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桜花彩麗伝  作者: 花乃衣 桃々
◆第一章 欠けた月の雫
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第二話


 がっ、と勢いよく手首を掴まれた。

 突然の展開に驚愕した春蘭は息をのむ。


「逃げるぞ」


「え……っ?」


 戸惑う暇もなく、彼は春蘭の手を引いて駆け出した。脇目も振らず小道を疾走していく。

 唐突に真横を風が通り過ぎ、顔を上げた紫苑はその様を見た。


「お嬢さま!?」


 状況に理解が追いつかず、呆然とその背中を見送る。

 得体の知れない男に春蘭が(さら)われている、と思い至ると、大慌てで馬に跨りあとを追いかけた。




「いたぞ!」


「追え!」


 花畑を抜けたと思ったら、どこからかそんな野太い声が飛んできた。


「なに? 何なの!?」


 春蘭は振り向きざま、追ってくる屈強な男たちを捉えた。

 浅黒く大きな図体の彼らは毛皮をまとい、剣や斧を(たずさ)えている。


「山賊だ。捕まったら丸焼きにされる」


「な、なん……っ」


 ぞぞぞ、と寒気を覚えて青ざめた春蘭は、彼に手を引かれるがままに市井(しせい)を走り抜ける。


 道ゆく行商人(ぎょうしょうにん)の荷を倒して進路を塞いだり、碁盤目(ごばんめ)状の町を器用に縫って曲がったりしながら、どうにか山賊の追跡を振り切った。


 街路(がいろ)の曲がり角で足を止めた彼はほっと息をつく。

 春蘭は呼吸を整えながら怪訝(けげん)そうに眉をひそめた。


「それで……どういうことなの? どうして山賊になんか……」


「あやつらの根城(ねじろ)の近くにいたせいで追われる羽目になったのだ。巻き込んですまぬ」


「自分から近づいたっていうの? 信じられない!」


「こ、これには理由があったのだ」


 いったい、どんな真っ当な理由があれば山賊の根城などという危険地帯に自ら踏み込んでいくことになるのだろう。

 驚き呆れてしまい、春蘭は彼をまじまじと眺めた。


 顔立ちも身なりも整っていて、清らな文人然とした雰囲気だ。とてもそんな無謀な真似をするような人物には見えない。


「それより、そなたは────」


 彼が何か言いかけた瞬間、ぐい、とその襟首を何者かが引っ張った。


 一瞬、先ほどの山賊に捕まったのかと肝を冷やしたが、その正体は紫苑だった。


「紫苑!」


「白昼堂々、人攫いとはいい度胸だな」


 紫苑は()てつくような静かな怒りをたぎらせ、彼に凄みをきかせる。

 普段の温厚篤実(おんこうとくじつ)ぶりからは想像もつかないような眼光の鋭さだった。


「人攫い……? ご、誤解だ。そんなつもりなど────」


「こちらは鳳家のご令嬢だ。手出ししようものならただでは済まない」


 あまりの気迫に気圧(けお)されていた彼だったが、それを聞いた途端にはっとした。

 じっと春蘭を見つめる。


「そなたが……」


 終始どことなく憂いを帯びているような彼の顔が、ほんのわずかだけ綻んだ。

 (かげ)っていた瞳に淡い光が射す。


 彼の反応を(いぶか)しんだ紫苑は露骨(ろこつ)に眉を寄せ、春蘭に向き直る。


「お嬢さま。この不審人物をこのまま官衙(かんが)へ突き出しましょう」


 官衙といえば各州都(しゅうと)に置かれた役所で、罪人の捕縛(ほばく)も担っていた。


 そんなことになれば面倒なこと請け合いだ。

 焦りながら紫苑の手を抜け出した彼は、さっと急いで距離をとった。


「わ、わたしはもう行かねばならぬ」


 では、と素早くふたりに背を向け、足早に歩き出す。


「待って」


 それまで沈黙を貫いていた春蘭が口を開いたことで、彼は反射的に歩を止めてしまった。

 どうしても官衙へ連行するつもりなのだろうか、と狼狽(うろた)えて視線を彷徨わせる。


「あなたの名は?」


 予想外の言葉に思わず振り向いた。

 春蘭から害心や邪心(じゃしん)を感じられなかったためか、先ほどまでの危機感が浄化されていく。


 ふわ、とどこからか運ばれてきた花びらが舞い上がって流れてきた。


「……再び、会ったときに。だから────」


 そこまで言いかけて、ぎくりと身を強張らせる。

 また会おう、という言葉は紫苑の醸し出す殺気に負けて口にできなかった。


「で、ではな」


「あ、ちょっと!」


 逃げるように(きびす)を返し、雑多な人混みに溶けていってしまう。

 彼の姿はすぐに見えなくなった。


「お嬢さま、お怪我はありませんか?」


 さっと春蘭に向き直った紫苑は、青ざめた顔でそう聞きながら確かめる。


「大丈夫、大丈夫よ。この通り何ともないから」


「傷や痕のひとつでもあったら……」


 心配が拭えず、答えに構わず春蘭の手を取った。

 あの男に掴まれていた手首を真剣に眺め、赤くなっていないことを確認するとようやく安堵の息をつく。


「……よかったです。何事もなく」


「もう、紫苑はいつも大げさね」


 困ったように笑われたが、そうなるのも無理はないだろう、と紫苑は胸の内で正当化した。


 目を離したらいつも何事かに巻き込まれているのだ。案ずるなという方が無理な話である。


 それだけではない。

 先ほどの男といい、光祥といい、やけに見目麗しい()がつくこともまた、紫苑を悩ませる一因だった。




     ◇




「事は順調か」


 宮中────執務室を(おとな)った航季(こうき)の一礼を受けると、容燕は開口一番にそう尋ねた。


「はい、父上」


 その返答を聞くなり満足そうに低く笑い、容燕は髭を撫でる。


「王室の分を除いて薬材を買い占め品薄にし、民の不満をすべて王族に向ける……。そして、絶望する民に我々が薬材を配給することで救いの手を差し伸べる。これで民心(みんしん)は王から離れ、蕭家を支持することでしょう」


