第三話
────黒煙のような雲が流れ、白い月が姿を現す。
夜半、春蘭の部屋から漏れる明かりを庭先で紫苑は眺めていた。
「本当に大丈夫なのですか? お嬢さま……」
室内では春蘭が、芙蓉の手伝いを得ながら医女の装いに着替えているところだった。
扮装に際し、紫苑の用意した衣である。
その腰紐を結びながら案ずるように眉を下げた芙蓉に、こともなげに笑い返す。
「大丈夫よ! うちは広いから、抜け出してもお父さまにバレる可能性は低いし」
「そ、そういうことではなくて」
「分かってる、うまくやるわ」
雪や塩のごとく真っ白な医女服に身を包み、得意気に言ってのける。
明朗な姿は頼もしい限りだが、それで不安が晴れるわけではない。
「でも、もし出かけたことをお父さまに勘づかれそうになったら、何とか誤魔化しといてくれる? お願い」
「……はい。それくらいでしたら」
そう答えながら、最後に白い髪紐を結んでやる。
鏡台の前から立ち上がった春蘭を確かめた。装いは完璧に医女である。
扉を開けると、待っていた紫苑が一礼した。
その手を借りながら沓を履き、春蘭も庭へ下りる。
しだれ桜から舞い落ちた花びらが絨毯のように地面を染め、池には花筏が漂っていた。
門の方へ向かうふたりを芙蓉は套廊から見送る。
紫苑は佩した剣の鞘を握り、春蘭に目をやった。
「宮殿までお供します」
「ひとりで大丈夫よ。その方が目立たないでしょ?」
「だめです。夜道にお嬢さまひとり放り出せると思いますか」
宮廷へ潜入するというくらいなのだから、軒車ではなく徒歩で向かうことになる。
昼間の暴動を目の当たりにした以上、尚さらたったひとりで歩かせるわけにはいかない。
「だけど……」
「本当は宮中まで付き添いたいところなのですが……。あ、いっそ門番を昏倒させてしまうのはどうでしょうか」
さらりとものものしい提案をする。
春蘭は目を見張った。
「まさかその衣を拝借して成り代わる気?」
「ええ、それもありますが……手形が偽だとバレたら厄介なことになります」
袖口から取り出した通行手形を見やり、紫苑は眉を寄せる。
“それも”などと言っているが、実のところそちらの理由の方に重心が偏っているように思える。
「心配しすぎよ、紫苑も芙蓉も。この格好なら手形なしでも宮門を突破できそうなくらいだわ」
彼の手から手形を取り、春蘭は言う。
気づけば宮門前の大路にさしかかっていた。ふたりは一旦足を止める。
「では、お嬢さま……。わたしはここで待っていますから、何かあったら大声で呼んでください。すぐに駆けつけます」
たとえば力の限り叫んだところで、宮殿の壁は高すぎて、決して声が届くことはないだろう。そういう場所なのだ。
春蘭はそう思ったが、思うだけに留まった。紫苑に頷き笑いかける。
「ええ、ありがとう。行ってくる」
◇
特に門衛に訝しがられることなく宮廷へ入り込むことに成功した春蘭は、さっそく尚薬局を目指して歩き出す。
薬材の管理はもちろん、王や王族に対する医療行為を担当している官庁であり、今回の目的にうってつけだ。
宮中の見取り図には疎かったが、訪れた偶然に救われた。同じ格好をした医女を見かけたのだ。
気づかれないよう密かにあとをつける。
彼女が“尚薬局”という扁額の掲げられた小門を潜っていったのを見届けると、そろりと春蘭も同じようにした。
刻限のお陰か人手は少なく、忍び込んだことが露呈しそうな気配はいまのところない。
(薬材保管庫は……)
きょろきょろとあたりを見回すと、屋舎の隣にひと回りほど小さな倉を見つけた。
慎重に歩を進め、戸の閂を外す。
きぃ、と軋んだ音を立てながら左右に開き、するりと身を滑り込ませた。
行灯を片手に棚や引き出しを見て回る。
「ん……」
どの薬箱も薬材で満たされていて、確かに不足している様子はなかった。
とはいえ、あり余っている気配もない。
「独占するために買い占めてる、って感じじゃないわね」
やはりあの触れ文の信ぴょう性はかなり低いといったところだろうか。
あの役人たちは何だったのだろう?
