9月19日 不安の中の軟禁
9月19日
「由美子、大丈夫?」
佳代が本気で心配する声はとても新鮮に聞こえた。ベッドに寝転んでいた体を思わず起こしてしまう。こっちもちゃんと答えてあげないと。
「うん、大丈夫……だと思う」
「ニュースで見たよ。由美子の家って犯人の隣じゃん!ビックリしちゃった」
「ずっと家の前に記者がスタンバってる。私もちょっとはインタビュー上手くなったんじゃん?」
「ほほう?じゃあ、学校に来たらしてあげるね。楽しみにしてまーす」
相変わらず佳代は佳代だ。すっかり変わってしまった周りの中で、島の外とはいえ変わらない親友の存在はとても励みになる。
「確かそっちでさ、他にうちの学校に通っているのってもう一人いたよね」
「ああ、かっちゃんでしょ。あいつは力馬鹿だから、別に平気じゃない?」
「……まあ、私も心配してないけどね。ひとかけらも」
ひどーい、と私が応じて笑い合う。これが日常だ。これが普通なんだ。そう思うと、途端に安心できた。
しばらく取り留めのないことを延々話していると、電話越しに予鈴のチャイムが聞こえた。もう昼休みが終わるようだ。
「じゃあね!頑張って!」
「うん」
その言葉を最後に、ぷつっと電話が切れた。部屋の中に楽しかった会話の余韻が残っている。
でもすぐにどうしようもない寂しさを感じてしまう。いつになったら佳代と電話じゃなくてちゃんと会えるのだろうか?私は込み上げてきた感情から逃げるように自分の部屋を出た。
――*――
リビングに行くと、困った表情のお母さんとおばあちゃんがテーブルに坐っていた。その目線の先には膝を抱えて小さくなっている花実がいる。ソファーの片隅で固まっているその姿は、普段の無駄に活発な様子とはかけ離れていた。身を守っているというよりもそのまま消えてしまおうとしているようだ。
「無理もないわね。あの子、福山さんに可愛がられていたから」
と、お母さんが隣で呟く。そのお母さんもまだ福山『さん』と言っていることからして、未だに彼が犯人だと信じきれていないのだろう。防犯のため、外に出ることも窓を開けることすら許されない家族の空気はこの上なく重い。
気晴らしにテレビをつけようと、テーブルに坐ってリモコンを掴んだ。ところがおばあちゃんがそのリモコンをスッと取り上げてしまう。そして私に向かってゆっくりと首を振る。
『テレビはどうせこのニュース一色だろう。今日はテレビをつけないように』
というお父さんとの約束がパッと頭に浮かんだ。さっきの昼食の時に言われたばかりだ。それなのに習慣で無意識にテレビをつけようとしてしまった。いけない、いけない。
午後からまた果樹園で一人、作業をしているお父さんがどうしても心配だ。
「お父さん、大丈夫かな?」
「さすがに白昼堂々と襲って来るとは思わないけどねえ。それに今、警察が大勢で山狩りしています。すぐに捕まりますよ」
おばあちゃんはズズッとお茶を啜った。堂々たる態度。貫録さえ感じる。昔、村長だったおじいちゃんを支えていただけはあった。さすがだなあ。
そうこうしているうちにもう一時だ。後ろの台所の方でがさごそと音がしていることに気が付いた。振り向くと母がいつの間にかエプロンを脱いで買い物かごを用意している。
「今日、週に一回の船が来るでしょ。山岡さんたちと一緒に買い物しに行くことになっているのよ。留守番を頼むわね」
ビックリして母の腕をつかんでしまう。お母さんは勿論だけど、私さえ驚いてしまったとっさの行動だった。でもダメ、それはダメ。
「危ないよ!お母さん!」
「だから一緒に行くのよ。捕まるまで何も食べないわけにはいかないわ」
「でも……」
「お米も無くなりそうなの。交番の藤田さんが先導してくれるから、ね?」
肩を掴んで説得してくる母。私は小さく頷いた。まるで小さい子供のようだ。
かごを掴んで玄関に向かう母は、まだずっと丸くなっている花実に声をかけた。
「花実。お母さん、行ってくるわね」
「…………」
何も話さない花実。お母さんは小さくため息をつき、そのまま姿を消した。
玄関のドアが閉まる音を聞きながら、私は無性にイライラした。平然と日常を演じているおばあちゃんやお母さんの強さと比べてしまったのかもしれない。
現実を受け入れない花実にカッとなって怒鳴った。
「いい加減にしな!」
膝を抱える腕をこじ開けて、涙でグシャグシャになった顔を見つけた。そして私を睨む目に負けないように強く言い放つ。
「もう福山さんは変わっちゃたの!昔の優しい福山さんはどこにもいない!香織さんが亡くなっておかしくなったのよ!分かる?だから殺人犯相手にうじうじしないでよ!」
「ほっといてよ!だまってて!」
「はなみ!」
その時、パンッと手を鳴らす音が響いた。私と花実は音の出どころの方に顔を向けると、おばあちゃんが険しい表情で立っていた。
「やめなさい!」
「…………はい」
「…………」
おばあちゃんに叱られて、風船が萎むようにひゅうと力が抜けてしまった。花実を掴んでいた手も放してしまう。私は間違っていないはずだ。なんで私まで…。
ふてくされた気持ちをぶつける対象も無く、ソファーのかたっぽに私もごろんと体を預けた。その反対側で花実もまた膝を抱えてしまった。
そんな私たちの様子から一旦収まったことを確認したおばあちゃんは、そのままふらっと台所に向かった。
しばらくしておばあちゃんが台所から出てきた。もやもやっとした気持ちをため込んでソファーに坐っていた私たちの前のテーブルにがちゃっと何かを置いた。見ると、ふりかけがかかったご飯と急須が乗ったお盆があった。おばあちゃんはテーブルに坐ると、急須を持ってやさしく回す。そしてご飯にゆっくりと注いだ。
「人はねえ、イライラしている時は大抵お腹が減っているのだよ。おじいちゃんもよく人と喧嘩していたけど、これを食べたらすんなり収まったものですよ」
さあ、とおばあちゃんがお茶碗を渡してくる。ほんのりとお茶の香りを放つそれを貰った。手に感じる温かさは熱すぎず、ちょうど良い感じだった。隣の花実も受け取っている。なんだか表情が和らいだようだ。
箸を手に取り、ずるずると米粒を口に運ぶ。うまい。梅干しの風味が口一杯に広がって、それから胃の中にしっかり溜まっていくのが分かる。
食べ終わる頃には気持ちはすっかり落ち着いていた。さっきまでなんであんなに怒っていたのか分からないくらいだ。その時、花実の口からげぷっと音がした。私は思わず笑ってしまい、「こら」と窘めるおばあちゃんの顔もほころんでいた。花実も笑顔を取り戻している。ありがとう、おばあちゃん。
穏やかな空気の中で、ふと窓の外を見た。二日前まで学校の窓から見ていたのと同じ色をした空があった。雲一つ無い良い天気だというのに、不思議と切なく感じる。
(あ~あ、早く終わんないかな)
と心の底からそう思った私は、お茶碗をお盆に戻した。




