻の言葉が蘇るたび奮い立たされ、前を向くに至った。


 ふと顔を上げ、再び小窓の外に目を向けたとき、往来(おうらい)の中に見覚えのあるふたりの姿を捉えた。

 今度は春蘭が小窓から身を乗り出し、馭者(ぎょしゃ)を務める彼に声をかける。


「紫苑、ちょっと止めてくれる?」




 軒車から降りた春蘭は、高札の前に立つ彼らのもとへ歩み寄った。

 呼びかけるより先に気がついたらしい旺靖が振り向く。


「あ! お嬢さま」


 触れ文と刷毛(はけ)を片手に、ぱっと晴れやかな笑顔をたたえた。


 一拍遅れてこちらを向いた莞永は、打って変わって落ち着いた所作で一礼する。

 切羽詰まったような雰囲気は抜けていたが、どことなく浮かない表情でもあった。


「聞いてください! 俺、門衛からちょっと昇格したんすよ。お陰さまで莞永さんの右腕になりました」


 へへ、と得意気に笑う旺靖に関しては普段通りの茶目っ気たっぷりな様子である。


 莞永は「自分で言うなよ」と困ったように笑ったものの満更(まんざら)でもなさそうだ。

 それから一度だけ俯くと、春蘭に向き直る。


「本当に、お嬢さまには何とお礼を申し上げればいいのか……」


「それを言うならわたしの方よ。あの夜、大変な状況だったのに、わたしのこと信じてくれてありがとう。莞永にも旺靖にも助けられたわ」


「いやいや、お嬢さまがいなければ俺たちは動くこともできませんでしたから。ね、莞永さん」


「その通りです。……なのに、本当に申し訳ありませんでした」


 あの日、片時(かたとき)でも医女から目を離したことが未だ悔やまれてならない。

 彼女を守りきることができていれば、蕭家の罪を立証できたはずだ。


 自分のせいですべてが水泡(すいほう)()し、尊い命がひとつ犠牲になったと言っても過言ではない。


 春蘭のくれた機会を棒に振ってしまった。

 合わせる顔などなかったが、己の責任から目を背け続けることは、莞永にはできなかった。


「……あなたが謝ることないわ。自分を責めることもない。悪いのは蕭家なんだから」


「お嬢さま……」


「これで終わりなんかにしない。こんなことがまかり通るなんておかしいもの」


 決然たる春蘭の双眸(そうぼう)を見つめ、唇を噛み締める。


「……そうですよね。あの子が間違ってなかったってことを世に示せるのは、もう僕たちだけかもしれない」


 莞永の脳裏に、最後に見た医女の透き通った笑みが蘇ってきた。

 いっそう心を締めつけられる。彼女が(あや)められる(いわ)れが果たしてどこにあったと言うのか。


「なら、蕭家に思い知らせてやりましょうよ」


 ぐっ、と拳を作った旺靖が呼びかける。


「俺、やっぱ許せないっす。今回だって……ひょっとしたら大将軍も将軍も殺されてたかもしれないんすよ!?」


 熱が入った彼の声は思いのほか大きくなっていたようで、道ゆく人々が何事かとたびたび振り返っていた。


「旺靖」


「おかしいっすよ! あんなあくどい連中が容認されてるなんて。残忍な行為が繰り返されてるなんて! その裏で犠牲になった人たちの無念はどうなるって言うんすか!?」


 莞永が(なだ)めるように名を呼んでも、憤慨(ふんがい)している彼の耳には一切届いていないようだった。


 彼が言っていることは間違っていない。

 その気持ちにも感情にも理解は及ぶ。


「陛下も陛下っす! その地位にありながら、何もせずに黙って見てるだけなん、て……っ」


 ついに旺靖の脳天(のうてん)に容赦なく莞永の拳が振り下ろされた。

 彼は「痛ってぇ!」と涙目で嘆く。


「大概にするんだ! 往来で蕭家や陛下の悪口を喚き散らすなんて、とても正気とは思えない」