怪訝な気持ちが高まる中、春蘭は暴徒化した民たちの切羽詰まった嘆きを思い出した。
「…………」
一瞬躊躇ったものの、箱に手を伸ばす。
懐から取り出した手巾を広げ、薬材を適当に包んでいく。
この程度ではあまりに微量で、彼らにとっては援助とも呼べないだろう。焼け石に水だ。
それでも昼間に見た光景は鮮烈で、いまも耳元で怒声や泣き声が聞こえるほどだった。
ここまで来たからには、手ぶらで帰ることなどできない。
(あの触れ文はやっぱり嘘だったって……この目で見たいまなら言いきれる)
毅然と口端を結んだ春蘭は手巾を折りたたみ、袖の中へと忍ばせる。
入ったとき以上に周囲を警戒しながら、静かに倉の外へ出た。
(よし……少ないけどひとまず薬材は手に入ったわ)
袖の内側に入れたその存在を強く意識しながら、再び尚薬局の小門を潜った。
行灯で足元を照らしながら来た道を引き返していく。
(明日、また薬房へ出かけて────)
そこまで考えたとき、不意に息をのんだ。
「……っ!」
突然、何者かに背後から鼻と口を塞がれたのだ。布のようなものを強く押し当てられている。
がたん、と音を立てて行灯が落ち、揺らめいた火が消えた。
悲鳴を上げる隙もなく、突然のことに心臓が早鐘を打つ。
(なに……!?)
得体の知れない何者かの腕を引き剥がそうと試みるが、いくらもがいても一切敵わない。
ただ、体格や筋張った腕から男であろうことは推測できた。
(誰なの!?)
無意識に止めていた呼吸を再開する。
「う……」
その瞬間、鼻を抜けるツンとした薬品のにおい。
吸っちゃだめだ、と思った頃にはもう手遅れだった。
酩酊感に襲われ霞んだ視界がぐらりと傾き、春蘭はやむなく意識を手放す。
崩れ落ちるその肩を支えると、男は軽々と横抱きにして歩き出した。
◇
「ん……?」
目を覚ました春蘭は気分の悪さに顔をしかめた。
嗅がされた薬品のにおいが未だ鼻の奥に残っているような気がする。
どこかに寝かされているようだ。
この硬い質感は床だろう。衣が薄いせいか余計に身体が痛む。
(わ、たし……)
はっきりとしない意識の中、己の身に起きたことを思い出し、はっと慌てて上体を起こした。
急に動いたせいか、薬品のせいか、ぐらりと目の前がたわむ。
目眩のせいで再び倒れそうになったが、寸前で何とかこらえた。かぶりを振って座り直す。
そのとき、口を覆うように巻かれた布に気がついた。首を振ろうが傾けようが外れる気配はない。
ずき、と軽い頭痛を覚え、咄嗟に頭を押さえようとしたものの腕が動かなかった。
(何これ……?)
