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9月17日 赤い化け物

 真っ赤だった。本当に真っ赤に燃えていた。


 台所のコンロでも焚き火でも見たことがあるはずの火は、未知の怪物となって私の目の前にいた。今日の夕方まで普段と変わらない表情で建っていた坂じいの家は、夜の闇の中で知らない顔つきになっていた。


 本当に同じ家なの?長袖のジャージをしっかり着ているというのに、体が震えて鳥肌が立った。


 これは、恐怖だ。


 私達と同じようにわらわらと集まってきた野次馬たちを、顔を真っ黒にした谷田さんが押しとどめた。消防団の半被を着ている。


「危ない!下がって!」


 谷田さんに押されるがまま、十人ばかりの集団と一緒に遠く離れた場所まで移動する。歩くたびに膝ががくがくしてしまう。花実とつないだ手が、どちらともなく固く握られた。


「坂じい……」


と、花実がつぶやく。そうだ。あの家に住む坂じいの姿はどこにもないのだ。周りの皆からも坂じいを心配する声が聞こえる。


「ねえ、お姉ちゃん。坂じいはまだ……」


「分からない」


 突き放す私。冷たいかもしれない。でも今はこう言うしかない。考えるのが怖かった。


 移動した先の道の真ん中で炎を見る。小さな消防車しか武器が無い消防団は遠巻きに水をかけるだけで、延焼を防ぐことで手一杯のようだ。あれでは中にいる人を助けることなんか出来っこない。


 でもしょうがないのだろう。相手が悪すぎる。あれは化け物なのだ。しょうがない。


 唇を強く噛む。私は何もできない。自分に言い訳をする以外には、煙が来ないところから遠巻きにそれを眺めること以外には、何もできない。


 ああ、と悲鳴が上がる。坂じいの家が大きな火花を上げて半分崩れたのだ。幼い頃に遊んだ記憶もある広い庭に、屋根の残骸が降り注ぐ光景が目に入ってくる。


 突然、花実が泣き出した。花実も思い出の場所が消えていくことを思ったのだろう。


 でもずるい、こっちだって泣きたいのに。でもそうしたら花実はもっと泣いてしまうだろう。私は花実を抱きしめながら堪えていた。


 周りの大人たちはもう坂じいの生存を諦めているようだった。皆悔しげな表情を浮かべている。ここに坂じいの世話になっていない人はいない。


「あれじゃあ、もう駄目だな」


「くそっ!」


「まったく。もったいないことを……」


 また大きく火花が空に舞った。坂じいの魂も空に昇って行ったのだろうか。


 崩れていく家をじっと見守っていると、急に抱きしめていた花実が私を見上げながら服を引っぱった。


「あれは、なに……」


 花実が指し示す方を見ると、坂じいの家とは正反対の方角で何かぼんやりと赤く光っていた。


「なに、あれ……?」


 周りの数人も気が付いたらしく、同じ方向を見始めた。少しずつ暗闇に慣れてきた眼を凝らすと、その赤いものはどうやら家の形をしている。


「あれって塩屋さんの家じゃあ……」


 その言葉を聞いた途端、頭の中でフラッシュのように塩ばあの顔が浮かんだ。


「おねえちゃん!」


 気が付くと私は花実を放して駆け出していた。私を呼ぶ花実の声を振り切って石ころだらけの道を走る。月が出ていない道は暗い。


 急げ、急げ、急げ。


 まだ間に合うはず。まだ何か出来るはず。


 必死に走るうちに足の親指と人差し指の間がズキズキ痛んできた。そういえばサンダルだった。それが脱げないように指にグッと力を入れる。蹴り飛ばした小石が脛とか足の甲に当たってくる。


 構うものか。


 赤いのが段々と近づいてきた。もうすぐだ。でもかなり走ってきたから、体は悲鳴を上げていた。私は途中で電灯が付いた電信柱に手をついて止まった。ハアハアと息をして体をくの字に曲げる。額から出た汗がぽたりと落ちてジャージに染みた。


 視線を地面からよそに向けた時だった。田んぼを挟んだ向こう側に一人立っていることに気が付いた。こっちを見ている。


「ダレ?」


 私が声をかけようとすると、そのまま塩ばあの家とは逆向きへ走り去ってしまった。男の人のようだった。その視線の不気味さはどこかで感じたことがあった。もしかして……。


 ハッと我に返る。考えにふける時間は無い。私は息も整えぬうちにまた駆け始める。真っ暗な夜をかき分けて、赤いものに近づいて行く。急げ、急げ。


 ――*――


 やっとたどり着いた。まだ燃え始めてから一時間も立っていないはずの塩屋さんの家は、さっきと同じような炎の化け物になってしまっていた。なんで?どうして?