 どこに誰が潜んでいるか分からないのに、聞かれたらどうするつもりなのだろう。

 不敬罪に問われても言い逃れできない。


「う……」


 旺靖は頭を押さえて涙ぐんだ。

 普段は温和(おんわ)で優しい莞永だが、それゆえに怒るととても怖い。頭に直撃した拳の痛みと相まって泣きそうになる。


「すいませんでした……」


「……でも、わたしもそう思う。だから戦うわ」


 その心意気は揺らがずとも、問題はそのための手段であった。

 既に示唆(しさ)されているように“妃選び”がその舞台となるのだ。分かっていても、まだ覚悟は決まりきっていない。


「ところで、ふたりはここで何してるの?」


 ふと思い立って尋ねると、莞永が紙束を抱えた。


「禁婚令のお触れをして回ってるんです。間もなく妃選びが始まるので」


 なんと時宜(じぎ)に適ったことだろう。図らずも春蘭の気が重くなる。

 相手が王でなくとも誰かに嫁ぐなんてまだ考えられないのに、逃げられない域にさしかかっているようだ。


 ため息をつく春蘭の様子を見て、その意味を勘違いしたらしい旺靖が笑いかける。


「大丈夫っすよ! お嬢さまなら絶対選ばれますって!」


 そうではないだろう。莞永は思わず心の中でつっこむが、その意見には同感であった。


 鳳姓という無二の手札を抜きにしても、春蘭には十分に王妃の素質があると思う。


 深窓(しんそう)の令嬢ゆえの容姿や所作は言わずもがなとして、悪に屈しない強さや道義を重んじる姿勢、弱きを(いつく)しむ真心といった気立ては何にもかえがたい。


「────陛下は優しいお方ですよ」


 ぽつりと呟くようではあったが、莞永の声は往来の喧騒(けんそう)に飲み込まれることなく春蘭の耳に届いた。


「優しくて、優しすぎて、それゆえに弱い。でも……同時に強くもあります」


 孤独と戦い、脅威に晒されながら、いつも(かげ)った表情をしている王。

 深い悲しみと絶望をひとりで背負っている彼の瞳は、海の底みたく重く暗く沈んでいる。


 蕭家に刃向かえないという点では、確かに弱いと言わざるを得ない。


 それでも必死で王座を守り続けてきた。

 容燕の毒牙(どくが)に怯むことはあっても、決して逃げ出すことなく。


 即位した当時、彼は“王”という位を(にな)うにはあまりに幼かった。

 しかし、その頃から変わらず王たる自覚だけは誰より持ち合わせている。


 玉座に固執(こしつ)し、その座を守り抜く必要性をよく理解している。

 その宿命を受け入れたからこそなのだろう。


「…………」


 春蘭にはその言葉の意味があまりよく分からなかった。

 世間では“名ばかりの王”などと評されているという彼を“強い”と言った理由も。


 しかし、そばで守っている羽林軍の莞永がそう言うのだ。

 すなわち少なからず、王にも戦う意思があるということなのではないだろうか。


 剣を交えるだけが戦いではないのだ。

 ただ、じっと耐え忍んで待つこと────それが王なりの戦いなのかもしれない。


 あるいは本当にただ恐れているだけなのかもしれないが。

 それくらいに鳳蕭両家の力は肥大化(ひだいか)していた。王の臣下でありながら、王が制御できないほどに。


「では、我々はこれで失礼します。次の高札に向かわないと」


 莞永の声に、春蘭ははたと我に返った。


「妃選び、頑張ってくださいね! 俺も健闘を祈ってるんで」


 眩しいくらいの笑顔で言い、旺靖は親指を立てる。

 当然ながら悪意はないのだろうが、またしても苦い気持ちになった。


「……ありがと。ご苦労さま」




 ふたりと別れた春蘭は停めていた軒車の方へ戻る。

 外で待っていた紫苑はどことなく不安そうな面持ちで迎えた。