困惑したまま手首を見やれば細い縄で縛られていた。
身体に感覚が戻ってくると、擦れるような痛みを感じる。
立ち上がろうと動いたとき、足首に走った鈍痛に顔を歪めた。両足まで縛られているのだ。
まるで連行される罪人のように、両手足を拘束されている。
(どういう────)
混乱を極める。
かどわされた、という事実がそれに拍車をかけ、心臓が慌ただしく収縮していた。
焦りながらもほどこうともがくが、結び目は固く、暴れても少しも緩まない。
ほどくのは無理だ。
何か縄を断ち切れそうな刃物はないだろうか。
(ここは……)
そのとき初めて、自分のいる場所に意識が向いた。
室内を見回せば、宮中にあるどこかの部署の執務室のようだった。
部屋の奥と中央にそれぞれ几案と椅子が置かれ、棚や机上には多くの本が積まれている。
奥の机は部屋の主のものだろう。中央のそれは会議用か、部下が一時的に使うものか。
しかし、いまは書物置きとしてしか機能していないようだ。床に座る春蘭からは、その表紙までは見えない。
「────目が覚めたか」
不意に聞こえた男の声に、びくりと思わず肩を跳ねさせる。
どこから聞こえたのか分からず戸惑ったが、視線を振り向けるとその姿を捉えられた。
中央の几案にそびえる本の山の向こう側に、背を向けて立っているのが見える。
艶やかな長い髪を高い位置でひとつに結った男が、悠々と書を開いていた。
(誰……?)
尋ねようとしたが、布に邪魔された。
あるいは全身を締めつけてくる恐怖や不安のせいで声が出なかったのかもしれない。
読んでいた書物を閉じ、棚に戻した彼がゆったりと振り返る。
眉目秀麗で綺麗な顔をしているが、表情はなく冷淡な印象が強い。歳は二十前後だろうか。
彼の服装は上級の兵士のもののようだった。
黒銀の鎧をまとっており、肩からは外套のような布を垂らしている。
鎧をまとえるのは上級の兵の中でも特に上の役職だ。長官か次官だろう。
(錦衣衛? まさか羽林軍……?)
前者であれば、宮中への不法侵入や薬材を持ち出そうとしていたことが露呈し、連行されたのかもしれない。
いや、その割にはやり方が乱暴すぎる。
昏倒させて連れ去るなどという誘拐まがいな手段をとる必要などない。
(錦衣衛じゃない……?)
必死で状況を整理しようとしていると、それを知ってか知らずか彼がぽつりとこぼす。
「……思ったより冷静なようだな。気絶したときにも悲鳴ひとつ上げなかったとか」
男は春蘭のもとへ歩み寄り、猿轡のような布をほどいた。
しかし、ひりつく空気のせいで呼吸は苦しいままだ。
いったい誰なのだろう。まじまじと彼を見つめる。
顔に見覚えがないため、面識はないはずだ。
「これは……どういうことなのですか」
精一杯強気に出るが、彼は眉ひとつ動かさない。
答える代わりに帯刀していた剣を抜き、春蘭の首に刃を突きつけてきた。
「!」
思わず息をのむ。
ばくばくと心臓が素早く脈打っていた。
あとほんのわずかでも身体が動けば、白刃が首へ到達してしまう。
恐怖におののき震えてしまった瞬間、すぱっと鋭い切り傷が浮かび上がる想像が容易にできた。
「声を上げたら斬る。そのまま大人しくしてろ。いいな?」
男は感情を込めずに淡々と言う。
自分の生死が見ず知らずの人物の一存に委ねられているという事実に強い喉の渇きを覚えながら、春蘭はこくりとどうにか頷いた。
それを見た彼は、すっと剣を下ろし鞘におさめた。
小さく息をつく。ひとまず助かったが、解放されたわけではない。
実際に刃を突きつけられたことで恐怖は色濃く増殖し、春蘭の呼吸は浅いままだった。
「これに覚えはあるな」
ぱさ、と床に何かが放られる。春蘭の手巾であった。
中に包んでいた薬材がばらばらとこぼれる。
「!」
「医女のおまえがなぜこんなことを? 薬材をどこへ持ち出そうとしていたんだ」
「ち、ちがいます! わたしのものでは……」
「それは妙だな。この手巾はおまえの袖の中にあったものだが」
う、と言葉に詰まった。手巾が既に彼の手に渡っている以上、言い逃れなどそもそも不可能だろう。
ただ、相手の口ぶりからして自分が偽の医女であることを看破している可能性は低いと見えた。
(どうしたら……)
あまり時間をかけないよう気をつけながら、春蘭は頭を働かせる。
しかし、すべてを見通すような鋭い双眸に気圧されてしまい、心の半分は折れかかっていた。
「もしや……横流しか? 誰の差し金だ?」
追い詰めるような足取りで歩み寄ってくると、正面で立ち止まって屈む。
その眼差しから逃れるように思わず俯いた。
「…………」
「答えないのか? 場合によっては錦衣衛に突き出すことも厭わないが」
その言葉にはっと顔をもたげる。
言葉の趣旨そのものではなく“錦衣衛”という単語に驚いたのだった。
(てことは……ここは羽林軍なの?)
