三日前/四日目
後半は正午にあげるつもりです、よければお付き合いください。
「ねえ、海に行きたくなることってない?」
「……急にどうしたの」
そんな会話を交わしたのは、もうかれこれ三日前のことだったか。大学からの帰り道、そんな風に話を切り出した彼女の顔をよく覚えている。
夕日に照らされて、というにはまだ些か以上に早すぎる時間帯だった。もっとも、ここ最近の日の長さを考えれば、世間一般的に考えて夕方と言って差し支えない時間であったのは事実なのだけど。
「ほんとになんとなくなんだけどね。こうしていろいろ抱えてるとさ、なんかもう嫌になってきちゃって……何もないところからずっと海でも見ていたいな、っていうか。そんな感じ?」
「いや、わかんないけど。そんな感じなの?」
「んー、どうだろう。そんな感じなのかな?分かんないや」
私ってバカだよねえあはは、と笑う彼女の声に、つられてなんとなく声を上げる。我ながら中身のない会話をしていることは自覚していたけど、その時の自分にとって気がかりはもっと別のところにあった。
私と違ってなんでもできる彼女は、当然人間関係も私とは比べられないほど煩雑だ。今回の悩みがそこに起因するものかどうかはわからないけど、少なくとも今まで彼女が私にそんな弱音を吐いたことは一度だってなかった。
入学したての頃から一緒に行動している身としては、曲がりなりにも彼女のことをそれなりにわかっている自負はある。けれどそれはお情けではないのか、彼女は惰性で私と行動を共にしているだけなんじゃないのか、なんて悩んだことも一度や二度ではなかっただけに、このお悩み相談はある意味でとても嬉しいものではあった。
けれど。もし彼女が、そんな相談を私にしなければならないほどに追い詰められているのだとしたら?
どれだけ環境が過酷でも、彼女の周りには常に花が咲いていた。それは彼女が能天気だから、というわけではなく、そう見えるように歯を食いしばって耐えているからだ。
今まで目に見えなかった、見せなかったものを私に見せたことに、一体どんな意味があったのか。その時私の頭をよぎったその考えは、しかし一瞬の名残を残して霧散していた。
楽しい会話、ありきたりな日常。その中の取るに足らない一部分として、この会話は当然のように処理された。十把一絡げに過去というタグを貼られ、記憶という雑多なフォルダに埋もれて見向きもされなくなる。
深い考えもなく行ったその行為が、のちにどれだけ私自身を苦しめることになるのか。今にして思えば、その時の私はあまりにも浅はかだった。
# # #
ショッピングモール内をうろうろと歩き回り、経過した時間はかれこれ3時間。どこを覗いても人影は見当たらず、そのくせ空調も店内放送も完璧だ。子供の頃に一度は思い描いた、逃○中で目にした光景が今現実のものとなっている。
「んー……これかな」
書店で暇を潰せそうな文庫本を見繕い、それと引き換えにレジの小銭受けにお金を置いていく。ものを盗る、という行為がどうしてもできなかった私の苦肉の策がこれだ。消費税もしっかり計算したし、代金は間違っていないはず。たぶん。
フードコート内の適当な席に腰を下ろし、自称神様が買ってきた昼ご飯(惣菜パン)をぱくつきながら文庫本に目を走らせる。最初は週刊誌でも買おうと思っていたけど、紙面は例のJD失踪事件一色だったので買う気が瞬く間に失せてしまった。花の10連休、花のGWだというのに、なぜこんな陰気な事件ばかりを見なければならないのかと気が滅入る。
「……それを言うなら、こんなことしてる私も私なんだけど」
零れ落ちた本音を慌ててかき集め、まるで逃げるかのように蓋をする。冷静に考えればそれこそ誰もいないはずなのに、なぜこんなことをしているのかと自分を問い質したい気分だ。
ゲームセンターから届く無機質な騒音をBGMがわりにしながら、名前も知らない作家の、聞いたことのない代表作に目を通していく。表題に惹かれて買った本だったけど、どうやらその内容は割とシリアスめな作品らしい。