「どうなさるのですか?」


 何について尋ねているのかはすぐに見当がつく。いたずらっぽく笑ってみせた。


「聞いてたの?」


「聞こえたのです」


「……どうもこうもないわ。身上書の提出は義務だもの」


 貴族の子女(しじょ)はもれなく妃候補者となるため、身上書を提出して妃選びに参加しなければならない。一家につきひとり、必ずである。

 鳳家直系のひとり娘である春蘭が、免れられるはずがなかった。


「覚悟をお決めに?」


 王の妃になるという覚悟。そのための争いに身を投じる覚悟。

 そして、その先に待つ蕭家との戦いに挑む覚悟。


 春蘭はしばらくの間、黙り込んだ。

 長いようで短い沈黙はほどなくして破られる。


「……正直、まだ心は固まってないわ。でもわたしの役目は理解してるつもり」


 ただ、気持ちが追いつかないだけだ。

 自分がすべきことや周囲が自分に望むことは分かっている。いずれ無理にでも割り切るしかなくなる。


「…………」


 複雑な心境ながら、紫苑もまた莞永と同様の所感であった。


 贔屓目(ひいきめ)なしに見ても、春蘭は惰弱(だじゃく)な王をそばで支えるに当たって最適な人材なのではないだろうか。


 どうか王妃になって世を変えて欲しい。そう思う反面、後宮へ送り出すのは寂しいとも思う。

 いまのところ、それが紫苑の本音だ。


 彼女が入内(じゅだい)すれば、常にそばにいることはできなくなるかもしれない。己の手で守れる保証がなくなってしまう。

 自分を一番に頼ってくれなくなるかもしれない。


 春蘭の中で自分よりも王の方に比重(ひじゅう)が偏ったら、優先順位まで入れ替わってしまうだろう。

 いや、王妃になるのであれば当然そうであるべきなのだけれど。

 それは────辛い。あまりにも。


 自分の存在意義すら曖昧になりそうだ。


「ねぇ、紫苑」


 ふと静かに呼びかけられる。


「もし、わたしが後宮入りすることになったら……ついて来てくれる?」


「もちろんです」


 口をついて出たといった具合の即答ぶりである。

 聞かれずとも、頼まれずとも、最初から紫苑の答えは決まっていた。


「どこまでもお供いたします、お嬢さま」


 何があろうと、決して揺らがない。


『ひとつだけ、約束して』


 いまは亡き春蘭の母の声が頭の中で響いた。


 良妻賢母(りょうさいけんぼ)たる彼女はいつも優しかったが、そのときだけはどこか(おごそ)かだったのを覚えている。

 それでいて寂しげで、悲しげで、(すが)るようでもあった。


『ずっと春蘭のそばにいて。この子を守って』


 その約束はいつしか紫苑にとって使命となり、果てには存在意義となったのである。


「よかった。それなら、王妃になるのも悪くないかも」


 冗談めかして春蘭は笑ったが、そう遠くない未来を示しているような気がして、いっそう複雑な思いが胸の内を掠めた。


 どうにか蓋をして見て見ぬふりを決め込むと、普段通りの微笑をたたえる。


「……今日もあの丘へ寄られますか?」


「そうね、お願い」


 分かりました、と頷いた紫苑は上向けたてのひらを差し出す。


「お手をどうぞ、お嬢さま。中で芙蓉が待っています」




     ◇




 適当な衣をひとつ引っかけた装いで宮外へ出た煌凌は、芝の上で仰向けに寝転んだ。陽を透かす桜を眺める。


 華やかな装飾の(ほどこ)された王の衣も、髪の結い目に挿す金の(かんざし)も、立派な冠や(くつ)も、王ゆえの上等な代物がいまは(かせ)でしかない。


 刹那(せつな)とはいえすべてを投げ出して逃げてきたわけだが、その甲斐(かい)あって少しばかり身も心も軽くなったような気がした。