警察業務を担う錦衣衛ではなく、近衛の羽林軍にかどわされたようだった。
ますます不可解だ。意図が分からない。
「言っておくが、いまのうちに答えた方が身のためだ。錦衣衛へ引き渡せば拷問を免れないだろうからな」
「……!」
「最後の機会だ。質問に答えろ」
静かながら射るような凄みは、春蘭に逃げることを許さなかった。
遠ざかったはずの白刃が再びあてがわれたような気がして、早々に観念した春蘭は恐る恐る口を開く。
「そ、の……わたしの独断です」
「なに?」
「各地の薬房で暴動が起きてるんです。薬材がないから、って……。だから、少しでも配給できたらと思って」
ぎゅ、と拳をつくりながら答えた。
怖気に押し負け、自信なさげな声色になってしまうものの内容に偽りはない。
は、と彼は呆れたように短く息をついた。
「だからって王室の薬材を盗むとはな」
許容してくれたとは言いがたいものの、一応は納得してくれたようだ。
ほっと安堵しかけたとき、鋭い眼差しが再び注がれた。身体が強張る。
「ただ……おまえの言い分が事実だとしても、看過できない点がひとつある」
「え」
彼は床に散らばった薬材の中からひとつ拾い上げた。
長く綺麗な指先で、花のような形の茶色い薬材をつまんで掲げる。見た目は八角に似ていた。
「これは“百馨湯”という薬湯のもとになる薬種だ」
「ひゃっけい、とう……?」
「早々に市井から消え去り、もはや幻の薬材と化している代物だ。宮中以外では滅多に見かけることもなく、手に入れるのが困難になっている」
もともと貴重なものだったわけではなく、こたびの薬材不足という騒動に際してそうなった、といったような言い方である。
何となく引っかかりを覚えずにはいられない。春蘭は眉をひそめた。
もしかすると、それは何者かの思惑によるものなのではないだろうか。
「それを持ち出そうというのだから、おまえに裏があってもおかしくない」
「裏だなんて、そんな……」
「わたしの疑惑が妥当だと、おまえ自身も理解できるだろう」
そう言って床に薬種を放った彼は、おもむろに袖へ手を入れた。
取り出した短剣の鞘を素早く払うと、春蘭の足をまとめていた縄を断ち切る。
「え……っ?」
驚く間もなく、ぐい、と手首を引っ張られた。
否応なしに立ち上がる羽目になり、わずかにたたらを踏みながら長身の彼を見上げる。
「な、何です?」
「やはりおまえの身柄は錦衣衛に引き渡すことにする」
「えっ!?」
瞠目して混乱を顕にするが、彼は一切取り合うことなく歩を進めていく。
「ち、ちょっと……ちょっと待ってください!」
焦りながら声を上げた。
その場に留まろうと足に力を入れても、それより強く引っ張られていってしまう。
無視して沈黙している彼を見上げ、さっと青くなった。脅しでも何でもなく本気だ。
ますます慌てた春蘭は「待って!」とひときわ大きく声を張る。
「わたし……わ、わたし、医女じゃないんです!」
ぴた、とようやく彼の歩みが止まった。
つんのめってぶつかりそうになるのをすんでのところで踏みとどまる。
「……医女じゃない?」
悠然と振り向いた彼はすっと手を離し、怪訝そうな面持ちで春蘭に向き直る。
「どういうことだ」
「それは、その……」
「身分を偽ったということは宮人ですらないのか。それで盗みをはたらいたとなれば、錦衣衛じゃ済まないな」
それこそ羽林軍の出番なのかもしれない。そしてその場合、罪人とみなされた春蘭の命はないだろう。
固く目を閉じ、諦めたように深々と息をついた。
