三日目・7
スタッフがワゴンを押して入って来た。
張りつめた空気が和らいだ。
アヤのグラスに白ワインが注がれた。社長には、ノンアルビールらしい。
お互いにグラスを軽く掲げてから、口をつける。
ワインの銘柄は聞いた端から忘れてしまったが、飲みやすくておいしい。
芸術品のように美しく盛り付けられている前菜を、アヤは上の空で口に運んだ。
これは、チャンスかもしれない。
最近アヤは三十五になった。
二、三年前から、漠然とした不安を感じるようにはなっていたが、それが少しずつ濃くなっているような気がする。
仕事はやりがいがあるし、もうすぐ昇進するはずだ。
しかし、この先ずっとこれでいいのだろうか。
今は若くて健康だが、健康を害したりしたら。仕事ができなくなったら。
実家の両親も年をとった。兄は自分の家庭の方が大事だ。
だれが、アヤの最後までを親身に考えてくれるのか。
忙しくしていれば、その不安を忘れていられる。
まだ会社に必要とされているし、声をかけてくる男だっている。
しかし、誰もいない部屋で一人いると、時々たまらなくなることがある。
もう、年貢の納め時なのかな。
そう思う一方で、ここまで来たからには、やはりぎりぎりまで妥協はしたくないとも思う。
「気に障りましたか?」
社長がおそるおそる話しかけてきた。
「あなたの気持ちを知りたいのですが、今日でなくて構いません。でも、できればモニター期間中に聞きたいですが」
合理的にできている人だ。情緒的な陰影など、みじんも感じない。
いっそ、すがすがしいほど。
「気に障ってなどいません。いろいろと考えていただけで」
魚料理が運ばれてきた。
アヤは、意を決して口を開いた。
「社長さん」
「まべ、いちろう、です。できれば名前の方で呼んでください」
「じゃあ、真部さん」
「はい」
真部が、背筋を伸ばした。
「わたしも、愛だの恋だのって、もうそんなまどろっこしいことは必要ないと思うの」
「はい」
真部は、大きくうなずいた。
「わたしが必要なのは、これから・老後・死ぬまでの安心」
真部は、さらにうなずきながら聞いている。
「あなたはそれを、与えてくれる?」