 航季は父の(ろう)した策を改めて口にし、そんな未来を想像して思わず口元を緩めた。


 誰もが自分にひれ伏し、(あが)(たてまつ)ることになるのだ。


 もともと民たちは王に何の期待もしていない。

 ない民心をさらに失うとは、何とも救いようのない話である。


 容燕の双眸(そうぼう)に冷酷な色が滲んだ。


「……柊州(しゅうしゅう)疫病(えきびょう)が都でも蔓延(まんえん)すれば、さらに薬の需要が高まるな」


 玻璃国は桜州(おうしゅう)葵州(きしゅう)楓州(ふうしゅう)、柊州の四州に別れており、柊州は南東部に位置する。


 容燕はその掌握(しょうあく)を目論んで動き始めていた。


 商業が盛んな柊州は、商取り引きの(かなめ)とも言える地だ。

 蕭家が制圧してしまえば、資金()りも思うがままである。


 容燕はその柊州で意図的に疫病を流行させ、薬材の需要を高めていた。


 ここ桜州へ患者が流入し、王都(おうと)である雛陽(すよう)にまでなだれ込めば、疫病はさらに猛威を振るうことになる。


 しかし、ここにも既に特効薬をはじめ薬材はない。

 持っているのは蕭家のみだ。絶望に喘ぐ民たちを救えるのは、蕭家しかいないのである。


 既に柊州の悪党を抱き込み、彼らに商団(しょうだん)を制圧させ、柊州内の薬材を回収し始めている。


 このまま商団の制圧を続ければ、資金の運用を意のままにできる────そんな算段であった。

 財も名声も得られ、一石二鳥だ。


「さすがは父上です」


 心からの賞賛を送ると、容燕もさらに機嫌をよくしたようだった。


 患者たちの「助からないかもしれない」という焦りは、薬材を独占している王族への怒りへと変わり、それが募れば憎しみになる。


 実際に独占しているのは蕭家で、王室は何ひとつとして関与していないわけだが、民たちはそんなことを知る(よし)もない。


 そこへ蜘蛛の糸を垂らすのだ。


 品薄であれば高値で売ることも出来るし、ほかにないのだから民はそれを買うしかなくなる。


 いくら高額でも命にはかえられないだろう。疫病が蔓延(まんえん)すれば尚さらだ。

 民の目には、蕭家が仏のように映るにちがいない。


 そうして王の権威がさらに失墜(しっつい)すれば、傀儡(かいらい)としてますます操りやすくなる。

 容燕は唇の端を吊り上げ、喉を鳴らして笑った。


「────侍中(じちゅう)、謝大将軍がお見えです」


 部屋の外にいた兵から不意にそう声がかかった。


 航季は訝しげに眉を寄せ、笑みを止めた容燕も厳しい顔つきになる。


「悠景だと……? 太后の犬が何用だ」


 そんな不愉快そうな呟きのあと、扉が開かれた。

 悠景と朔弦のふたりが姿を現すと、容燕は侮蔑(ぶべつ)を滲ませながら横目で捉える。


「何しに来た」


 威圧するような声音で問う。


 一拍、躊躇(ちゅうちょ)するような間があってから、悠景はその場に跪いた。

 叔父にならい、朔弦も同様に片膝をつく。


「!」


 突然のことに、航季は驚いたように目を見張って凝視した。

 容燕もさすがに無視するわけにいかず、緩慢(かんまん)とした動きで身体をふたりに向ける。


「侍中! 我々の忠誠をお受けください」


 力強く告げた悠景は、朔弦ともどもいっそう深く頭を下げた。


「…………」


 容燕は目を細め、黙したまま見下ろす。


 伏せた顔にどんな表情を浮かべているのか、手に取るように分かる。


 きっと悔しさを滲ませながら奥歯を噛み締めていることだろう。

 そうしなければ、耐えられないはずだ。


 誇り高き武将を自負する悠景が容燕の前で跪くなど、屈辱以外の何ものでもない。


「どういう腹積もりだ。わたしがそなたらを信用すると思うか」


 これまで、容燕と敵対する王太后に仕えていたふたりだ。

 それが突然、自分に忠誠を誓う?


 容燕にとっては太后などとるに足らない存在であることはちがいないが、本質はそこではなかった。

 安易に敵に寝返るような日和見(ひよりみ)主義者など無用だということである。


「これは、太后様の意です」


 視線を伏せたまま朔弦が静かに言う。

 容燕の眉がぴくりと動いた。


「どういうことだ」


 代わりに航季が苛立ち混じりに尋ねる。


 一方の朔弦は少しも表情を変えることなく、その感情を決して外に漏らさない。

 臆せず顔を上げ、容燕を見据える。


「手を組みませんか」


 その言葉に航季は再び目を見張りつつ、窺うように父の方を向く。


 容燕は厳しい表情を崩していないが、朔弦の言葉を吟味(ぎんみ)しているようで、すぐに切って捨てることはなかった。


 手を組む────。

 その目的は、鳳家征伐(せいばつ)にほかならないだろう。


 確かに太后と手を組めば、近々行われるであろう妃選びも容燕の思い通りに進めることが可能となる。


 欲にまみれた使い道のない女狐(めぎつね)だと思っていたが、どうやら話が変わりそうだった。


 また、太后が蕭家側につけば、容燕ですら介入できない後宮をも掌握することができる。


 鳳家に対し有利に出られるため、実質的に容燕の天下となるのではないだろうか。


 ……悪い話ではない。

 容燕は髭を撫でる。


 太后が邪魔になったら、娘を王妃の座に就けたあとで始末すればいい。

 娘が王妃となれば、太后を介さずとも後宮を支配下に置くことができるのだから。


(とはいえ……)