この状況における自衛の手段はひとつしかない。春蘭の武器はそれだけだ。
「……わたしは、鳳家の娘です」
初めて彼の顔色が変わった。
さすがに予想外だったらしく、わずかに瞠目している。
「何だと?」
「鳳春蘭と申します」
「おまえが……鳳家の姫? 宰相殿の娘御だというのか」
こく、と素直に頷いて答えた。眉を下げたまま言を紡ぐ。
「先ほども言いましたが、今回のことはわたしの独断です。家や父は関係ありません」
「理由も先ほど言った通りか」
「……はい」
それを受けた彼は目を伏せ、自身の額に手を添えた。困り果てて項垂れるような仕草だった。
彼女に非があり罪に問えるだけの口実があっても、鳳姓が矛や盾として免罪符になってしまうのだから厄介なのだ。
(……面倒なことになった)
これでは自分の方が責めを負う羽目になりかねない。
何せ、鳳家の娘を宮中で攫って捕縛していたのだから。
何人たりとも迂闊に手を出せない名門家の姫君を。
鳳姓も蕭姓も特別気高い姓であるために、その血筋と無関係な民が同姓を持つことはありえない。
ましてそんな高貴な姓を騙るなどという行動は反逆と大差ないほどの自殺行為であるため、彼女が難を逃れるためにでたらめを口にしている可能性も低かった。
その言葉自体に疑いの余地はない。
「あの」
春蘭が口を開いた。嫌な予感を覚える。
「わたしの罪は認めます。ですが……このままだとあなたも罪に問われます」
果たしてそれは彼の想定した通りであり、嫌な予感は的中した。己の姓を利用し、逆に脅してきたわけだ。
「鳳家の姫君をかどわした、と?」
「そうです。わたしがそう告げ口すれば、錦衣衛に捕らえられるのはあなたの方です」
彼は目を細める。何たる不運だろう。
春蘭が思いのほかしたたかに強気な態度を示してきたことも想定外だった。立場逆転だ。
(た、対等に話せてるかしら……)
一方、春蘭は春蘭でとにかく必死だった。
あくまで非は自分にあり、いくら鳳姓を盾にしても免責の余地はないと正直思っていた。
それでも拷問や死は避けたい上、紫苑たちの関与を隠し通したいやら父を巻き込みたくないやらで、どうにか懸命に知恵を振り絞った結果だ。
「……わたしにどうしろと?」
彼の声色は若干投げやりなものだった。
たとえば土下座や陳謝を要求されたのであれば、矜恃を曲げてでも屈するしかないと諦めていた。
そうでないと、自分自身が滅するか叔父や家門に迷惑をかけることになってしまう。
「ここはひとつ、なかったことにしませんか?」
そんな春蘭の言葉は意外なもので、つい素直に驚いた。
「…………」
「あなたとわたしの間に起きたことは、ふたりだけの秘密ということにしましょう」
「……本気か?」
「もちろんです。父にも誰にも言いませんから、どうかあなたもそうしてください!」
半ば懇願する形で春蘭は言いきった。穏便に済ませても吹聴されたのでは意味がない。
「おまえが裏切らないという保証は?」
「信じてくださる限りはわたしも裏切りません」
臆することなく返され、降参を余儀なくされる。
唯一にして最大の条件を、彼ものむことにした。
「……分かった」
春蘭は内心ようやくほっとしたが、完全に気を抜くことはしなかった。
あてがわれた刃の冷たさを忘れたわけではない。
「こちらにも、あなたが裏切らないという保証が欲しいです」
「……何が望みだ」
無感情な双眸を毅然と見返して告げる。
「……お名前をお聞かせください」
◇
「はぁ、助かった……」
彼から替えの行灯を受け取り、春蘭はその灯りを頼りに宮門を目指して歩いていく。道は一応聞いてきた。