「今日も早番なの? それとも視察?」


 降ってきた声にはっとして、そっと身体を起こす。

 丘の下に佇んでいた春蘭が、ゆったりと歩み寄ってきて隣に腰を下ろした。


「……視察だ」


「そう。薬材の値はもう見た? 高騰は落ち着きつつあったわよ」


「そのようだな」


「あなたの上官も釈放されたって聞いたわ。本当、よかったわね」


 そう笑いかけたものの、煌凌の表情は(かげ)ったままであった。眉根を寄せ、目を伏せる。


「……わたしは何もできなかった」


 沈痛(ちんつう)な声色を聞き、春蘭の睫毛が揺れた。同じことを思ったばかりだ。


 確かにあの夜、羽林軍に彼の姿はなかった。

 ほとんどがその間に起こった出来事であり、尋問に(たずさ)わることもなかったのであれば、そう自責の念に駆られるのも無理ないだろう。


「気に病むことないわ。無事だったんだから、そこは素直に喜べばいいの」


「……しかし、ふたりともわたしを恨んでいるかもしれぬ」


「どうしてそうなるの。あなたのせいじゃないでしょ」


 凄まじいほど後ろ向きな思考に戸惑ってしまうが、実際には的を射た(うれ)いであった。

 容燕に従ってのことだったとはいえ、己のために彼らを切り捨てたのだから。


「んー……でも、責任を感じるならこれからふたりのためになることをしていけばいいじゃない。上官に尽くすことが償いになるわよ」


「…………」


「時間は戻らないから、前に進むしかないの。くよくよしてたってしょうがないわ。後悔っていうのは落ち込むためじゃなくて、(かて)にするためにあるんだから」


 瘡蓋(かさぶた)になったてのひらの傷を眺めてから顔を上げる。三日月型の後悔の痕。

 煌凌に告げながら、その半分は自分に向けての言葉でもあった。


 不意に胸を打たれた彼は、思わずじっと春蘭を見つめる。

 向けられた微笑みはこの春空よりも澄み渡り、あたたかいものだった。()てついた心が少しずつ溶かされていくほど────。


 はら、と散った花びらが降り注ぐ。

 その一枚が絹のような煌凌の髪に留まった。


「あ……」


 春蘭はそっと手を伸ばし、指先で花びらに触れた。

 その瞬間、彼に手首を掴まれる。


 突然のことに驚いて身を強張らせたものの、加減しているのか力は決して強くなく、その気になれば簡単に振りほどける。


 はっと見張った双眸(そうぼう)には、寂しげな顔の煌凌が映っていた。


「どう、したの」


 戸惑う春蘭よりも煌凌の方がさらに困惑していた。自分自身でも思いもよらない行動だった。


「いや……すまぬ。……捕まえておかねば、消えてしまうと思って」


 しなやかな手がするりとほどかれる。温もりが消えると、春蘭の指先から花びらが逃げていった。


 ふと顔を逸らし、膝を抱えた煌凌の横顔を見つめる。色が白いお陰で、さした影がひときわ濃く感じられた。


「────昔」


 気づけば煌凌はぽつりと口を開いていた。


 そんな意図はなかったのに、理性があれこれ介入してくるより先に勝手に言葉がこぼれていく。


「わたしがまだ幼かったとき、父も母も兄も……みな亡くなった。大切な人をすべて失って、わたしはひとりぼっちになった」


 唐突に語られ出した彼の壮絶(そうぜつ)な過去に、春蘭は咄嗟に言葉が出なかった。

 ただ黙って耳を傾ける。


「わたしを置いて遠くへいってしまったみなを、恨めしく思ったこともある。いっそわたしも連れていってくれと願ったりもした」


「…………」


「それでも叶わず、夢ですら会えぬところを見ると、どうやらわたしには同じところへゆく資格すらないようだ。……本分(ほんぶん)を忘れるな、と叱ってくれているのかもしれぬが」


