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404  作者: 篠田獬
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一日前/−–/五日目

 海へ行こう、と彼女が言い出した時、最初は冗談なのかと思っていた。いつものように周りを、というより私を和ませるための突拍子も無い話をしているのだと、信じきって疑わなかった。

 それから程なく、彼女が実際に訪ねて来た時でさえも、何かのドッキリではないのかと勘ぐっていた。車を借りてきた、と胸を膨らませて得意げに語るの顔を見て、どうやら本気で言っているらしい、とようやく理解した。

 数時間車を走らせ、いくつかの寄り道を経由した末に、名前も知らないような入り組んだ海岸へとたどり着く。現地の人間以外では存在すら知らなそうな場所をどうして彼女が知っているのか、と素朴な疑問を口にした時、彼女は目を細めてただ笑うだけだった。


「ねえ、せっかくだし入らない?見てるだけじゃなくてさ」


「えー、濡れるよ?替えも持ってきてないし」


「良いじゃん、足元まで浸かるくらいなんだから。ほらほら、こっちこっち」


 半ば引き摺るようにして私を車から降ろした彼女は、そのままの勢いで靴も脱がずに海へと入っていく。服の裾が濡れるのも構わず波をかき分けて進むその姿に、気のせいかある種の必死さを垣間見た気がした。


「ねえ、どこまで行くつもり?全身びっしょ濡れになるよ?」


「だいじょーぶだよー、冷たくて気持ちいいよー」


 今しがたの自分の言葉を裏切るように、ざぶざぶと海中に踏み入っていく後ろ姿。さすがに不安になり、止めに入ろうとしたまさにその瞬間、やっとの事で彼女は立ち止まった。

 足元どころか腰の下あたりまで水に浸かった彼女は、今までとの行動とは打って変わって微動だにしない。その佇まい、夕焼けを背にした光景は、一つの完成された美術品のようで。

 どれくらいの間、そうしていただろう。正確にどれだけの時間が経ったのか、確認する術を私は持ち合わせていなかった。

 私にできたことといえば、刻一刻と黒に変わりゆく空模様を眺めることだけ。何か声をかければ、少しでも触れてしまえば、目の前にあるそれが粉々に砕け散ってしまうような気がして。これから先にある事象を多少なりとも予見できていたからこそ、この瞬間を切り取って動かしたくないと切に願った。


「もし、さ。もしだよ?もしもの話なんだけど」


 でも。そんな都合のいい願いなんてもの、叶えられるはずがない。

 切り取ったはずの時間は、出来の悪いパッチワークのようにがたがたに継ぎ接ぎされて。縫い目だらけのぼろぼろの時計は、それでも止まることはなく強情に針を進めていく。


「もし、私がずっとここに居たいって言ったら、付き合ってくれる?」


「……それ、どういう意味?」


 突き進む時計の針を、なんとかして止めようと思っていた。そのはずなのに、からからに乾いた喉から出てきた言葉は、私の意思とは無関係に会話を進めてしまう。


「そのまんまの意味だよ。日が昇っても、もう一回沈んでも、ここでずーっとこうしてるだけ。何も考えなくていいし、何にも煩わされなくていいの。ただここでゆっくり、こうしていたい。私が消えて無くなるまで、ずっと」


「……駄目だよ。もしそんなことになったら、悲しむ人はいっぱいいるんだよ?私だって――」


 消えて無くなる。透き通ったその声が奏でるのは、本来の彼女なら一笑に付すような言葉。あまりにも重さを感じない、透明すぎるその声に、制御の利かなくなった口がたまらず何かを口走った。

 

「ほんと?」


 その時。私の言葉を聞いた彼女の瞳を、私は未来永劫忘れることなどできないだろう。


「もし私がそうなったら――圭は、悲しんでくれる?」


 見開かれたその瞳の中にあったのは、黄昏を今にも覆い尽くさんとする夕闇と同じ。吸い込まれてしまいそうな真っ黒な眼が、さながら金縛りのごとく私の動きを封じ込める。

 瞬きすることなどできるはずもない、窒息しそうなほどに息が苦しい空間の中。寄せては返す波の中に体を預ける彼女は、手招きをするかのようにその腕をゆっくりとこちらに伸ばした。

 このままではダメだと、何かを言わなければならないと、頭ではそう理解しているはずなのに。靄のかかったピントの合わない思考では、その役目を果たすことなどできるはずもない。

 諦めたように微笑むその瞳が、救いを乞うように差し伸ばされた手が。彼女を象るすべてが磁石となって、私の身体を引き寄せる。

 