執務室を出たときに振り返って確かめたところ、屋舎には“左羽林軍”と書かれた扁額が掲げられていた。
推測した通り、やはり羽林軍だったようだ。
『……謝朔弦だ』
冷徹な彼は不承不承ながらそう名乗った。
あの執務室が朔弦に与えられたものだとすると、やはり羽林軍の中でも階級が高いにちがいない。
(年はわたしより三つか四つくらい上って程度に見えたのに……)
すごい、と素直に感心してしまう。それと同時に冷ややかな眼差しを思い出して恐れをなした。
ふと、その室内の様子まで思い返される。
机上には書物や書翰の山ができていたが、きちんと丁寧に整頓されていた。
書物は兵法を説くものや軍事に関するものが多くを占めているようだった。
(謝朔弦……)
位を抜きにしても一介の兵士とは思えない。
夜半とはいえ宮中でかどわすなど大胆な策に出たものだが、問答は無駄がなく完璧で、春蘭も淡々と追い詰められた。
唯一の誤算は春蘭が鳳家の娘であったことだろうが、それについては運が悪かったとしか言いようがない。
ただ、それでも朔弦が保身に走って下手に出ることは最後までなかった。
『おまえが誰であれ、わたしの見方は変わらない』
『それって……?』
『薬材を持ち出そうとした、それは事実だろう。その件に関してはいまも疑っている』
それに頓着するということは、彼も彼で何者かによる何らかの陰謀めいた思惑という線を追っているのかもしれない。
『今後の動向に目を光らせておくからな』
そう釘を刺された上、薬材はすべて没収されてしまった。
結果からして彼の不信感を完全に払拭できたとは言えない状態だ。
(ただ……百馨湯の薬種に関しては、やっぱり誰かが買い占めてると見て間違いないかも)
「お嬢さま……!」
宮門を潜ると、すぐさま紫苑が駆け寄ってくる。
「遅かったですね。ご無事ですか? 何かありました?」
「あ、えっと────」
「あれ?」
返答に窮したところ、不意に声がかけられた。
ほとんど同時にそちらを向いたふたりに、彼はにこやかに笑いかける。
「偶然だね、こんなところで何してるの?」
そう言いながら歩み寄ってきたのは光祥だ。
春蘭から受け取った行灯でその姿を認めた紫苑は顔をしかめ、春蘭は驚いたように目を見張る。
「いまから帰るの? それなら僕もご一緒させてもらおうかな」
かくして夜道を三人で歩き出した。月明かりはほとんどなく、行灯を頼りに進んでいく。
「光祥はどこ行ってたの? また夢幻のとこ?」
「いや、施療院だよ。近頃そこで賃仕事をしててね……いまさっき薬材の配達を済ませてちょうど帰るところだったんだ」
紫苑は口を挟まなかったが、内心ではますます不審がっていた。
彼の言う“偶然”や“ちょうど”を信じていいものだろうか。
「そうだったの、お疲れさま。こんなに遅いんじゃ家族が心配するわね」
「春蘭、子ども扱いしないでくれ。……それに、家族はいないから平気だよ」
彼があまりにいつも通りの態度であるため、その返答の重さに気づけないところだった。
春蘭ははっとして慌てる。
「……そう、なの。ごめんなさい」
いつも柔らかい微笑みを絶やさない光祥は、そういった翳りの部分を一切表に出さないのだ。
いまもこともなげにふわりと春蘭の頭を撫で、口元に笑みをたたえている。
「気にしないで。別にそれが不幸だなんて思ってないよ。自由に生きてるいまが一番楽しいから」
春蘭の間近で微笑みかける光祥に、紫苑は話の内容によらず、さらに複雑な心境になった。
────この男は眉目秀麗であるが、本人もどこかそれを自覚している節がある。