 近くには四人の大人たちがいた。そのうちの三人はあの火の塊に飛び込もうとしている一人を必死になって押しとどめている。


「塩屋さん!ダメだって!」


「行かせてくれ!行かせてくれよ!」


 塩屋のおじさんだ。三人に肩や腕を掴まれたおじさんは必死に叫んでいた。子供が都会に出て行った後、塩ばあと二人暮らしをしている。


 ということは、と私は容易に察しがついてしまった。


 こんなのってないよ、神さま。


 火はすでに全体に回っていた。まだ燃え移っていない庭木の隙間から見える一階の窓から真っ黒な大量の煙が飛び出している。玄関は辛うじて原型を保っているものの、火に阻まれて中の様子はもう見えない。ここに入るのはもうレスキュー隊でも不可能だろうと思う。


「頼むよ……母ちゃんが……母ちゃんが」


 おじさんの叫び声が震えてきた。もう入れないと分かったのだろうか。自分を掴む腕を払おうとする動きが小さくなっていく。

 その時だった。火で覆われていた玄関から真っ赤に燃えた何かが飛び出してきた。玄関前にいた塩屋さんたちは驚き、転びそうになりながら後ろに飛び退いて道を開けた。


 火に包まれたそれはそのまま道の真ん中まで出てくると、よろよろと勢いを失くしてバタンと倒れた。


 私たちは金縛りにあったように動けない。倒れているそれにまだ火は勢いよくついたままだ。


「は、早く消せ!」


 誰かが言ったその言葉でやっと体が反応する。大人四人は自分の上着を脱いで、バタバタと叩くように消そうとしている。私も何かしないと!


(そうだ!畑に使う水道があるはず!)


 燃えている家のおかげで辺りは明るい。私は家の前にある畑に降りると、すぐに水道を見つけ出した。幸いにもバケツがある。一杯に水を汲むと両手で持ち上げて走った。服が濡れるが、気にする余裕はない。


「どいて!」


 必死に上着で消そうとしている大人たちをどかしてその間に割り込む。私はバケツの底を掴んで道に倒れるそれに思いっきり水をかけた。


 まだ小さく点いていた火が音を立てて煙と一緒に消えていく。そうして水浸しになったところに、黒く焼け焦げた服と人の形が現れた。


 煙が完全に消えた頃、塩屋のおじさんが恐る恐る近づいていく。そしてその黒いものをゆっくりと裏返しにした。


 その瞬間、彼は悲鳴のような叫び声を上げる。


「か、かあちゃん!」


 おじさんが急いで抱きかかえた。その顔を背中越しに見ると、確かにあの元気だった塩ばあだ。すぐにバケツを投げ捨てて私たちも駆け寄ってみて状態を見るが、もう息をする音も聞こえない。腕も力なくだらんと下げている。


「かあちゃん!かあちゃん!」


 悲痛に叫ぶおじさんや私たちの呼びかけにも何も反応せず、焦点の合わない目を何もない宙に向けていた。島には医者はいない。もう手遅れだ。


「かあちゃん!かあちゃん!かあちゃん!」


 おじさんの叫び声がむなしく響く。私を含めた他の四人はもう呼びかけを止めていた。何も考えられず、ただ呆然とおじさんの声と火の音を聞いていた。


 私は立ち上がり視線をそこから逸らした。目の前には燃え盛る家。誰かが何も出来ない私を笑っている気がした。熱く感じているはずなのに、首筋に冷たい汗が滴っている。


 空っぽの心に炎が映った。


 ああ、また真っ赤だ。


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