 懸念は残ったままだ。

 このふたりと太后が先に鳳家と手を組んでおり、容燕を()めようとしている可能性がある。


 そうならば、最後に笑うのは容燕ではなく鳳家だ。あの憎き元明である。


 やはり、全面的に信用することはできない。


 英明(えいめい)で冷静な朔弦はひたすら()を隠しているようだが、悠景の態度がどうにも引っかかっていた。


 彼は甥と違って感情の表出が激しい。

 いまも立てた膝の上の拳に力が込もり、色が変わっているのが見える。


「…………」


 肌の擦り切れるほどの緊張感が漂う中、悠景は意を決したように顔を上げた。

 容燕への服従という屈辱は割り切るほかない、と己の中で折り合いをつけた。


「この先は互いの信頼が不可欠です! 我々を信じられなければいまここで殺してください」


 はっきりとそう言ってのける。

 その眼差しは決して揺らがない。


 あくまでも容燕の懐疑と不信を察して拭い去ろうとしているわけではない、というのが悠景であった。

 ここで斬られるのなら、そこまでの命だったというだけのことだ。


 朔弦は黙ったまま容燕の判断を待っていた。


 ふたりを試すような、長く重い沈黙がその場に落ちる。


 おもむろに動いた容燕は航季の(はい)している剣を抜き、勢いよく悠景の首に当てた。

 ヒュッ、と風を切る音が真横で聞こえ、彼は思わず固唾(かたず)を飲む。


 平静を保っていた朔弦も、これにはさすがに無表情とはいかなかった。視線が彷徨う。


 容燕からは意図を汲むことができない。

 航季でさえ、事の成り行きを黙って見守るしかなかった。


 再び風切り音が響き、容燕が思い切り剣を振り上げる。


「……!」


 ……ドッ、と強く振り下ろされた剣の切っ先が悠景の首を断つことは、結果としてなかった。

 眼前すれすれの床に突き刺さり、ぎらりと鈍く光を放つ。


 極度の緊張状態から解放され、悠景は小さく息をつく。

 朔弦もまた、ひとまず事なきを得たことに安堵した。


「……よいか」


 容燕はふたりに背を向ける。

 冷酷で静かな後ろ姿は、本心をどこまでも奥へと閉じ込め、推し量ることすら許さない。


「太后に伝えよ。わたしに従順であらせられるならば“あの件”は墓まで持っていく、とな」




     ◇




 夜が更ける。

 ただでさえおぼろげに霞んで薄い月を、煙のような黒雲が覆っていく。


 閑散とする町の中を、悠然(ゆうぜん)と闇が闊歩(かっぽ)していた。


 開国当初から高貴な血を引く二大名門家のうちの一方、(しょう)家の広大な屋敷の一室に、高官たちが(つど)る。


 彼らは卓子(たくし)を囲んで座った。

 小さな蝋燭(ろうそく)だけを灯し、薄明かりの中で密やかな会合を開く。


「主上が即位されてからもう何年経ちますか」


 高官の一人が口火を切った。

 上座に座る屋敷の主、容燕はその話題に対し、思わしげに目を細めた。


 先王が崩御(ほうぎょ)してから、はや九年。

 現王はその後即位したものの、容燕が摂政(せっしょう)を務めているため、未だに自ら(まつりごと)をしない。


 かと言って放蕩(ほうとう)気質なわけでもなく、実に日がな一日()()()()()のである。


「……ちなみに主上は普段、何をなさっているので? 蒼龍殿(そうりゅうでん)には()もっておられるようですが」


 蒼龍殿は普通、王が政務をこなす殿であるが、現王は政務に携わっていない。

 それでも基本的には毎日、蒼龍殿に入っているようであった。


余紙(よし)に落書きをなさるか、御八(おや)つを召し上がるかですよ。女官に確かめさせましたから間違いない」


 呆れたような笑いや失笑が湧いた。


「何と……情けない。まるで幼子(おさなご)ですな」


 ひとりの高官の言葉に再び笑いが起こった。

 容燕も目を伏せ、吐き捨てるように笑う。


 王のそんな点は容燕にとって好都合であるため、この場で取り沙汰する問題ではない。

 本質はそこではないのである。


 ひと通りの波が引いたのを見計らい、別の高官が真面目くさった態度で口を開いた。


「ところで、王妃の座がずっと空いたままです。国のしきたりにより早急に妃を迎えるべきでは?」


「ううむ……」


 高官たちが唸る。各々、顔から笑みを消した。


「とはいえ誰をその座に就けるのです? 少なくとも、我々側の人間でなければ……」


「無論です。ただ……朝廷の要職には主に蕭派が就いておりますが、鳳派の高官も少なくありません」


「何より鳳元明が最高位である宰相(さいしょう)の座に就いております」


 飛び出したその名に、容燕の眉がぴくりと動く。


 王を補佐する最高位の官吏(かんり)である宰相の地位は、兼務の職ではあるが、使いようによっては王すら操ることが可能だ。


 それはすなわち、国までもを意のままにするのと同義であった。

 そのため、容燕はかねてからその地位を喉から手が出るほど欲している。


 ────現在の朝廷では、王の直下に三省(さんしょう)と呼ばれる三つの機関がある。


 中書省(ちゅうしょしょう)門下省(もんかしょう)尚書省(しょうしょしょう)がこれにあたる。


 容燕は門下省の長官・侍中であり、元明は中書省長官・中書(れい)であった。


 また、三省のひとつである尚書省の管轄下には六つの行政機関があり、これは六部(りくぶ)と呼ばれる。


 吏部(りぶ)戸部(こぶ)礼部(れいぶ)兵部(へいぶ)刑部(けいぶ)工部(こうぶ)からなり、この三つの機関と六つの部は、合わせて“三省六部(さんしょうりくぶ)”と呼ばれていた。

