5月2日 若い夫婦の挨拶
果樹園の中で、私はうめいていた。
取っても取ってもキリがない。どんだけ雑草があるのよ。もう大分、腰が痛くなってきた。顔中汗だらけだし、首や腕は絶対日焼けしているだろう。そろそろ休憩しようかな。
「由美子、早くしないと日が暮れる前に終わんなくなるぞ」
「……はーい」
なんでこういうタイミングで言ってくるのだろうか。もしかして大人になったらエスパーになれるのだろうか。……なんてね。
私は首からかけたタオルで汗をぬぐった。もうこの作業着では暑い季節になってきたようだ。風がまだ涼しいだけ良いけど、この風ももう十日もすれば熱風に変わるだろう。そんなことをかっちゃんは偉そうな態度で言っていた。もっともそれを信頼したのは坂じいがそう言ったと口を割らせてからだ。
ちょっと背伸びをしながら見渡すと、うちの果樹園の半分くらいがきれいになっていることが分かった。
あと半分か、半分もあるのか。ちらりと横に置いたどでかいゴミ袋を見た。ぎゅうぎゅうに押し詰められたものが3つもある。つまりこの量をもう一回取らないといけないということだ。
(日曜日にお父さんに捕まったのが運のつきだね)
鼻にたれてきた汗を、無意識に軍手を付けた手で拭いてしまった。鼻に付いた土に、もっとやる気を削がれた。いつになったら終わるのだろう。
その時、家がある方角から声が聞こえた。
「こんにちは!」
あれ?この声は聞いたことが無い。誰だろう?
お父さんもそっちに振り向いていた。向こうの道の方に、男の人とその隣で車いすに座っている女の姿が見えた。
車いすではこちらまで来られないだろうな。多分同じことを考えたであろうお父さんと作業を中止してそちらに向かった。ジーパンにポロシャツ姿での若い男の人と白い縁の広い帽子と水色のワンピースを着た女の人がそこにいた。二人とも肌が白い。それだけでこの島の人間ではないことが分かった。
「道田さんですか?」
「はい。えーと、どちら様ですか?」
「実は今日、隣に引っ越してきました、福山康男と申します。お宅にご挨拶に伺いましたら、こちらにいらっしゃると聞いたので」
「ああ!久しぶりに島に引っ越してくる人がいると聞いていましたが。そうですか、そうですか。私が道田雄大です。こっちが娘の由美子です」
「こんにちは。由美子と言います」
「こんにちは。すみません、作業中に声をかけまして。これからよろしくお願いします」
「こちらこそお願いします」
康男さんやお父さんと一緒に頭を下げる。だけど私はこの女の人が気になってしょうがなかった。
「あの、こちらの方は?」
「おっと!こっちは私の妻の香織です」
「駄目じゃないの。私のことを忘れていたら」
「わるいわるい」
香織さんに叱られて康男さんは宥めるように謝った。香織さんはちょっとすねた様な顔をしたけど、すぐに微笑みに変わった。そしてその表情で私の方を向いた。
「これからよろしくね」
ドキッとしてしまった。近くで見るこの人は本当にテレビの女優さんみたいに綺麗だった。島の人には絶対無いオーラを身にまとっている。そんな気がした。
「よ、よろしくお願いします!」
声が裏返ってしまったことが分かった。マズイなあ。なんだか一目ぼれしてしまったような感じがする。相手、女の人なのに。
「どうしてまた、こんな島に?」
「ご覧のとおり妻は体が弱いのです。私はフリーライターをしていて、時間も場所も融通が利きますので、どうせだったら南の島で静養させようと」
「なるほど……何か困ったことがあれば遠慮なく言ってください。まだ作業がありますので、今日は引っ越しの手伝いは出来ないのですが」
「いえいえ、一人で出来ますから。ではお邪魔しました。失礼します」
「失礼します」
康男さんと香織さんはぺこりと頭を下げると、康男さんが車いすを押しながら帰って行った。白い帽子が眩しかった。
感動に浸っていた私も作業に戻ろうとした時、お父さんがまだあの二人を見ながらボソッとつぶやいた。
「あの人、もう長くないな」
「えっ!」
「病気でもう立てないってことは、よくは分からんけど厳しいだろう。それにちゃんと治すなら医者のいないこの島は選ばない」
私は振り返った。二人はこちらに背中を向けて道を進んでいた。あの時感じた不思議なオーラはそういう儚いものだったかもしれない。あの二人は最期の時を楽しむためにこの島に来たのだろうか。
海から風が吹く。遠くの香織さんの髪がなびき、整える手が見える。白くて小さかった。
その姿を見ていると、あることをふと思いつく。それは突然だった。私の頭の中で暗い考えが段々と大きくなっていく。
だめ、いけない。こんなことを考えてはいけない。初対面でしかもあんなにきれいな人にそんなことは思ってはいけない。それは不謹慎極まりないことだ。
でも誰だって思ってしまうことだろう。隣のお父さんも思っているはずだ。この場に居たら花実だって、お母さんだって、おばあちゃんだって、佳代だって、どこかの国の大統領だって、キリストだって、そう感じてしまうのだ。
少しずつ強くなってきた日差しが照らす砂利道。青い空の下で段々と小さくなっていく二人の姿を見つめながら、私は思う。
ああ、おいしそう
これまでお読みいただき、ありがとうございました。