視点のメインとなるのは二人の少女。ごくごく平凡な、在り来たりな日本社会の中に生まれ育った彼女たちは、次第にそれぞれの持つ人間関係や悩みに押しつぶされていく。最後は一方の少女が悩みのあまり自ら命を絶ち、残されたもう片方の少女はその後を追うように――
「――やめよ」
衝撃的な幕引きで終わった本をぱたりと閉じ、何かを振り払うように瞑目する。気まぐれで手に取ったはずの本で、ここまでのダメージを被ることになるとは思わなかった。ピンポイントで私を狙っていると言われても信じられるくらいだ。
内容が内容であるはずなのに、先を読みたくさせるような文章を書くものだから始末に負えない。代表作と呼ばれるのも納得の出来栄えだ。やい作家、お前の名前は覚えたからな。
いい感じに疲れた両眼をぱちぱちと瞬かせ、凝り固まった体を右に左にと動かす。夢中になって読んでいたせいで気づかなかったけど、改めて目を遣れば時計の針はいい感じに進んでいた。ひょっとすると、自宅の前ではもう自称神様が待ちぼうけを食っているかもしれない、と思える程度には。
働きたくないと悲鳴をあげる体に鞭打って、よっこらせ、と腰を上げる。花のJDにあるまじき掛け声だとは思うけど、自称神様曰く枯れかけなんだから別にいいだろう。少なくともこの場所では、誰に聞かれると言うこともない。
迷路といっても過言ではないくらいに入り組んだショッピングモールを抜け、どこへ停めたかいまいち思い出せない駐輪場へと急ぐ。来た時にはあれほど晴れていたのにも関わらず、いざ外に出てみれば霧のような雨が広い駐車場を濡らしていた。すっからかんの駐車場と霧雨の取り合わせ、なかなかどうして不思議な光景だ。
いまいちテンションが上がらないのは、今しがたまで読んでいた本のせいか、それともこの予期せぬ雨のせいか。考えたくもないことにしばらく頭を使った後、どうやらその両方らしい、と結論づける。
もっとも、これから傘もカッパもなしで帰らなければならないのだから、テンションが上がっている方がおかしいと言えるのかもしれない。元から低くなるはずだったものが、小説によって更に底まで落ちきった。それだけのことだ。
散々なことを言っておいてあれだけど、私はこの小説のことは嫌いじゃない。むしろ、主人公二人の最後の決断には尊敬すら覚える、と言ってもいい。
自ら命を絶った彼女も、その後を追ったもう一人の彼女も。そのどちらもが、最後には自分の意思で物語を終わらせたのだ。例えそれが、そのほかの選択肢を全て奪われた末のものであっても、彼女らは自らの意思でエンドマークをつけられる強さがあった。
私には、その強さすらないのだから。
「いや、神様を雨の中待たせるとか、不敬罪ってレベルじゃなくない?もしかしなくても天罰とか下るよ?」
「勝手に押しかけておいて何を言ってるんですか。そんなこと言うくらいだったら来る時間くらい明言してください」
「勝手に、ねえ。その割には、僕が来るのを心待ちにしてたみたいだけど」
「ええ、もちろん待ってましたよ。神様がいないと今日の夕飯のアテがなくなっちゃいますからね」
霧雨の中ダラダラと自転車を漕ぎ、愛しのアパートへと帰宅する。部屋の前には案の定と言うべきか、買い物袋をぶら下げた自称神様がふてくされた顔で突っ立っていた。仮にも神様と名乗るのなら鍵くらい簡単に開けられるはずなのに、それをやらないのはコンプライアンスを遵守しているからか。
「うあー、濡れた濡れた。この部屋ヒーターとかないの?服乾かしたいんだけど」
「五月の頭にもなって、そんなものをまだ出しているわけないじゃないですか。いいからドライヤーでも使ってきてください」
まあ、神様業界にも法律やらなんやらがあるのだろう。適当な疑問を適当に処理して、自称神様を洗面所の方へと送り込む。
受け取った買い物袋の中身を確認するに、どうやら今日の夕飯は餃子らしい。もっとも、どんなものであっても私が作ることに変わりはないんだけど。
