最高の生き様のための人生を
幼い頃は、ヒーローや偉人に憧れる人間なんて、周りを見れば、そこら中にいた。
なのに、大きくなるにつれ、その数は減っていった。
皆、歳を重ねていくと、その手の“憧れ”からは卒業していくものらしい。
どうしてそんな“もったいない”ことをするんだろうと、幼心に不思議だった。
フィクションがフィクションに過ぎないこと、伝記や歴史モノがあくまで“過去”の物語だということは、大きくなれば嫌でも分かる。
現実の“悪の秘密組織”は、特撮ドラマのように分かりやすい暴力で街を襲ったりはしない。
外国のどこかに潜んで、電話やメッセージで詐欺や強盗の“指示を出すだけ”だ。
実行犯も、怪人ではない。利用されやすい“ただの人”だ。
戦って倒せばそれで良いなんて、単純明快なものじゃない。
戦国武将や幕末の志士とは、そもそも“生きる時代”が違う。
天下統一や日本の夜明け――そんな壮大な野望や理想は、この時代では抱けない。
たぶん形でしか憧れて来なかった人間は、ほとんどがそこで諦めてしまうんだろう。
ヒーローや偉人たちと、同じ形をなぞれない――それに気づいた瞬間に、夢をリタイアしてしまうんだろう。
物事を“うわべ”でしか見ない人間は、そうやって簡単に“大事なもの”を投げ捨てる。
だが、俺は知っていた。
夢を失くさずに済む方法。
憧れを棄てなくても良い理由を。
たとえ“形”は違っていても、“その奥にあるもの”が同じなら良いんだ。
細かな枝葉が違っても、根っこの部分が同じなら、それで良いんだ。
俺は、見た目や形で憧れを抱いたわけじゃない。
その“生き様”に惚れたから、憧れたんだ。
そして、形の無い“生き様”なら、オーバーテクノロジーや異能が無くても、たとえ生きる時代が違っていても、真似できる。
――その理想さえ、棄てずにいれば。
だから俺は未だに、憧れることを止めていない。
ヒーローじみた生き様は、物語を彩る上では魅力的だ。
だが、現実では意外と歓迎されない。
他の人がやらないことを率先してやっても、間違ったものに勇気を出して反抗しても、周りはそれをヒーローとは見なさない。
ただ、異物を見るような目で、冷やかに無視をする。
あるいは“出る杭”と見なして叩いてくる。
俺がそれを最初に知ったのは、小学生の時だった。
小学校高学年のある学期、クラスでいじめがあった。
ターゲットにされたのは、時々一緒に遊んでいた“友達”だった。
俺の目指す生き様において、「友達は絶対に裏切らない」「何があっても助ける」ものだった。
だから当然のように、いじめた相手に立ち向かった。
怯えるばかりで何も言わない“友達”の代わりに、正面切って相手と口論した。
不思議と、怖いとは思わなかった。
むしろ“友達のために戦っている”という意識が、気分を昂揚させていた。
他のクラスメイトたちの前で、“いじめ加害者”の言い訳にもならない言い分をことごとく論破すれば、相手はもう何も言えず、その後はすっかりおとなしくなった。
スッキリして、満足して、もう後は、何もかも上手く行くと思った。
なのに……なぜか、俺に対するクラスの空気感が、前とは微妙に変化していた。
俺と他の人間との間に、視えない線が引かれているような……妙な居心地の悪さを感じた。
――簡単に言えば、俺はクラスで“浮いてしまった”のだ。
そして俺の助けた“友達”も、その視えない線の向こう側で、微妙に俺と距離を置いた。
小学生の頃の俺は、特撮モノやアニメの価値観を、ばかみたいに素直に信じていた。
友情は絶対のもので、「離れていても、ずっと仲間」――それが当たり前に通用すると思っていた。
だが、俺の助けた“友達”は、クラスが別になると連絡も来なくなり、気づけば縁が切れていた。
ずっと続く友情だと思っていたのは、俺だけ。