「    、     」


 最後に彼女が発した言葉は、揺れる波に攫われて消えていく。あるいはその言葉すら処理できないほどに、私の意識が使い物にならなくなっていただけなのかもしれない。

 ゆっくりと、しかし着実に近づく終わりを待つだけの時間。それを断ち切ったのは、遠方から聞こえる甲高いサイレンの音だった。

 それが私たちを探していたものなのか、それとも全く関係のない救急車が発していたものだったのか。今となっては真相は藪の中だ。

 でも、そんなことはどうでもよくて。

 私にとって重要なことはただひとつ――そのサイレンが、私の思考を現実に引き戻したことだけ。


「圭?」


 穏やかな水面も、消えゆく夕陽も、不安げにそう呟く彼女の声も。現実へと呼び戻された私には、その全てが途轍もなく恐ろしかった。愚鈍な体が今更のように、かたかたと小刻みに震えだす。


「……わた、しは」


 もつれて絡まった舌から転がり出したのは、言葉にもならないような掠れた声。いや、そもそもその時の私に、何かを言葉にできるほどにまとまりのある考えができるはずもない。


 気付いた時にはもう、私の足は勝手に動き出していて。

 それがどんな意味を持つことだったのか、それすらもその時の私にとっては理解の埒外だった。

 

 # # #


 怯えきった獣が、本能だけで捕食者から逃げ惑うように。彼女から目を背け、身体を翻して走り出す。


 走って、走って、死に物狂いで走って――


 そこからのことは、よく覚えていない。


 ただひとつ、確かに言えることは。最終的に、私はここに流れ着いたということだ。


 # # #


 最初に目を覚ました時、私はどうにかして自力で家までたどり着いたのだと思った。間取りから何から寸分違わない世界が目の前に広がっていたのだから、そう考えるのも仕方のないことではあるのかもしれない。

 だけど。ほんの数十分もしないうちに、そんな楽観的な思考は綺麗さっぱり消え去っていた。

 どこまでも続く見慣れた世界には、しかし全くと言っていいほど人間の気配が存在せず。それどころか、およそ生き物が存在しているとは思えないほどに、静けさに支配されていた。

 昼日中に囀る鳥の声も、道路を走る車の音も、その全てがこの世界にはない。あるのはこの季節特有のわずかに熱を帯びている風と、それから私という生命のみ。

 もちろん、戸惑いがなかったといえば嘘になる。確認のために外へ出る時にはとんでもない勇気が必要だったし、周囲の探索を進めるほどに自分の予想が当たっていることを認めなければならない、という絶望も相当なものだった。

 でも。そんな感情をひとまとめにして仕舞い込んでしまえる程度には、この世界は穏やかだったのだ。

 あるいは、私は心のどこかで安堵していたのかもしれない。私が犯した罪に対する罰が、この世界という形で下されたという事実に。

 このまま誰に会うこともなく、最後には跡形もなく消えてしまいたい。充電がなくなったゲーム機が唐突にブラックアウトするように、唐突に終わりが訪れてほしい。そう願った。


「あ、どうも。悪いけどキッチン貸してくれない?」


 長い長い一日が、夕陽とともにようやく眠りについた頃。その願いを根底からひっくり返したのは、玄関先に突如として現れた一人の訪問者だった。

 もちろん警戒はした。これが平常な状態であれば、場合によっては即座に通報もしていたかもしれない。こんな時間に、見知らぬ男が一人暮らしの女子の家に訪ねてくるという状況なんて、それだけで犯罪ですと宣言しているようなものだ。

 問題があるとすれば、その時私が置かれていた状況も、そして私自身の精神も、とても平常とは呼べなかったことだろう。

 インターホンのモニタ越しに食材を掲げるその男の姿に、それまで意識の外にあった空腹感が押し寄せてきた。死後の世界か、それに類する別世界だと思っていただけに、ショックにも似たある種の不義理さを感じたことも付け加えておく。

 誰もいない世界に突如現れた、自らを神と名乗る男。文字列だけ見ればおよそ全ての人間が出来の悪いコントだと判断する状況の中、ずけずけと入ってきた自称神様は私に食材を押し付け、我が物顔でテレビのリモコンを探し始めた。

 穏やかに流れていた時間が、唐突にこちらを置き去りにするかのごとき速さで流れ始める。何も分からないままに与えられた食材で料理を作ると、自称神様はうまいうまいと呑気にそれを頬張った。