「いやいや、今回の餃子は特別製なんだよ。なんたってニラが特盛、1.5倍の大増量だ。いい買い物をしたよ」
「そこは普通肉を増やすところじゃないんですか」
首だけを出して満足げに笑う顔に冷めた視線を送れば、自称神様は肩を竦めて洗面所へと引っ込む。仮にも女子の食卓にニラが特盛とか、この神様には人の心がないんじゃなかろうか。
「そこまで気にすることでもないと思うけどなあ。どうせここには誰もいないわけだし、むしろ出来なかったことをするチャンスなんじゃない?あれ、昨日も似たようなこと言ったような気がするな」
「誰もいないとしても、沽券ってものがあるんです。色々放り出してる神様にはわからないことでしょうけど」
「結構な割合で神をも恐れぬ発言するよね、君。時代が時代なら英雄になってたよ」
「前にも言いましたけど、敬われたいのならそれにふさわしい行動をとってください。無条件で神様を崇められるほど私は信心深くないので」
餃子を一から手作りするのなんて、一体いつ以来になるだろう。そういえば小学生の頃はお母さんと一緒に作ってたなあ、などと考えながら手順を一つ一つこなしていく。
作業の合間に居間の方を見やれば、暇を持て余した自称神様がリモコンをいじくり回していた。どうせテレビをつけても同じニュースしかやっていないのに、なぜわざわざつけるのかと少々声を荒げたくもなる。
「それで?」
「それで、ってなんですか。もっと具体的な質問をしてください」
「やだなあ、わかってるくせに。今日はどうだった、ってことだよ。今日も一日出歩いてたんでしょ?」
「……別に、昨日と変わりませんよ。フードコートでダラダラして終わりです。パンは美味しかったですけど」
なんで知ってるんですか、と聞く気も最早湧いてこないので、諦めておとなしく答えることにする。どうせ聞いても、神様だからさ、なんてはぐらかした返答が返ってくるだけだ。
「ま、自由な世界がいきなり目の前に広がってても、案外やることなんて限られてくるよねえ。にしても駄菓子のひとつも買わないのは、なかなかどうして開き直ってる気がするけど」
「一人暮らしの大学生に金銭的余裕なんて無いんですよ。昼ご飯だけで十分なんですから、それ以上のものを買うのはただの浪費です」
「そお?の割には、小説を衝動買いしてたような気もするけどね。そんなに面白かったの、あれ?」
あくまでなんでもないと言った調子のまま、自称神様は当然のように聞かれたくなかったことを聞いてくる。半ば無意識にその話題を避けていただけに、不意打ちのようなそれに思考が停止してしまった。
「…………それは」
「おっと、申し訳ない。察しが悪いのは僕の癖なんだよね。今のは聞き流してもらって構わないよ」
答えに詰まる私を見るや否や、自称神様はペロリと舌を出して冗談めかす。間違いなく確信犯のくせにそんなことを言ってのけるあたり、本当に性格が悪いと思う。
「……面白かった、と言えば面白かったですよ。ただ、今この状況で進んで読みたいものだったかと聞かれると答えに詰まりますが」
「ほほう。それにしては全部読み切ったみたいだったけど、それは君のポリシー上の問題かな?」
「女性のプライバシーをあれこれ詮索するとか、今すぐ牢屋に突っ込まれても文句は言えませんからね?」
私が答えたのをいいことに、自称神様の質問からは一切の遠慮というものがなくなっていた。そこは建前でも遠慮して然るべきところだろうに、どうしてこう我が意を得たりとばかりに突っ込めるのか。
「神様にプライバシー云々の話を持ち出したら、閻魔様なんて刑期がどれだけあっても足りないよ。そんなことよりほら、僕の質問の答えを聞きたいな」
「閻魔様は裁く側なんだからいいんです。だいたい、私にポリシーなんて高尚なものがあるわけないじゃないですか。最後まで読んだのはあくまで文章が面白かったから、それだけです。次に変なこと聞いたら餃子減らしますからね」
