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猫リターンズ  作者: 在江
2/3

中編


 かっちんが小声で言った。俺は芝生に目を凝らした。

 猫は見当たらない。茂みに目を転じて、俺はやっと猫を見つけた。

 三毛、トラ、斑と色とりどりの猫が、茂みの陰からこっちを睨んでいた。


 怖かった。

 広い芝生を横切るのも、誰かに怒られそうで怖かったけど、猫たちが待ち構える茂みに隠れようという気はなお起きなかった。


 「まめちゃん。行くぞ」

 「かっちん」


 かっちんは俺の手をぎゅっと握ると、そのまま手を引いて屋敷に沿って歩き出した。

 とりあえず猫と戦わずに済んだので、俺はほっとした。それでも、猫が隙をついて襲いかかるのではないかと、心配した。

 かっちんが引っ張ってくれるのをいいことに、俺は猫の方ばかり窺っていた。急に、手を強く握られて、俺はかっちんの背中にぶつかった。


 「痛いよ。かっちん」


 かっちんが俺の手を離した。ふらふらと屋敷の方へ歩いた。上から下まである大きな窓ガラスが何枚もつながっていて、真ん中だけカーテンもなく、大きく開いていた。その真ん中で、白い頭に赤い帽子をつけた人が、うつぶせに寝ていた。脇に黒い塊が見えた。かっちんは、寝ている人に手を伸ばして触った。


 「ぶにい」

 「きゃっ」

 「うわっ」


 がたん。全てのことが同時に起こった。黒い塊がこっちを向いてへんな声を出した。俺が悲鳴を上げた。かっちんが声を上げて手を引っ込めた。家の奥で大きな音がした。


 「逃げろ!」


 かっちんは、俺を突き飛ばすようにして、茂みの方へ押し出した。押されなかったら、俺はその場に凍り付いたままだった。

 火の付いたロケット花火よろしく、俺は一目散に茂み向かって駆け出した。


 背後でどたどたと足音がした。かっちんが並んで走るのが目の端に見えた。茂みから猫が飛び出した。猫集団の事など、すっかり忘れていた。俺は猫なんかよりも、もっと怖いものから逃れるために、茂みに飛び込んだ。


 耳元でがさつく草木の音と、俺たちの足音、心臓の音がごちゃまぜになって、背後の音がまるで聞き取れなかった。俺はめくら滅法に走った。入り込んだ抜け穴に辿り着けたのは、まさに奇跡だった。


 俺たちは命からがら這い出して、さらに猫屋敷が見えなくなるまで、必死で走った。


 やっと逃げられた、と思えた頃には、息が切れたなんてものじゃなくて、本当に心臓が破裂して死ぬかと思った。

 金魚みたいに口をぱくぱくさせながら、俺たちは後ろから誰か追ってくるんじゃないかと、怯えて猫屋敷の方向を見ていた。だが、呼吸が落ち着いても、それらしい人は来なかった。


 「まめちゃん。今日のこと」


 かっちんが、怖いくらい真剣な顔で言った。俺は小刻みに頷いた。


 「絶対、内緒だな」

 「ゆびきりげんまん」


 俺とかっちんは小指を絡ませた。


 「嘘ついたら針千本」

 「飲〜ます」


 最後は2人で合唱した。最初から最後まで、誰かが聞き耳でも立てているみたいに、囁き声だった。

 俺たちは無言でかっちんの家まで歩いた。早く家に帰りたかったけど、ひとりになった途端、猫屋敷へ攫われるような気がしてならなかった。

 その日、かっちんの家で何をして遊んだか、俺は忘れてしまった。親が迎えに来るまで帰らなかった。


 しばらくして、猫屋敷の婆さんが死んだというような話を大人がしているのを聞いた。

 俺たちが猫屋敷へ忍び込んだ日から、結構な日にちが経っていた。


 婆さんの身寄りが遠くに住んでいるとかで、葬式もこの辺ではしなかったらしい。近所の人はほとんど葬式には行かなかった筈だ。町内会長だけ代表で行ったとか行かなかったとか、これも大人が話していた。


 その後、何年かして猫屋敷の裏側半分にマンションが建った。かっちんが見つけた抜け穴は跡形もなく消えた。猫屋敷の残り半分は、そのまま残った。



 あの時、俺たちに向かって鳴いたのが、黄門だった。

 野良猫の割には色艶がよく、俺たちは猫屋敷の猫に違いないと睨んでいたが、果たして当たりだった訳だ。


 黄門は俺たちを従え、道の荒廃をものともせず、ひょいひょいと先導した。

 猫と違って、俺たちは得手勝手に伸びた草や木の枝を掻き分ける必要があって、簡単には進めなかった。


 黄門は、その度に立ち止まって、俺たちを待つように小首を傾げて腰を下ろした。

 まもなく、例の屋敷が見えてきた。相変わらず立派な屋敷であったが、前に見た時よりも小さく感じた。


 どっちかというと、屋敷よりも別荘みたいな建物だった。身寄りが住んでいた遠くの家が自宅で、ここは婆さんの隠居所だったのかもしれなかった。敷地をはみ出さんばかりに草が生い茂って、雰囲気がまるで変わっていた。