「うんうん、想像以上に美味しかった。ごちそうさま」


「……はあ。お瑣末様でした」


 自分のことも、この世界のことも、そして私が今置かれているこの状況のことも。間違いなく私より詳しいはずなのに、自称神様はただ箸を動かし、食べ終わったかと思えば未練などないような面持ちで席を立つ。あまりにも不可解な振る舞いに、我慢できずに玄関口で靴を履く自称神様を問い詰めた。


「うーん、そうだなあ。とりあえず、君がここにいることには意味がある、とだけ言っておこうか。あんまり言うとルール違反になっちゃうからね。ま、ここは考え事をするには最適だし、ゆっくり過ごしながら答えを探してみるのもまた一興だよ」


 去り際にそれだけを言い残し、自称神様は夜の闇に消える。

 部屋にひとり取り残された私に、彼を追いかけるほどの気力は残っていなかった。


 # # #


 雨が酷くなってきた。

 昨日の夜中ごろから降り始めた雨は、しとしと、と表現するには些か以上に激しくなりすぎている。私の心を表している、というにはあまりにもベタだけど、雲ひとつない晴天よりはよほどこっちの方が適切だ。

 ベッドの中で目を覚ましたのが9時前、そこからずっとゴロゴロし続けてはや3時間。時計の針はもうとっくにてっぺんを周り、どちらかといえばもう1時に近い。大学生の、それも休日にしか許されないような生活スタイルに我ながら呆れつつ、いい加減に我慢がきかなくなってきた空腹感に負けて身体を起こす。


「……ああ、ご飯」


 立ち上がるだけでそれまで考えていたことを忘れてしまうあたり、今日はずいぶん物忘れが激しい日らしい。あるいは、そのレベルまで頭が働いていない証拠なのか。

 重い身体を引き摺ってキッチンに向かえば、そこには自称神様が買い置きしていたパンの類があった。何を食べるかしばらく考えた末に、思ったより自分のお腹が減っていないことに気づく。物忘れをしていたわけでも頭が働いていないわけでもなく、ただお腹が減っていないだけというのは、オチにしては随分弱い気がしてしまう。


「何をしたいんだっけ」


 空腹感に負けてベッドから立ったはずなのに、蓋を開けてみれば食欲は消え失せていた。ならば私は何をしたかったんだろう、と哲学的な思考を巡らせても、答えとすら呼べないとりとめもない考えしか浮かんでこない。

 あと二日。自称神様が言った言葉が真実であるのなら、私がここにいられる期限はあと1日半しかない。しかない、というと何かこの世界にたいそうな未練があるようだけど、実際にはむしろその逆だ。

 この世界の外に出たくないから、『普通の世界』に戻りたくないから。あくまで消去法で、私はここにいたいと望んでいるだけ。

 私には向き合わなければならないことがある。だから私はこの世界に来た。自称神様にはそう説明されたし、私自身もそれをきちんと理解しているはずだ。ともすればこの世界に来た時点で、何をすべきかは直感的にわかっていた。

 にも関わらず、私はここまでずっと逃げ続けてきた。それはこの奇妙な世界がずっと続くものだと、「逃げ道」がこの先も存在するものだと、そんな可能性にどこかで縋っていたからだろう。

 彼女の前から逃げて、そしてこの場所にたどり着いた。だというのに今度は、その事実からすら目を背けている。


 逃げて。


 逃げて、逃げて、逃げて。


 その果てに、いったい何があるというのだろう?


「…………」


 結局、私はどうしようもなく弱い。彼女のように自ら終わりを選ぶことも、その逆に彼女の存在を消し去ることもできない。宙ぶらりんのまま、決断だけを先送りにし続けている。


「ああ、」


 口を開けば、声にもならない声が知らぬ間に溢れ出した。胸の内で渦巻く昏い感情が、はっきりとした形を持つ前に散り散りになって消えていく。


 ごめんなさい。


 行き場をなくした言葉だけが、喉の奥からせり上がる。

 この言葉に何の価値もないことくらい、他でもない私が一番分かっている。どれだけ言葉を重ねても、どれだけ涙を流しても、そんなものは所詮ただのまやかしだ。自分自身を欺くための醜悪な演技でしかない。

 私にそんな言葉を言う資格なんて、間違ってもあるはずがないのに。


 なのに。どうして、この痛みは消えてくれないんだろうか。


 何度も何度も、神様に許しを請うように。同じ言葉を呪いのように、ただひたすらに叫び続ける。


 雨は、上がらなかった。


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