 煌凌は落とした視線の先で、微かに震える自身の手を見つめた。


「わたしは……夜が怖い」


 墨のように黒い闇が、何もかもを飲み込んでしまう夜。

 気を抜けば、自分まで深淵(しんえん)に溶かされてしまいそうで恐ろしかった。


 あるいは、底知れない暗闇から無数の手が伸びてきて、自分を引きずり込もうとするのではないかと、毎晩震えて眠りにつくのだ。


 その中には両親や兄の手もあるような気がしてしまう。

 ひとりだけ生き延びた自分は、それこそ恨まれているかもしれない。

 生きる価値も死ぬ資格も、自分にはないのだ。


「!」


 そっと、春蘭が煌凌の手を優しく掴んだ。不意に触れた温もりに驚き、彼は小さく身を震わせる。


「……大丈夫よ。夜っていつまでも続かないから」


 ゆらゆらと揺れる瞳で不安気に春蘭を見つめた。


「悲しいのも苦しいのも辛いのもそう。いつまでも続いたりしない。朝が来るのと同じように、いつか必ず心から笑える日が来るわ」


 いつの間にか不思議と、震えはおさまっていた。春蘭の柔らかい微笑みが浸透してくる。


「あなたはひとりぼっちなんかじゃないわよ。わたしだっているんだし」


「そなた、が……」


「何とでも好きに思ってくれたらいいわ。友だちでも話し相手でも、あなたの望むものになってあげるから」


 ほのかに見張られた煌凌の双眸(そうぼう)が揺らぎ、それから和らいだ。


 ひとりは怖くない、と教えてくれた少女のことを思い出す。

 あのときはぴんと来なかったが、ああして誰かを無条件に信じる気持ちが少しだけ理解できたような気がする。


 どこかほっとしたような気配が窺え、春蘭は手をほどいた。


「言っとくけど、あなたが可哀想で言ってるんじゃないわよ。ただ、ちょっと心配なだけ」


「心配は……大切な者に対してするものだ」


「……それは、まあ」


「そなにとって、わたしは大切か?」


「……気がかり、ではあるわね」


 偽りなく正直に答えると、一拍の沈黙が落ちる。


「わたしには……それも恐ろしい」


 そう言って再び俯いた煌凌に「え?」と聞き返した。儚げな横顔を見上げる。


「大切な存在はみな、この手から離れていった。失うと分かっているのに“大切”ができることが怖いのだ」


 両親も兄も、いとも簡単にいなくなった。

 大切な誰かを守るだけの力も留めておくだけの力もなければ、手にするだけ無駄だ。


 失う悲しみを知っていながら、幻想に縋りつくのがどれほど虚しいことかは身に染みて分かっている。


 春蘭は先ほど彼に掴まれた手首の感触を思い返し、ひとつ腑に落ちた。

 まっすぐな眼差しを向ける。


「……わたしはいなくなったりしないわ」


「春蘭……」


「約束する」


 鮮明な言葉と微笑が印象的に心に響いた。煌凌は思わず笑みをこぼす。


『わかった。約束するわ』


 (おの)ずと蘇ってきた記憶が優しく胸を打った。

 それを果たせなかったのは自分のせいだったが、“約束”という言葉は不思議と嬉しい響きに感じられた。


「どうかしたの?」


 春蘭は初めて目にした彼の笑みに驚いた。表情の変化に(とぼ)しく、暗い顔ばかりしていた彼が笑うなんて。


「……また昔の話だが、ある約束を交わした者がいたのだ。初恋……というにはあまりにささやかでそぐわぬかもしれぬが、確かに“大切”だった」


「……そうなの」


「そなたは、どことなくその者に似ている」


 容姿云々(うんぬん)ではなく、その存在や煌凌に与える影響そのものが、何度も九年前を彷彿(ほうふつ)とさせた。


 彼女の隣は居心地がいい。息が詰まらない。

 塞ぎ込んで見えなくなっていた世界を明るく見せてくれる。


「……そなたに会えて、話せてよかった。夜も“大切”も、恐れないことにする」


「煌凌……」


