-三十日目・3
「俺が代表で、お前が専務だ。よろしくたのんだぞ。お前だけが頼りだ」
とかなんとか言われて、二人で祝杯を挙げ、へべれけになった。
今となっては、あの時のことも、一路がなにか手を回したのではないかという気がしている。
しかし後からわかったことだが、彼女は二股も三股も四股も五股もかけていて、一番おいしいところを狙っていたようだ。
知らなかったのは慈良だけ。
笑いものになるのは構わないが、結婚後まで妻の貞操のことで悩みたくはない。
だから慈良は、一路をとがめる気にならなかった。
慈良が会社を辞めると告げると、苦労人の風貌をした初老の田山社長は、ずいぶんと惜しんで引き留めようとした。
しかし、実は兄に一緒に会社を立ち上げようと誘われて、と理由を話すと、こわばった表情で諦めてくれた。
心のこもった送別会も開いてくれた。
タヤマ製作所で苦楽を共にしてきた社員たちも、「まあ、前途多難だろうけどがんばれよ」と快く送り出してくれた。
二人の両親は、気っ風良く、まとまった事業資金をぽんと出してくれた。
しかし、「もうお金を出すのはこれっきりだから。わたしたちだって生きて行かなきゃならないから」とは釘をさされた。
その資金と、一路がどこからか調達してきた大金をもとに、古い二階建てのビルと、研究のための装置や材料やなんやかやを買い入れ、会社の体裁を整えた。
一階がマッドサイエンティストの研究室みたいになった時、「これこれ。こういうのが、俺の一生の望みだったんだ」と、一路が泣いて喜んだ。
慈良にはどこがいいのかよくわからなかったし、なんとなく不気味でしかたなかったが、一路が喜ぶのならそれでよかった。
一路は一階で研究に耽る。
慈良は重い物を持ち上げたり、何かを支えたり、金属の加工をしたり、つまり体を張って一路を手伝った。実験につき合うのも、いつものことだ。
そうやって、新製品を次々開発してきた。
たとえば。
ふだんはシャーペンに見えて胸ポケットにさしても何の違和感もないが、よく伸びてよくしなる、先端が爪くらいの硬さの、何とも言えず気持ち良い「孫の手」。これは、隠れたヒットになった。
蚊を片っ端から捕殺するトンボ型メカは、すばらしかった。しかし重さの問題を解決できず、すぐに電池が切れて、戻って来れなくなったりすることが相次いで、回収に追い込まれた。
「おれがしたいのは、こんなことじゃない」
一路はいつもそうぼやくが、したいことをするにはお金がかかる。
慈良は一路をせっせと手伝いながら、一路の夢がかなうことを祈っていた。