きっと相手にとっての俺は“クラスが一緒の間だけの、その場限りの遊び相手”だったのだろう。
物語の中には当たり前にある熱い関係性や理想は、現実では“当たり前”じゃない。
そんな熱い何かを現実に求めても、周りはとっくに冷めている。
俺は、その温度差に気づけていなかった。
俺は“それほどの仲でもない、ただのクラスメイト”のために、求められてもいないのにしゃしゃり出て来た“おせっかい”だったのだろうか。
皆が触れずにいたハレモノに、無遠慮に手を突っ込む“空気の読めない奴”だったのだろうか。
――当時はそんな風に、モヤモヤ悩んだものだった。
だが、成長した今なら、あの頃俺が浮いてしまった理由にも、何となく察しがつく。
幼い頃は誰もが無邪気に持っていられた正義感を、皆、大人になるにつれ、少しずつ手放していく。
そんな中、未だに堂々と正義を語る人間は、ある種の人間からしたら、さぞ鼻につくのだろう。
自分は正しいと、迷いの無い目で立つ人間は、存在自体が疎ましく思われるのだろう。
成長していくと、嫌でも気づく。
正しいことをしたとしても、それが報われるとは限らない。
白い目で見る人間は、必ずいる。
……こんな目に囲まれていたら、なおさら皆、正義感を放り出したくなるわけだ。
あの頃の俺が、感謝や称賛を求めていなかったと言うなら、嘘になる。
半分くらいはきっと、ヒーローになりたいという我欲があったと思う。
だとすれば、報われなくても自業自得だったのかも知れない。
だが俺は、救ったこと自体を悔やんではいない。
周りからどう思われようと、たとえ疎まれようと、結果として、いじめはなくなった。
それは“友達”でもない“ただのクラスメイト”だったのかも知れない。
俺が浮かずに済む、もっと良いやり方があったのかも知れない。
だけど、行動したこと自体を後悔してはいない。
行動しなかった場合の、“友達”を見捨てた罪悪感や、後味の悪さは、俺の中にはカケラも無い。
たぶん、それだけでも、生き様としては充分だろう。
今なら、そう納得できる。
人生というヤツは、無目的に生きるには長過ぎる。
人はきっと“やるべきこと”をやっているだけでは、人生に飽きてしまう。生きる意味を見失う。
だから、空しさに生を放棄したくなるその前に、人生の方向性を考えておくべきなのだろう。
現実的な職業や成功を夢見ても、叶うかどうかは実力と、自分ではどうにもできない“運”次第だ。
時代が変われば、憧れていた仕事や地位自体、この世から消えてしまうこともある。
それまでに積み上げた努力が、最新技術の台頭で、水泡のように弾けて消えることだってある。
技術も流行も、成功の秘訣すら、刻一刻と移り変わるのが、今のこの時代。
確かなもの、変わらないものなど、ありはしない。
こんな世界で、最後の最後に残る“夢”なんて、きっと生き様くらいしかない。
ブラックな職場は離職できても、嫌な人間関係からは脱け出せても、自分自身からは絶対に逃げられない。
一生涯、ずっとついて回る。
自分の嫌いな自分で生き続けるのは、逃げ場の無い奈落を彷徨い続けるようなものだ。
だから、自分の好きな自分、自分の誇れる生き様を目指すことは、普通に“コスパ最強”だと思うのだ。
むしろ、それを考えずに生きるなんて、普通に“リスク回避”に失敗している気がする。
自分の嫌いな自分のままで、精神を病まずにいられるほど、人生は簡単じゃない。
とは言え、自分の好きな自分になること自体、そもそも結構な高難易度だ。
俺も、もう幾度、みっともない空回りをして来たか知れない。
俺が正しいと思ったことが、周囲に受け入れられるわけじゃない。
俺が正しいと思うことが、いつでも正しいわけじゃない。
間違えて、恥をかいて、居たたまれなくなることもある。