 そのほとんどの要職を蕭派の官吏が担っているのが現状だ。


 また、門下省の長官というのも十分高位ではあるものの、容燕にとっては不服だった。その理由も元明にある。


 三省のうち尚書省の長官は、常置(じょうち)の規則がないために現在は任命されていない。

 加えて三省のさらに上位の官職も、名誉職であるためいまは空位だ。


 つまり、官位だけで言えば容燕も元明も同格なのである。


 ただし、宰相に任ぜられているのは元明だ。

 それにより差が生じ、彼が最高位という位置づけなのであった。


「…………」


 容燕の眉間に刻まれたしわが深くなる。


 この状況は明らかに不自然で、到底甘んじることなどできない。

 王があからさまに元明を優遇しているのだ。


 よりにもよって、元明を。

 二大名門家のもう一方である鳳家の当主を。


「こんな状態で妃選びが行われては、鳳家から王妃が輩出されかねない……そうなれば我々は一巻の終わりですぞ」


「しかし、いつまでも妃選びを行わぬというわけにもいかんだろう」


 妃選びによって国母(こくぼ)とも言える王妃を選出するのは、国の存続のためにも必要不可欠である。

 それを避けることはできない。


 問題は、容燕がその選出過程に関与できないことだった。


 いくら権力を有していようと、妃選びは元来(がんらい)後宮がとり仕切るものなのである。

 容燕に携わる余地はないのだ。


 しかし────状況が変わった。


 容燕が咳払いをしてみせると、室内は水を打ったように静まり返る。

 ゆらゆらと揺れていた蝋燭の灯りさえ大人しくなった。


 口を(つぐ)んだ高官たちは上座の容燕を見やる。


「そう案ずるな。王太后(おうたいこう)がおるではないか」


 ほかの高官たちとは異なり、容燕の声色は至極冷静で落ち着き払っていた。

 その言葉に高官たちははっと各々息をのむ。


「太后さまというと、主上と反目(はんもく)しておられる……」


 高官の一人の呟きに、容燕は「左様」と頷く。


 王太后は先王の正妃であり現王の母にあたるが、血の繋がりはない。

 現在の王室では王以外の唯一の王族であり、後宮の長である。


「今日、太后の方から申し出があったのだ。我々の側につく、とな」


「では妃選びも後宮も意のままであると?」


「し、しかし……鳳元明には一人娘がおります。あやつは娘を利用するにちがいありません」


「それが何だ。蕭家にも適当な人材がおるではないか」


 もったいつけるように告げた容燕は、口元に笑みさえ浮かべていた。


「ほかでもない我が娘、帆珠(はんじゅ)を王妃に据えるのだ」


 容燕にとって妃選びは、娘を王妃の座に就けるための口実に過ぎない。


 実のところ容燕は、しきたりに(のっと)った公平な妃選びなど最初から行う気はなかった。

 野心を全うするのに、正道を行く必要はない。


「ですが……主上の鳳元明に対する信頼は厚く、奴の娘を贔屓(ひいき)するのでは────」


「妃選びは王室の女人がとり仕切り、国中の令嬢たちの中から相応しい者を揀択(けんちゃく)するもの。後宮の事情には、王とて軽々しく口は出せん」


 やはり切り札は太后である。

 今日のところの悠景たちの申し入れは、結果としてこの上なく好都合なものであった。


 太后がこちら側についたとなれば、妃選びで帆珠を取り立てさせればよいだけだ。

 今度こそ、高官たちは口を噤んだ。


 実現すれば、蕭家の権力はいかばかりになるだろう。

 王太后、王妃、そして臣下────すべてが蕭家側の人間になれば。


 容燕は一旦、深く呼吸をした。

 (たぎ)るような興奮を何とかおさえ込む。


 間違いなく、王は完全なる傀儡(かいらい)となるだろう。


 名ばかりの王。

 実質的な権力者は容燕ということになる。


 いまも既にその()があるが、まだ不完全であった。

 ただ、そんな世は遠くない。


 容燕は低く笑いながら、顎にたくわえた髭を撫でた────。




     ◇




「ふ……、ふふ」


 不気味な笑い声が福寿殿にこだましていた。


「従順でいろ、だと? 小癪(こしゃく)な老いぼれが」


 太后は怒りに顔を歪め、卓子の上できつく手を握り締める。

 爪の食い込む痛みも忘れるほど、己の中に渦巻く激情に飲まれていた。


「…………」


 悠景と朔弦は密かに顔を見合わせる。

 太后は情緒が不安定であるようだった。あるいは怒りが度を超えると、笑いに変わるものなのだろうか。


 本来なら敵であるはずの蕭容燕に腰を低めて取り入らなければならないのだから、致し方ないのかもしれないが。


「……ひとつ、お聞きしても?」


 悠景が口を開く。

 太后は無言のまま彼を見やり、発言を促した。


「“あの件”っていったい何ですか」


 それについては朔弦も気になっていたところだった。

 容燕の口ぶりからして太后の弱みであることにはちがいないのだろうが、どのような内容なのだろう。


「……そなたらには関係ない」


 太后は鋭い眼差しで一蹴した。とりつく島もない。

 しかし、悠景は食い下がった。


「我々は味方ですよ!」


「隠しごとをされては適切な駒を動かせません」