「そなたは特別だ、春蘭。ありがとう」


 さらりと穏やかな春風に頬を撫でられ、くすぐったいような気持ちになった。


 向けられた笑みからは影が消えている。まっすぐな言葉が胸に落ちた。

 花びらのように降り落ちたそれは、軽やかながら重厚さを感じさせる響きだ。


 春蘭が晴れやかな笑顔を返すと、またひとつ花びらが降り積もった。




     ◇




 昼下がり、蕭邸で休んでいた航季は帆珠の部屋を(おとな)う。


 本来であれば宮殿に出仕している時間帯だが、投獄されていたことで心身が耗弱(こうじゃく)しているとして、数日間の自宅療養が許可されていた。


 それでなくとも航季は割と職責(しょくせき)を軽んずる傾向にあり、時間帯によらず好き勝手に宮外へ出かけたり帰宅したりしている。


「帆珠、少しいいか?」


 扉の向こうへ声をかけた。


「……お兄さま? いいわよ」


 間を置かずして返答が返ってくる。いつもと変わらず、自信に満ちた高飛車(たかびしゃ)な妹の声色だ。


 部屋へ踏み込むと、長椅子に腰を下ろした帆珠が侍女に足を揉ませているところだった。


「……帆珠」


 さすがに(たしな)めるようにその名を呼ぶ。

 いくら兄妹とはいえ、人前で足を晒すなどはしたないにもほどがある。名門蕭家の令嬢ともあろう者が。


「はいはい」


 帆珠は渋々ながら衣の裾をを下ろした。気だるげに座り直し、侍女を下がらせる。


「何か用? わたし、いま忙しいのよ」


「忙しい?」


「ええ、妃選びに備えて色々準備しなきゃ」


 どうやら父から話があったらしい。

 言われて部屋を見渡せば、円卓の上に様々な書物(しょもつ)の山があった。一応は勉学に励んでいるようだ。


 隅に置かれた衣紋(えもん)かけには、早くも入宮(にゅうきゅう)用の衣装がかけられている。

 華やかな調度(ちょうど)の揃えられた部屋がいっそう豪華に感じられた。


「さっき礼儀作法の稽古(けいこ)を終えたところよ。もう足がくたくたで立てないわ……」


 だから侍女に脹脛(ふくらはぎ)を揉ませていたのか、と航季は腑に落ちた。確かに一瞬見えた帆珠の両足はむくんでいた。


「何でわたしがこんなにしなきゃいけないのよ。どうせ、王妃はわたしで決まりでしょ」


「……そうだな。十中八九決まったも同然だが」


 航季が眉をひそめたのを、帆珠は見逃さなかった。


「何か問題でもあるの?」


 同じように眉根を寄せ尋ねる。

 彼は言葉を探すように口を閉ざし、やがて開いた。


「────帆珠、おまえは兄の俺が言うのも何だが器量がいい。それに勝気な性格だから後宮でもうまくやっていけるだろう。蕭家直系でもあるし、後ろ盾も十分だ。……ただな」


 言葉の続きを、帆珠は黙って待つ。


「あまり、鳳家を甘く見ない方がいいかもしれない。特にその姫君には重々用心すべきだ」


「……鳳家の姫? どうして?」


 確かに鳳家はこの国で唯一蕭家と並ぶ名門家であるため、警戒を促すのは理解できる。

 しかし、わざわざ取り立ててそんなことを言いにくるとは何か根拠があるにちがいない。


 航季は先日片のついた諸々(もろもろ)の一件でそう感じた次第だが、細かく話すとなると、自身の情けない失態まで口にしなければならなくなるだろう。


 それは体裁(ていさい)が悪い、と踏み、そそくさと話を切り上げた。


「とにかくだ。この忠告を忘れるなよ」


 軽く腰かけていた丸椅子から素早く立ち上がると、さっさと背を向けて部屋をあとにする。


「まったく……中途半端ね。言うなら最後まで言いなさいよ」


 残された帆珠は解せない思いで、不服そうにため息をつくのだった。


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