だけど俺は、自分に絶望したことはない。
きっと俺の中に、数多のヒーローや偉人たちの“先例”があったからだ。
ヒーローの誰もが、最後まで勝ち続けられるわけじゃない。
クライマックスの前に、一度手ひどい敗北を味わうこともある。
メインでないヒーローに至っては、非業の死を遂げてしまうことさえある。
偉業を成し遂げた歴史上の人物だって、いつでも順風満帆な人生を送ったわけじゃない。
認められずに苦しんだり、失敗続きで悩んだりしたこともある。
歴史に名は残せても、最期は悲劇の結末を辿った人物もいる。
成功や勝利ばかりの物語では、ハラハラのスリルやドラマチックさが無い。
幸運続きの恵まれ過ぎた人生には、共感ができない。
ヒーローや偉人たちを襲う試練や苦悩に、俺は何度も心揺さぶられてきた。
悲劇に終わる人生も、その生き様に感銘を受けてきた。
だから、もはや脳髄に刷り込まれているのだ。
人生には、苦難がつきものだと。
あのヒーローや、あの偉人でさえ味わったものを、俺が知らずに終わるはずなど無い、と。
人間には“自分を見つめる自分”――“メタ認知”と呼ばれるものがあるらしい。
俺を見つめる高次の“俺”は、人生の試練に苦しむ俺を、どこかワクワクしながら見下ろしている。
まるで、それまでトントン拍子で来たヒーローの、初めて味わう挫折を眺めているように……あるいは、偉人伝の主人公が、人生の前半で悩み苦しむエピソードを読んでいる時のように――「さぁ、この試練をどう乗り越える?」「ここを越えれば、お前はまた一つ上のレベルに成長できるぞ」と、先の展開に思いを馳せながら、見つめている。
我ながら、ヒーローものや偉人伝に毒され過ぎだとは思う。
だが、その憧れが、俺の人生を絶望に染めずにいてくれる。
皆、なぜ、こんなにも役立つ“希望”を、大人になる前に棄ててしまうのだろう。
表面的にしかヒーローや偉人に憧れて来なかった人たちは、本当にもったいなくて、可哀想だ。
今日の俺が乗り越えられない壁でも、明日の俺は軽々と越えているかも知れない。
努力や苦労なんて、そんな“明日の俺”を作るためのものだ。
他人に見せるためのものでも、他人に褒められるためのものでもない。
たとえ、散々やって、それでも乗り越えられなくても、俺は俺の努力や苦労を笑ったりはしない。
報われなくても、必死にやった――生き様とは、そういうものだろう。
究極の自己満足。
たとえ他の誰にも認められなくても、自分が“カッコイイ”と思える自分のために、生きる。
だって、俺の人生は他人のものじゃない。
他人を満足させるために生きているわけじゃない。
だったら、自分を満足させられなくて、何の意味があると言うんだ。
自分を満足させるのは、ある意味、一番難しい。
赤の他人なら嘘や言い訳で誤魔化せても、自分自身は騙せない。
たとえ“自己欺瞞”で自分自身さえ欺こうとしても、心の奥底ではきっと、その矛盾に気づいている。
嘘や妥協や誤魔化し無しに、心の底から自分を納得させられなければ、自分で自分を誇れない。
自分自身に満足できない。
俺は、今日も足掻いている。
この、不確かで、正解が無くて、日々変化していく世界の中で、ただ最高の生き様を求めて生きている。
正しいかどうかも分からないまま、悩んで、必死に、ギリギリで乗り越えていく日々……その積み重ねが、俺の“人生”を紡いでいく。
その一日一日が、俺の物語の一頁一頁に成っていく。
いつか、人生の果ての走馬灯で、俺の物語を振り返った時……そこに居るのが、俺の愛すべき主人公であればいい。
たとえ失敗ばかりの人生で、何ひとつ成し遂げられずに終わったとしても……。
その懸命に生きた人生の軌跡を、心から愛しむことができたなら……きっと俺は「最高の生き様だった」と、自分を褒めてやれるだろう。