第五十六話
その声に驚いた私とキャンベル医師がクリス様に顔を向ける。
「オットー!シビルから離れろ!今すぐだ!」
と言って大股で近づいてきたかと思えば、キャンベル医師の手から濡れた布を取り上げた。
キャンベル医師は、
「おい!クリスティアーノ!僕は医師としてシビルちゃんの手当てをしているだけだ。邪魔するな」
と言って、クリス様からその布をまた取り返す。
いつの間にやら、布の争奪戦になっていた。
私はそれを尻目に、もう一枚新しい布を探すと、それを水に浸して固く絞り自分の頬に当てた。
元々、これぐらい一人で出来るので、わざわざ医師の手を煩わせる必要はない。
二人は一頻り揉めた後、私を見て、
「「俺(僕)がやる!」」
と見事にハモっていた。
私が、
「だいじょうぶれす。じぶんでやれまふ」
と言うと、クリス様は青ざめて、
「喋れない程酷いのか?!」
と大声を出した。
キャンベル医師は、
「クリスティアーノうるさい!頬が腫れてるし、口の中も切れてる。喋り難いんだ、無理に喋らせるな」
とクリス様を睨んだ。
クリス様はそんなキャンベル医師を無視するように、
「シビル、少し手を離して俺に頬を見せてみろ」
と私に話しかけた。
私は小さく頷くと、布を頬から少し離してクリス様に頬が見えるようにした。
「赤くなってるな……骨には異常はないのか?」
と訊かれて私はついキャンベル医師を見る。
骨については、キャンベル医師は何も言ってなかったが、自分では分からない。
私の視線を受けて、
「多分、骨折はしていないだろうが、明日になればもっと腫れるかもしれない。腫れが引くまでは少し時間が掛かるだろう。
ローザリンデが思いっきり叩いたからな」
とキャンベル医師が私の代わりに答えてくれた。
「どうしてこんな事を。あいつ……絶対に許さない」
とクリス様が言えば、
「お前のせいじゃないのか?シビルちゃんが着ている、そのドレスが自分の物だとローザリンデは喚いていたぞ?心当たりは?
まさか、ローザリンデにも同じデザインのドレスを贈ったのか?」
と言うキャンベル医師の問いに、
「そんな訳あるか!俺は今まで女にドレスなど贈った事はない。シビルが初めてだ」
クリス様は怒ったように答えた。
「じゃあ、何故ローザリンデが勘違いしてるんだ?」
「知らん!俺には全く身に覚えのない事だ」
……二人が言い争った所で私を叩いた理由を知るのは、当の本人、ローザリンデ様だけだと思うが、二人はそれからも長々と揉めていた。
今日は全てのレッスンを中止にし、私は部屋で休む事になった。
痛みはあるが、痛み止めの薬も飲んだし、散々冷やしたので随分と楽になった。
しかし、なにもせずにゴロゴロとしているのも性に合わず、イヴァンカ様から借りたこの国の歴史書を読んでいると、部屋をノックする音が聞こえる。
「すみません。バーレクです。部屋へ入っても?」
「どうぞ」
と私は扉を開けた。喋り憎いので、言葉は最小限だ。
本来なら、扉を開けるなんてのは、侍女の仕事なのだ。
しかし、寛ぐべき部屋の中で悪意ある視線に晒されるのは、なかなか精神的に来るものがあった。
なので、いつもはあの二人には、向かいの侍女用の控え室に待機して貰っている。
私は自分の身の回りの事なら、殆んど人の手を借りずに済むし、正直一人の方が気楽だ。
私から歩み寄らなければ……そうは思うのだが、王太子妃教育が想像以上に大変過ぎて、自分にその余裕がない。
バーレク様は部屋に入るなり、
「申し訳ありませんでした」
と頭を下げた。
『頭を上げて下さい』と言いたいのだが、
「あたまをあげてくらさい」
としか言えなかった。察して貰いたい。
「あぁ。確か頬が腫れているとか……。それも、これも私達近衛が油断していたせいです。
先程王太子殿下から、付いていた者達への処罰は言い渡されましたが、全ては私の責任です」
……喋れないのがもどかしい。
私は急いでペンを取り、私の気持ちを文字に書き記していく。
『バーレク様のせいではありません。それに、今日付いて下さっていた近衛騎士の方々も、お相手が公爵令嬢という事で、まさかこんな事になるとは思っていなかったと思います』
私が書いた文字をバーレク様は読み終わると、
「いえ、それこそが油断なのです。しかもエクルース公爵令嬢は、怒りながら近付いて来たと言うではないですか。
そんな相手をモンターレ嬢の傍まで近づける事を許すなど……有り得ません。
もし相手が刃物を持っていたとしたら、これぐらいの怪我では済まされませんでしたので。
本来なら今日の護衛に付いていた近衛は……処刑されても文句は言えません」
処刑?!嘘でしょう?!私は目を丸くした。
誤字報告ありがとうございます。
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