 朔弦も同調して説得を試みるが、一考(いっこう)の余地もないらしく、太后の態度は変わらない。


 それどころか不安定な感情を爆発させる起因となってしまったようだ。

 太后は拳で卓子を叩きつける。


「黙らぬか! 何を言われようと話すことなどない」




 下がれ、と厳しく追い出され、ふたりはやむなく福寿殿をあとにした。

 左羽林軍へ戻る道中、一度屋舎を振り返る。


「……何なんだよ。“あの件”って」


 若干機嫌を損ねた様子の悠景が呟く。


 太后は元来欲深く、その言動の根本には権力と栄耀栄華(えいようえいが)を求める邪心(じゃしん)が見え隠れしていた。

 そのため、表に出せないような汚いことを色々してきたのは明白だ。


 しかし、そんな中でも“あの件”というものに関しては特に過剰な反応を見せ、頑なに沈黙を貫いている。


 それほどまでの出来事とはいったい何なのか────。

 朔弦は一瞬考えるように黙り込み、口を開いた。


「……妙な噂が」


 切り出された意外な言葉に「噂?」と悠景が首を傾げた。


「先の王妃さまを覚えておいでですか」


 朔弦が静かに問う。


 先の、というと先王の先代の正妃のことだ。

 すなわち現王の実母、敬眞(けいしん)王妃を指す。


「ああ、もちろん覚えてるぞ。それがどうした?」


「……敬眞王妃さまは、その座に就かれてわずか二年ほどで廃位(はいい)となっていますよね」


 そういえば、と悠景は記憶を辿る。


 敬眞王妃は王位継承者である当時の王太子(おうたいし)を殺めた犯人として、地位を剥奪(はくだつ)された上で賜死(しし)した。


 重大事件であるにも関わらず、調査期間が異様に短かったのが不自然でよく覚えている。


 ろくに調査もされないまま廃妃(はいひ)となり処刑されたのだ。

 これは王妃に対する処遇としてはありえない。


 だが、それとこれと何の関係があるのだろう。

 そんな悠景の疑問を()み取った朔弦が言を繋ぐ。


「その後、王妃になったのはどなただと?」


 そこまで呈され、ようやく悠景ははっと閃いた。


「太后さまか!」


 まさしくその通りである。朔弦は首肯した。


 敬眞王妃が廃されたあとには、当時側室であった現在の太后・(ちょう)玲茗(れいめい)が王妃の座に就いた。


 先王の時代は正妃が()()()入れ替わり、王室が不安定であったのだ。


「まさか────」


 悠景はひとつの残酷な結論を導き出す。


 太后が陰謀を企て、敬眞王妃を陥れたのではないだろうか。

 王妃の座を我がものにするために。


「あくまで噂です」


 朔弦は改めてそう強調したが、もはや結果が物語っていると言ってもいい。


「だが、火のないところに煙は立たんと言うだろ」


 実際、敬眞王妃は亡くなり、玲茗はいまなお高い地位に就いている。


 また、玲茗には動機があった。

 それが彼女の根底に渦巻く欲深さだ。権力、王の寵愛(ちょうあい)、当然それらを欲しただろう。


 だが、子に恵まれなかった。息子はおろか娘すらも。

 後宮でそれが何を意味するか、恐らく玲茗が一番よく分かっていただろう。


 だからこそ、敬眞王妃に嫉妬していた可能性は大いにある。


「……敬眞王妃さまは本当に太子さまの殺害を画策してたのか?」


 呟くように悠景が尋ねる。

 記憶の限りでは、敬眞王妃はそのような人物ではなかったはずだ。


 敬眞王妃のさらに先代の妃であった恭仁(きょうにん)王妃が亡くなったとき、王妃の座を打診されたのは敬眞王妃であった。

 その際にも、かなり渋っていたと聞く。


「……いいえ、恐らく濡れ衣でしょう」


 朔弦は答える。


「ですが不幸なことに、敬眞王妃にもまた太子さまを殺める動機として十分なものがあった」


 当時の太子は敬眞王妃の子である現王ではなく、恭仁王妃の実子であった。


 敬眞王妃が王妃の座に就くのを渋っていたのは、自分が王妃となれば太子の地位が脅かされる、と思ったためだろう。


 恭仁王妃は元来病弱で身体が弱く、出産後ほどなくして亡くなった。


 空位となった王妃の座を欲した太后が敬眞王妃を陥れ、強引に奪ったというのが朔弦の考えだ。


 敬眞王妃が太子を殺める動機に値するもの────それを利用して。


 悠景は眉を寄せ、難しい顔をした。


「何だ? その動機ってのは」


「……自分の子を王にすること」


 我が子を王にしようと思えば、必然的に太子の存在が邪魔になるのである。

 だから、殺めた────。


 実際に王太子は宮外(きゅうがい)で亡くなっており、遺体も残っていないというありさまだった。


 山賊に襲われたあとそのまま放置されたため、野犬に食い荒らされてしまったのだ。

 幼い王太子はそんな残酷な結末を迎えていた。


 宮中より外の方が手を下すのが容易なため、黒幕は虎視眈々(こしたんたん)と機会を狙っていたのだろう。


 手を下したのは敬眞王妃ではなく、太后である可能性が高い。

 朔弦の言葉を聞く限り、悠景も同様の結論に落ち着いた。


 その罪を敬眞王妃に被せ、廃位に追いやった。

 玲茗は邪魔な王妃も王太子も一度に片づけたわけだ。


 朔弦は目を細め、小さく息をつく。


(あの王も……ある意味犠牲者だな)


