五十年後・14
「その時間を、何に使うの?」
尋ねてきたのは、おとなの虎三郎。
「だって、忙しいのよ。一路はあんなだし。取引先や工場や金融機関と話をするのは、わたしじゃないとできないでしょ。みんなが、わたしの都合を聞いてくるのよ。朝から晩まで息つく暇もないわよ。人と会うから、身ぎれいにもしていないといけないし。睡眠をしっかりとって、美容に気をつけないとね」
「母さんはいつも、きれいですね、若いですねとほめられてたね」
「そんなの、嬉しくない。それだけの女だと思われたくない」
そう。
容貌は、わたしにとってはツールの一つ。最後の一押しをしてくれるもの。
なんだかんだ言っても、そういうものだから。
でも、それだけじゃないと認めさせたい。
「それで、母さんは、自分のほしいものを手に入れたの?」
アヤは虎三郎の無表情な目をまじまじと見た。
「ええ。会社は発展して、押しも押されぬ大企業になったでしょ。盤石の状態で、あなたに引き継いだじゃない」
「まあね。MABEカムパニーの製品を見ない日は無いね。でも、俺が聞きたいのは、そんなことじゃない。
それで、母さんは、幸せになったの?」
虎三郎の目は、容赦がない。
「俺はそれが知りたいんだ。
俺を犠牲にしてまで打ち込んだんだから、幸せになったはずだよね?」
幸せとは、どういう状態のことを言うのだろうか。
人から認められた。業績も残した。
必要とされていて、忙しく過ごしていた当時は、自分が光り輝いているように感じていた。
でも、そんなものは、風の前の塵と同じだった。
確かに感じていた手ごたえは、一瞬だけのものだった。
アヤはまだ生きているのに、すでに過去の人となった。
だれも、アヤを見向きもしない。何か意見すると、老害扱いされるだけだ。
さみしい。むなしい。
幸せなど、感じない。
でも、大きく欠けた心を押し隠して、ほほ笑むだけが、せめてもの矜持。
だから、虎三郎にも言い放つ。
「当たり前でしょ。じゅうぶん、幸せだったわ」
しかしそこにはもう、だれもいなかった。
アヤは、ひざまずいて、月をのぞき込んでいた。
しんと鎮まったきれいな水鏡。揺らぎもしない、皓皓と輝く月。
手を伸ばして掬おうとすると、ぱっと銀色に砕け散る。
砕けたところをあわてて掬ってみると、ただの水がこぼれ落ちる。
わかっている。
ほんものは、手の届かないところにある。
でも、この水上の月をそのまま掬い取れたら、それもまたほんものと言えないか?
もう一度と身を乗り出すと、まがまがしいサロメが映った。
ああ、わたしはサロメだった。
アヤはやっと得心がいった。
この姿は、アヤそのものだったのだ。
思い通りになったところで、決して満たされない。
恋焦がれてやっと手に入れても、それはまがい物と化して、既に腐臭をまとっている。
一路に会いたい。
アヤは、ふらふらと立ち上がった。
あの人は、わたしという人間の本質を理解していた。そのうえで、まるごとかかえてくれた。
自由にさせてくれた。
人間的にいろいろと問題もあったけど、あの人の、わたしに対する覚悟だけは、誰がなんと言おうと、ほんものだった。
そこだけは疑いなく、安心していられた。
よろよろと歩んでいくと、急に目の前が開けた。
日の当たる、なだらかな緑の斜面に、何千何百というガボットが、ひまわり畑のひまわりのように、顔を上げて立ち並んでいた。
さまざまな色や形のガボットたちが、こんなにたくさん整然と立ち並んでいると、不思議と違和感を覚えない。
彼らは根が生えたように、自分の立ち位置から動かない。
各個体からにじみだす歌声やうめき声やつぶやきが、空中でよじり合わされ、大きな陽炎となって青い空に立ち昇ってゆく。
アヤは、彼らに分け入った。
その中に、一路を探し始めた。
見知らぬガボットたちは、アヤが押すと柔らかくしなって、また元通りに直立した。
この中から一路を探しだせるだろうか。
ガボットたちは分けても分けても迷路のように果てしなく、どこをどう通ったのかもわからない。
一路がここにいるのかどうかもわからない。いたとしても、アヤのことを忘れ果ててしまっているかもしれないし、息絶えているかもしれない。
もしくは、アヤの方が、再会を果たす前に行き倒れるかもしれない。
それでもアヤは、一路に会いさえすれば、幸せというものがわかるような、予感がした。
今や、他に目的などなかった。