五十年後・12
鏡の壁に手を這わせながら通路を見つけて進んでいく。
入り乱れた黒い線がちらちらして、気持ちが悪くなってきた。
目を閉じた方が、惑わされずに済むのかもしれない。
「アヤ。ご飯ができたよ。食べようよ」
カイの声がする。大きな手で頭を撫でられて目を開けると、上から、カイの優しげな顔がのぞきこんでいる。
「今、何時?」
「七時」
「え? なんで起こしてくれなかったのよ! 遅れちゃうじゃない!」
飛び起きて、カイを押しやるアヤ。
「だって、いつもと同じだろ?」
「今日は、大事なお客さんが来るのよ!」
話す時間さえ惜しい。アヤの口調は鋭くなる。
「ご飯は?」
「いらないに決まってるでしょ! そんな時間なんてないわよ!」
「もう、たくさんだよ!」
いきなりカイが怒鳴る。
アヤは、洗面所で鏡を見ながらアイラインを引いている。ずれたら大変だ。集中。
「どうせ俺なんて、役立たずのお荷物なんだよな!」
「悪いけど、帰ってから聞くから」
通勤バッグをひっつかんだアヤの後ろ姿が、ドアの向こうに消えた。
その背中を、アヤは見ていた。取り残されたカイも、アヤには見えていた。
カイは、作ったばかりの温かい朝食を、全てゴミ袋に入れた。
皿などきれいに洗って拭いて、食器棚にしまった。テーブルの上は拭きあげた。
洗濯機から洗濯物を取り出して、ベランダに干す。
それから、クローゼットや洗面所から自分の物を取り出して、大きいバッグにきっちりと詰め始めた。
行かないで。行かないで、カイ。
わたしたち、あんなにうまくいってたじゃない。
このくらいのことで、そんなに怒らないで。
カイは、バッグを持ち上げると、ドアを開けた。
アヤは、カイの後ろについて、ドアのすき間をするりと抜け出た。
ドアの向こうには、別の男がいた。