 太后が現王を殺さずに生かしたのはあえてなのだろう、と考える。


 すべての世継ぎがいなくなれば、また新たに側室が迎えられる可能性があった。


 玲茗は子が望めない身体であるため、側室が懐妊(かいにん)しようものなら大いなる脅威となる。


 側室を迎えるのだけは避けたい。でなければ、王太子に施したような悲劇を何度も繰り返すしかなくなる。


 だから現王を生かした。

 気が弱く操りやすいため、都合のよい傀儡(かいらい)にできるだろう、と踏んで。


「なるほどな……」


 悠景は唇を噛み締めた。

 “あの件”とは、このことなのだろうか。


 確かに十分、脅しの材料にはなる。

 白日の下に晒されれば、太后は無事ではいられないだろう。


「まあ……真実がどうあれ、こうなっては太后さまと蕭家に従順でいるほかない」


「……ええ。王がどう思おうと妃選びの実施は決定事項でしょう」


「王も我々も同じだな。己の身を守るので精一杯だ」




     ◇




「今日という今日はわたくし、陛下から目を離しませんからね」


 小柄な内官(ないかん)清羽(せいう)は腕を組み、精一杯強気に宣言してみせた。


 四十という(よわい)ながら、その短い背丈と下がった眉のせいか威厳も貫禄もまったく感じられない。


「…………」


「昨日だって内侍省(ないじしょう)総出で方々(ほうぼう)捜し回ったのですよ! ひとりで勝手に王宮を抜け出す王がどこにおられるのですか、まったく……」


 ここにいる、と王は思ったが口には出さなかった。

 艶の走る几案(きあん)の天板にだらりと腕を広げ、その上に頭を載せたまま目を伏せる。


 内侍省は全内官や全女官を統括する部署で、王付きの内官である清羽が統括していた。


 彼は気が弱く心配性であり、一見頼りない。

 しかしその仕事ぶりは優秀で、王が幼い頃からずっと仕えてきた。


 即位に合わせて清羽も筆頭の内官、すなわち内侍省の長に昇格したのだが、そのきっかけがなくともいずれ任命されていただろう、と王は思っている。


 だが、いつも大げさだ。

 彼らが案じているのは“王”であって、自分ではないのに。


 のそ、と重たい身体を起こす。


「……余は王だぞ。王は誰よりも自由であるべきなのだ」


 ふん、と威張ってみたが、清羽からはため息しか返ってこなかった。


「一国の王であらせられるお方が、無断で姿を消さないでください!」


 丸い頬が赤に染まっていく。随分怒っているが、言っていることは正論だ。

 王は肩をすくめた。


「いいですか、宮外へ出られるならひとことお声がけください!」


「しかし、余はひとりで……」


「おひとりになりたいのでしたらそうご下命(かめい)ください! とにかく、何かする際には必ずお声がけいただかないと。この清羽、心配で心配で寿命が十年縮みましたよ!」


 小柄な身体を全体使って訴える清羽の勢いに半ば圧倒されつつ王は頷いた。


「わ、分かった。次から気をつける」


 小姑のように口うるさいところはあるが、自分を心配してくれることは嬉しかった。

 たとえそれが“王”に対するものであっても。


 几案の端に置いてあった皿を引き寄せ、杏仁酥(あんにんす)を手に取る。

 無心で頬張っていると、降り積もった桜の花びらが瞼の裏を流れていった。


『あなたの名は?』


 あの瞬間だけは、自分は王ではなかった────。

 思い(ふけ)っていると、ばん! といきなり扉が開け放たれる。


「じ、侍中……!」


 びくりと肩を跳ねさせた清羽が声を上ずらせ、恐々と頭を下げて控えた。

 断りもなく踏み込んできた容燕の鋭い目配せを受け、逃げるように殿から出ていく。


 王もまた戸惑いつつ、菓子を慌てて皿に戻した。

 突然の来訪に驚き、むせてしまう。


 現状はこのような無礼も咎められないほど、王の威厳はないに等しい。


「ど、どうしたのだ」


 必死で動揺を押し込めながら尋ねる。


 容燕は菓子や落書き用の半紙で散らかった几案に手をつき、ずいと威圧するように距離を詰めた。


「主上が即位されてからずっと、王妃の座が空いたままです。国の安寧のためにも、早急に妃を迎えなされ」


 その話は王自身、いつまでも避け続けることはできないと分かっていた。


 これまでは何とか(かわ)して逃げてきたのだが、とうとう袋小路(ふくろこうじ)に追い詰められたようだ。


「うむ……」


 何かいい言い訳はないものかと考えてみるが、何も思いつかず難しい表情で黙り込んでしまう。


 王という立場上、早々に妃を迎える必要があることは重々承知していた。

 世継ぎがいなければ、国や王族の発展は望めないからだ。


 しかし、素直に(だく)することはできなかった。

 容燕が蕭派の娘を嫁がせようとしていることは容易に察せられるためである。


(それに────)


 王というだけで、想い人と結ばれる運命を諦めなければならないのだろうか。


 ばん! と、突然大きな音がしてびくりと肩を揺らした。

 容燕がしたたかに几案を叩いた音だ。

 鋭い双眸(そうぼう)に捉えられ、射すくめられる。


「妃選びを行います」


「な……」


 その言葉にひどく焦った。 そんなことになれば、容燕の思うつぼだ。


 恐らく太后と手を組み、審査を意のままにする気だろう。

 そして、望みの者を王妃の座に就けるつもりだ。────たとえば、容燕の娘を。


「ならぬ! 余はまだ婚姻する気などない!」


「主上の意思など関係あるまい。一刻も早く世継ぎを産ませねば、国の存続に関わるのですぞ」


 容燕の揺るがぬ眼差しに唇を噛んだ。悔しく、情けなかった。


 彼の意見は正論だが、それは蕭家の勢力を拡大させるための口実だ。

 そう気づいていても、王にはどうすることもできない。


「すべては主上のためなのです」


 容燕はおもむろに袖の中から上奏(じょうそう)文を取り出した。

 閉じていた紐をほどいて広げる。


 傍らに置いてあった玉璽(ぎょくじ)を手に取ると、勝手に印を押してしまった。


(何を────)


 困惑する王に、容燕はその上奏文を掲げて見せる。

 書かれていた内容はまさに進言の内容と一致していた。つまり、妃選びの実施である。


 玉璽が押されてしまったいま、それは王の意思として決定事項となった。


「容燕!!」


 たまらず、王はその名を叫んで立ち上がる。

 無力感や悔しさは、憤りに変換される。


 王は上奏文を取り上げようとしたが、容燕にはひらりと簡単に躱された。

 素早く丁寧に巻き直すと、再び袖の中へしまい込んでしまう。


「ご心配なさいますな。主上もきっと、我が娘をお気に召されましょう」


 不敵に笑った容燕は最後まで礼を尽くすことなく、(きびす)を返して蒼龍殿をあとにした。


「……っ」


 残された王は顔を歪め、固く拳を握り締める。


 絶望感につままれ視界が揺れた。目眩(めまい)を覚え、へたりと椅子に崩れ落ちる。


 頭の中がかき乱される。

 九年前の記憶が、砂を()いたようにざらつく。


 王であって王でない彼は、そこらに漂う空気と変わりなかった。

 とはいえ、ある意味それが本望だ。


(消えてしまいたい……)