おお怖い、と肩を竦める自称神様の顔は、何故かいつもの数倍腹立たしく感じて。当てつけのように口を噤めば、途端にアパートの一室が広くなったような錯覚に陥った。
同じ内容をひたすらに垂れ流すテレビの音も、この静けさの前では耳を塞ぎたくなるほどの騒音だ。全身を削るかのような堪え難いそれから逃れるように、目の前で油を跳ね飛ばすフライパンへと意識を集中させる。
今更言われなくたって、誰よりも私自身が理解している。それでも向き合うことができない自分が、どうにか逃げて先延ばしにしようとする自分が、何よりも浅ましくて嫌になる。
「こんな世界に来るだけあって、君はなかなかに愉快な性格をしてるよね。最高に人間らしくて、うん、僕は好きだよ」
「いきなりなんの告白ですか。人間の苦しむ姿が好きとか、神様として一番タチ悪いですよ」
「まさか、そんなロキとかニャル様みたいな趣味はないさ。ただ、大前提として僕たち神様は人間のことが大好きだからね。人間が人間らしく悩む姿とか、何よりも素晴らしいじゃないか。そうだろう?」
「雑に同意を求めないでください。私は神でも何でもないんですから」
美味しそうな色になった餃子をフライパンごと机にどでん、と置きながら、吐き捨てるようにそう口にする。吐き捨てる、なんて我ながらとんでもない言い方であることは承知の上だけど、それ以外に適切な表現が見つからないのだから仕方がない。
途切れた会話と止まらない箸、その奇妙な対比に居心地の悪さを感じながらも、どうすることもできないままに時計の針が進んでいく。こんなことになるならお弁当でも買って一人で食べていればよかった、なんてことを考えているうちに、フライパンの中身は着実に空っぽへと近づいていた。
「――ふう。二人でこの量は思ったより多いね。失敗したよ。次はもっときちんと分量を見極めないとだね」
「……次は、って言いますけど。神様はいつまでここに来るつもりですか?」
「おや、不満かな?邪険に扱われて僕は悲しいよ」
パンパンに膨らんだお腹をさすりながらそんなことを言う自称神様に、そういうわけではないですけど、と口ごもりながら返す。この場所、この世界から出るアテもないのに、いかにも目の前のこの神様の方に責任があるかのような口ぶりで話す自分は、きっと卑怯と罵られても仕方がない。
「そこまで気にしなくても、もうすぐで期限は切れるから心配いらないよ。何も神様だって年中無休で働くわけじゃないからね。七日目の日曜日くらい神様も休みたい、聖書にもそう書いてある」
「……え」
「ああ、そういえば言ってなかったね。タイムリミットってわけじゃないし、急かすつもりもないけど、この世界の消費期限はあと二日だ。七日目には君はこの世界を出られるし、帰るアテについてもきちんとつけてある。君がこの世界ですべきことは――ま、これを僕の口から言うのは野暮だよね」
事も無げにそう言い放った自称神様は、ご馳走様、と馬鹿丁寧に手を合わせて立ち上がる。間抜け面でぽかんと口を開けたままの私を置き去りにするようにして、彼はいそいそと帰る準備を始めてしまう。
この不思議な世界が、自称神様との妙ちきりんな共同生活が、いつまでも続くはずがない。ぼんやりとした感覚だとしても、頭ではそう理解していた。けれど、消費期限という無機質極まりない言葉でその感覚をパッケージングされると、途端にその重みは何倍にも膨れ上がる。
「心配しなくても、君ならきっと答えを見つけられるさ。いや、この言い方は正しくないか。きちんと向き合うことができる、といったほうが良いのかもね――それじゃ、また明日。おやすみー」
靴を履く片手間のような自称神様の口ぶりには、感慨も何もあったものではなく。それはひょっとすると、いつまで経ってもクイズが解けない子供のためのヒントのようなものなのかもしれない。
何も言い返せない私に、自称神様は一瞥すらかけないまま。気づけば扉は今日も、鈍い音と共に閉まっていた。