 車はもちろん見当たらなかった。門が開いた形跡もない。


 「ぶにい」


 黄門が、玄関の前で俺たちを呼んだ。ガリ勉が躊躇いもなく把手を回した。錆び付いた鈍い音がした。扉は開かなかった。鍵がかかっていた。俺はほっとした。


 「ぶにい」


 ガリ勉の足元にまつわりついていた黄門は、扉が開かないと理解すると、鳴いて俺たちを他の場所へ連れて行こうとした。

 それは芝生の方向だった。ガリ勉は子分よろしく猫に従った。俺は、気が進まなかった。かと言って、廃墟にひとり置き去りにされるのも嫌で、仕方なく後を追った。


 黄門が現れてから、俺のペースは狂いっぱなしだった。

 広い芝生の庭は消えていた。芝生はぼうぼう伸び放題で雑草も立ち混じり、空き地の原っぱみたいになっていた。


 屋敷のガラス張りの窓は全部閉まっていた。カーテンもきっちり閉まって、中を覗くことは不可能だった。

 また俺はほっとした。


 黄門は、ぶにぶにと鼻息か鳴き声か区別できない音を立てながら中を覗いては、時折手で窓を引っ掻いたりした。

 ガリ勉も、片端から手をかけて押したり引いたりした。


 どれも開かなかった。黄門は諦めなかった。俺たちは結局台所口も試して、屋敷を1周した。

 全ての出入り口には鍵がかかっていた。廃墟と言っても持ち主がいるのだから当然だった。


 「あんたたち、ここで何をしているんだ」


 不意打ちを食らって、俺は文字通り飛び上がった。

 有名警備会社の制服を着たおやじが2人、俺たちを睨んでいた。ドアや窓に触れて防犯センサーに感知されたか、マンションの住人に通報されたかどちらかだった。おやじたちは体格もよく、得物を隠していそうだった。

 どのみち、この場から逃げるのは難しかった。


 「黄門が」

 「コーモン?」


 俺が仕方なく経緯を話そうとしたら、警備員の表情が更に険悪になった。


 「僕たち、猫を追いかけて来たんです」


 ガリ勉が言って、下に向かって同意を求めた。警備員と俺も下を見た。

 黄門はまだそこにいた。とっくに逃げたと思ったのに、呑気に肉球の手入れをしていた。


 警備員は、黄門を見て首を傾げた。2人でこそこそ話し合った後、1人が俺たちに背を向けて、無線か携帯電話か何かでどこかと話し始めた。残る1人は腰に手を当てて仁王立ちした。


 「逃げるなよ」


 どっちかと言えば、奴は猫を見ていた。だから俺は返事をしなかった。ガリ勉も黙っていた。

 俺たちはあんまり待たされなかった。


 背中を向けていた奴が、また仁王立ちの奴とこそこそ話した。話し合いが終わると、2人はいきなり黄門を捕まえようとした。


 「この野郎っ」


 黄門は逃げて行った。見知らぬ人間が、急に迫ったら猫も驚いて逃げるに決まっていた。

 猫は屋敷の陰から顔だけ覗かせて様子を窺っていた。警備員2人は俺たちそっちのけで、黄門に向かって抜き足差し足で進んだ。2人が行き着く前に、猫は逃げた。警備員も俺たちの視界から消えた。

 逃げるなら今のうちであった。


 「逃げる?」

 「黄門が気になるな。まめちゃんだけ逃げれば?」


 ガリ勉はのうのうと言った。俺はむっとした。


 「俺だけ卑怯者になれってのかよ」

 「そんなんじゃないよ」


 言っているうちに、黄門が走って来てガリ勉と俺の間で止まった。隠れたつもりらしかった。

 ガリ勉は鞄を俺に預けて、ゆっくりと腰を屈めると、そうっと黄門を抱き上げた。片手で上手いこと撫でると、黄門が喉を鳴らした。

 やや間を置いて、警備員2人が姿を現した。草の切れ端やクモの巣を制服につけ、片方は息を切らしていた。ガリ勉の腕に黄門を見つけて、目を剥いた。


 「その猫を渡すんだ」


 まるで俺たちが猫を盗んだみたいな言い方をした。俺だったら言い返すところだ。

 ガリ勉は素直に黄門を差し出した。警備員も腕を伸ばした。

 ところが、黄門は爪を立てて抵抗した。ぶにいぶにいと、この世のものとも思えない声でわめき、しまいに警備員の手に噛み付いた。


 「いてえっ」


 反射的に殴ろうとした警備員の手から、黄門はガリ勉に救い出された。やりとりを見守っていたもう1人が言った。


 「とりあえず、猫を持って一緒に来てもらいましょうか」


 俺たちは警備員に従った。

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