 ────重々しい王の衣を着ていると、周囲は本心を隠し上辺を(つくろ)ってへつらう。


 あるいは権謀術数(けんぼうじゅっすう)を巡らせ、利用しようと目論む(やから)につけ込まれる。

 彼はまさしくその犠牲となっていた。


 誰ひとりとして信用できず、心労の絶えない日々は、彼をさらなる孤独へと追い詰めていく。

 鬱々としたため息をついた。


 誰も自分を必要としない。

 王でない自分は、無価値なのだろうか。


(……ちがう)


 そもそも、王であろうと無価値だ。


 誰も彼を見ない。

 九年前からずっとそうだった。


 何者かの目に映ったとしても、それは自分でなく“王”でしかない。


 心に空洞ができたように、急激に虚しさが込み上げてくる。

 座っているはずなのに足元がぐらぐらと揺れている気がした。彼を嘲笑うかのように。


 ……誰か。誰でもいい。

 いまにも倒れてしまいそうな自分を支えて欲しい。

 大きくなるばかりの孤独を、埋めて欲しい。


(誰か────)


 存在しない“誰か”に縋り、ありもしない温もりを求めてしまう。

 願っても叶ったことなどないのに。


 裂けるような心の痛みと息苦しさに喘ぎながら、目の前が暗くなっていくのを感じた。


「陛下……」


 殿内へ戻ってきた清羽は泣きそうな顔で呼ぶものの、その先に続ける言葉を見つけられず口を噤んだ。


 長年そばで仕えているが、彼の役に立ったことが一度でもあるだろうか。

 あまりの不甲斐なさに唇を噛み締めた。




     ◇




「お嬢さま、今日は装飾品を見にいきましょう!」


「装飾品?」


「似合いそうなものをわたしが選んでさしあげます。いえ、選ばせてください!」


 揺れる軒車の中、とん、と胸に手を当て得意気に芙蓉は言った。

 くす、と春蘭は思わず笑う。


「そのために市へ誘ったのね」


「ついでに新しい衣も仕立てにいきましょう、春ですし! あ、お部屋に飾るお花も替えたいですね。それから────」


 次から次へと希望を挙げる芙蓉にまたしても笑みがこぼれたとき、がたん、と大きく軒車が傾いた。

 衝撃を及ぼしながら前進を止めた馬が、足元に砂埃を舞わせる。


 困惑して顔を見合わせた。

 馭者を担う紫苑はそんな荒い手綱さばきをする者ではない。


 きぃ、と一拍置いて慌てたように扉が開かれる。


 軒車に施された玉の吊るし飾りや帷帳(いちょう)を上げ、紫苑が顔を覗かせた。申し訳なさそうに眉を下げている。


「すみません、お嬢さま。芙蓉も……。お怪我は?」


「ううん、わたしたちは大丈夫よ。何かあったの?」


「それが……ちょっと問題がありまして」


 そう言うと脇に避け、軒車の進路を示した。

 路傍(ろぼう)の一角に人だかりができており、通りが塞がれてしまっている。


「あれは薬房では?」


 芙蓉が言う。確かにその通り、民たちは薬房に詰めかけているようだった。


「何の騒ぎかしら」


「物騒じゃないですか……? 何だか怖いです」


 不安気に眉を寄せた芙蓉は春蘭に身を寄せる。

 そう恐れるのも理解できるほど、わらわらと集う民たちの様子は尋常ではなかった。


 中には農具を持ち出している者までおり、時折響く怒声もあって、辺りはいつになく騒然としている。


「どうなってるんだ!」


「うちの女房が病気で……薬がなきゃ死んじまう!」


「うちの子だってそうよ! 今すぐにでも薬を(せん)じて飲ませなきゃいけないのに」


 民は口々にそう訴えていた。

 大人たちの殺気立った気迫に怯んだ幼い子どもは、声を上げて泣き出す。


 それがさらに混乱を助長させ、場の収拾がつかなくなっていた────。


 困り果てた薬房の店主は苦い表情を浮かべる。


「そう言われましてもなぁ……。気持ちは分かるが、薬が入ってこんのですよ」


 仕入れようにもどこもかしこも品がないのだ。

 商団に直接かけ合っても、門前払いで取り合って貰えなかった。


 また、自ら山中へ入ってみてもなぜかまったくと言っていいほど薬草がない。

 それについては大方、同じことを考えた誰かが先に採り尽くしてしまったのだろう、と踏んでいるが。


 また、薬材がなく騒動が起きているのはこの薬房に限ったことではなく、さらには医員(いいん)たちも同じことを嘆いていた。


 必要な薬は手元から尽き、新たに入手することも困難な現状。

 何度患者に泣きつかれ、何度救えたはずの患者を看取っただろうか。


 そのたびに医者たちは己の無力さに打ちひしがれたが、元はと言えば薬がないのが悪いのである。


 みながそう考えた結果、薬材を売る薬房の店主に責任転嫁(てんか)され、どこの薬房にも同じような人だかりができていた。


「畜生……。何でこんなにも薬が足りねぇんだ!」


「何でも薬草やなんかを育ててる一帯が獣に荒らされたらしいが……」


 そのため薬の生産量が著しく低下し、薬材不足が深刻化したのである。


 妙なのは、どこの畑や菜園も同じように荒らされたということだ。

 まるで何者かが狙ったように、同じ時期に同じように被害に遭った。


 民たちの不平不満は止まない。


 口々に文句を垂れるに留まっていたのだが、ついに堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒が切れたのか、やがて数人が空の薬材入れを引っくり返し始めた。