やはりどうにもいつも春蘭と距離が近い。
たらし込むつもりではなかろうかと、正直その点が気に食わなかった。悪い人ではないのだが。
「……光祥殿、お嬢さまから離れてください」
たまらず紫苑は光祥に言った。彼の身の上とこれとはまた話が別だ。
光祥は隙を与えてくれない用心棒を見やり、それから春蘭を優しい眼差しで捉える。ふっと唇の端を緩めた。
「……残念」
紫苑の心配は実のところもっともだったが、春蘭はまったく気にしていないようだ。
光祥の手の離れていく様が名残惜しそうなことにすら気づいていない。
年頃の娘ならばもう少しときめいてくれてもいいのに、と光祥も拍子抜けしてしまう。
鈍感な春蘭はなかなかの強敵だった。
甘やかな態度も言葉も、いとも簡単に弾き返される。
光祥は気を取り直し、平静を保ちつつ尋ねた。
「ところで、春蘭。それは医女の格好じゃないか?」
その指摘に思わず自分の衣を見下ろす。すっかり失念していた。
「あ……そ、そうなの。実は宮殿に忍び込んで薬材を持ち出そうとしたんだけど」
「何だって? ……冗談だよね?」
つい紫苑を窺うが、彼は気まずそうに目を逸らすだけで肯定してくれない。信じがたいが、どうやら事実のようだ。
「それで、持ち出せたのか?」
「ううん、失敗しちゃって……。見つかって大事になる前に退散してきたところよ」
朔弦とのことは約束通り伏せておき、大まかに事の次第を打ち明けた。
「何事もなかったのですね?」
「え、ええ! 大丈夫」
「よかったです……」
心底安堵したのであろうことは、顔を見なくても声色で分かる。
ひたすらに案じて待ち続けた紫苑の心境を思えば心苦しいが、ここで事実を口にするわけにもいかなかった。
「宮中の薬材はどうでしたか?」
「それがね、王室が独占してるってことはやっぱりないみたい」
「それって……あの触れ文のこと?」
光祥が硬い声で尋ねる。
「そう! 何か知ってるの?」
見聞の広い彼ならば、何らかの情報を掴んでいるかもしれない。そんな期待を込めて問うた。
「ああ……あれはまったくのでたらめだよ。確かに王室は害を被ってないけど、それは当然なんだよね。王室の薬材には宮中の菜園で育てた薬草を使うから」
影響や被害がないのは、そもそも宮外の薬草畑が荒らされたところで関係がないためである。
初耳だった春蘭と紫苑は顔を見合わせた。
「そうなの?」
「やっぱりそのことは知らなかったか。きっと、薬房に詰めかけてる人たちもそうなんだろうね」
光祥は眉を寄せる。
無知な民を嘲笑うかのようなでまかせを、いったい誰が広めたのだろうか。
触れ文をしたのは役人たちだったと聞くが、それだってそもそもおかしい。
国の禄を食む役人の所業としては不可解だ。
彼らが反旗を翻したか、あるいは何者かが裏で指揮をとっているか、いずれにしても不穏な気配が漂っている。
もしかすると一連の出来事は、国をも揺るがす大事件に発展するかもしれない。
何せ、触れ文の首謀者は王室を冒涜したのだから。
薬材の不足と高騰が主な問題だと捉えるのは早計だろう。
民が起こした暴動もそれに付随した問題であるが、根本的な部分は恐らく同じ────。
この状況を意図的に作り出した何者かがいる。
だとすると、目的は民の混乱だろうか。彼らの矛先を王室に向けることで利する者がいる?
「…………」
ぱっと顔をもたげた光祥は、いつも通りの柔和な笑みをたたえた。春蘭と紫苑に向き直る。
「ねぇ、ふたりとも。明日、ちょっと施療院に来てくれないか?」