 農具を持った者は、勢いよく振り上げたそれで薬房の看板を破壊した。


 あちこちで悲鳴が上がる。

 泣き声が増長する。

 場はますます、混迷(こんめい)を極めていく────。


「…………」


 軒車から降りた春蘭はものものしい状況を目の当たりにした。

 口々に喚き、怒りや不満に満ちた表情で暴徒化した民たちを呆然と眺める。


「お嬢さま、危ないですから中へお戻りに……」


「……だめ」


 紫苑の制止を振り切って、ふらりと嵐の方へ向かいかけた春蘭だったが、ほどなくして足を止める羽目になった。


 さっと視界を人影が横切ったのだ。

 紙束を抱えた役人たちだった。


 民たちの騒ぎには一切目もくれず、そばに立てられていた木製の高札(こうさつ)へ駆け寄っていった。


 刷毛(はけ)で素早く糊を塗ると、紙束から抜き出した一枚の紙を貼りつける。

 淡々と貼り紙の仕事をこなした役人たちはそのまま素早く去っていく。


 それに伴い、薬房の前に集まっていた民たちの熱が少し冷めたらしく、怒号の波が先ほどよりも引いた。

 民たちは、今度は高札の前に寄ってくる。


「何て書いてあるんだ?」


「王室が薬材を独占している、って……。おい、こりゃ何だ!?」


 民衆の中のひとりが触れ文の内容を端的に伝えると、瞬く間に動揺が広がった。


 まっさらな白い布に墨を垂らしたように、じわじわと不信感が浸透していく。


「ど、どういうことだ?」


「じゃあ、薬草畑が荒らされたことを知った王室は、こうなることを見込んでとっとと買い占めちまったってわけかい!?」


「そんなことが許されるのか!」


 民の間の動揺は、次第に王室への怒りへと変わっていった。

 薬材不足という現状が火となり、この触れ文が油となって、轟々(ごうごう)と燃え上がっていく。


「確かに……宮中で使われる薬の数は減ってないと聞いた」


 薬房の店主が言う。


 矛先を変えようという魂胆(こんたん)はなかったが、結果的にそうなった。

 それを聞いた民たちの興奮がさらに増す。


「ってことは、俺たちの苦しむ様を高みの見物してるってわけか」


 あちこちから非難や批判の声が響き、町はいっそう大騒ぎとなった。

 先ほど薬房で暴れていた民は、今度は高札に農具を振り下ろす。


 八つ当たりをしても、やるせない憤りという激情を鎮めることはできず、一旦引いたはずの波が再び激しくなっていく。


 怒号、悲鳴、泣き声が、そこら中から湧き上がっていた。


 はら、と春蘭の足元に破られた触れ文が落ちてきた。

 困惑したまま拾い上げて目を落とす。


「これは……」


「ひどいですね。光祥殿の言っていた通りですが、予想以上です……」


 紫苑もまた、落ちていた薬材の値札を拾って眉をひそめた。

 以前に市で見かけたよりもさらに高騰している。


「ちょっと待って! こんなの嘘よ」


 毅然(きぜん)と顔を上げた春蘭は、触れ文を掲げながら民衆の方へ歩み出ていった。


「お嬢さま」


「お嬢さま……!」


 紫苑と芙蓉は慌ててあとを追う。彼女は怖いもの知らずにもほどがある。


「嘘だ? 何でそんなこと言えるんだよ」


「それは……だって、民の規範(きはん)となるべき王室がそんなことするはずないでしょ?」


「どうだかな! 危機が及べば保身に走るもんだろ」


 彼らは一様に猜疑心(さいぎしん)(あらわ)にしていた。冷笑には失望まで滲んでいる。


「それに、お役人さまがこうして糾弾(きゅうだん)してんだぞ?」


 ばっ、と春蘭の手から触れ文をふんだくった。


「この内容が事実ってことだろ!」


 その点に関しては反論の余地もない。

 内容を否定したのは心象(しんしょう)に過ぎず、そもそも根拠は薄弱どころか無に等しいのだ。


 国の(ろく)()む役人がなぜ王室を(おとし)めるような内容の触れ文をしたのか、実際に妙な事態ではあった。


「やっぱ王室が独占してるんだな。俺たちを嘲笑いやがって……」


「貧しい民の命なんざどうでもいいってことか!」


 鎮まったはずの騒動が熱をぶり返し、彼らは再び暴挙に出た。

 怒号に金切り声、破壊音が響き渡り、春蘭の声はひとつとして届かなくなる。


「……参りましょう、お嬢さま」


 混沌(こんとん)としたそんな光景をなす術なく見つめた春蘭は唇を噛み締め、ぎゅ、と両手を握る。


「…………」


 黙したまま踵を返した春蘭に、芙蓉は慌ててついていった。

 悔しげな横顔を認めた紫苑もまた、追随(ついずい)しながら口を開く。


「何をお考えで?」


 軒車まで戻ってくると、ぴたりと足を止めた。

 顔を上げた春蘭の顔からは凜然(りんぜん)たる色が窺える。


「……わたし、宮殿に忍び込むわ」


「えっ!? なにをおっしゃってるんです!」


「そうですよ、どうか冷静になってください。お嬢さま自身のためにも」


「こんな状況、見て見ぬふりなんてできないでしょ。本当に薬材を独占してるとしたらあまりに救いがないわ。もしそうだったら、くすねてでも取り返して配給する」


 そんな言葉を受けた芙蓉は、不安そうに紫苑を見上げた。

 同じような心持ちで秀眉(しゅうび)を寄せた紫苑も憂う。


「ですが……あまりに危険ですし、無謀では? もしバレたら鳳家そのものの信用に関わるのでは────」


「だから」


 春蘭は紫苑の両腕を掴み、迷いも曇りもない眼差しを向けて懇願(こんがん)する。


「バレないように協力して欲しいの」


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