9月25日 バンザイ
狂気は、個人においては特殊だが、集団においては普遍である
フリードリヒ・W・ニーチェ
9月25日
犯人が逮捕されたという一報が、テレビを見ていたお母さんから伝えられた。昨日の大雨とは打って変わって、カラッと晴れた昼過ぎのことだった。
嬉しさと驚きが入り混じった声に呼ばれた私と妹は急いでリビングに向かい、お母さんやおばあちゃんとテレビを観る。興奮気味のアナウンサーが確かにそのニュースを伝えていた。
体の中で晴れやかな気持ちが湧き上がってくる。私と妹の花実は抱き合い、お母さんとおばあちゃんは笑顔で目に涙を浮かべた。
テレビの中ではこの島の港から中継する記者のおじさんが焦りながら原稿を読んでいる。しかしカメラの焦点はその記者ではなく、島の小高い山に向けられていた。そこが逮捕された場所らしい。
犯人はやはり山の中に潜んでいたという。うちの裏山かもね、という花実の言葉に、お母さんはわざとらしく眉をひそめて「あら、やだ」と口元を押さえた。でも二人とも本気で言っていない。冗談を言って笑い合える光景も久しぶりだ。
それから少しして、同じニュースを報告している島のアナウンスが聞こえてきた。キンキンとした機械音が何度も何度も「逮捕」という単語を発する。
すぐに農作業をしていたお父さんが家に飛び帰ってきた。どたばたと靴を抜いて、顔中に汗をかいたお父さんがリビングに現れる。
「本当か!?」
肩で息をしているお父さんの慌てぶりに、笑い声があがる。お母さんは作業着の泥も落とさずに入ってきたことに怒っていたけど。お父さんはそんなことも気にせずにテレビの画面に張り付いて、そして大きくガッツポーズをした。いつもブスッとした表情をしているお父さんの満面の笑みは本当に珍しかった。
ともかくこれで終わったのだ。お父さんの興奮した気持ちに引きずられて、家族全員で輪になってバンザイをする。
「ばんざーい!ばんざーい!ばんざーい!」
ふうと息をつく音が誰かの口から洩れた。みんな、これでもかというぐらい安堵の表情を浮かべる。今朝までの一週間ずっと、農作業に出かけるお父さんを今生の別れのように送り出して家の中で貝のように引きこもって暗い表情を浮かべていたことが、まるで嘘のように感じた。
「よかったねえ、花ちゃん。また学校に行けるよ」
おばあちゃんの言葉に花実は大きく頷く。そうだ、私も明日から学校に行けるのだ。ここから船で40分かけて通っていた私の母校。今まで辟易と通っていたあの高校をこれほど愛おしく感じたことがあっただろうか。
今は日常に戻れることが何よりうれしい。
「これで坂本さんと塩屋さんも報われますね、お父さん」
「ああ。明日、お寺さんに行こうか。由美子、花実、お前たちも学校が終わったら行けよ」
「ええ~!明日は久しぶりに友達と遊びたいな」
「私も」
と、妹の言葉に同調する。親友の佳代と一週間も会っていなかったのは本当に寂しかった。会ったら思いっきりおしゃべりがしたい。花実も友達とそうしたいのだろう。
しかめ面のお父さんに対して、おばあちゃんが口を入れる。
「雄大さん、今日行ったらどうですか?まだ日も高いことですし」
「……まあ、確かにそうですね」
と、相変わらずおばあちゃんに頭が上がらないお父さんは、そそくさと作業着を着替えに行った。やったね、と手を叩きあった花実と私も、部屋着を着替えに二階の自室へ行くよう促された。
階段を上る間も、ずっと犯人逮捕のニュースを流し続けるテレビの音が聞こえた。まだ誰か見ているのだろう。昨日まで見たくなかったテレビの音は、なんだか優しくなったようだった。
部屋に入って洋服タンスを開けると、その近くの壁に貼ってある写真に自然と目が行ってしまった。うちの果樹園で満面の笑みを浮かべてピースをする私と花実、そして私たちに合わせて小さくピースをして微笑んでいる香織さん。この写真を撮ってくれたのは香織さんの夫であり、この事件の犯人の福山康男だ。
天国にいる香織さんはこの事件をどう思っているのだろう?
写真には黄色いTシャツを着た香織さんが車いすに座っている。康男さんは確か、ブランド物のポロシャツを着ていたなあ。香織さんも綺麗な服を着ていて、ちょっとうらやましく感じたことを覚えている。
そういえば今、犯人は一体どんな姿になっているのか。山の中に一週間もいたのだからかなり変わったに違いない。髪はぐちゃぐちゃ。髭もぼうぼう。丸い眼鏡もひん曲がって、まるで猿人のようになっているのかな。
いや、山に入っていなかったとしても変わっていて欲しい。少なくともあのおかしくなる前の優しい表情、眼鏡をかけた温厚そうな姿、私たちと親しくしていた頃の顔つきとは異なっていてほしかった。変だろうか。
私はこれからお寺に行くことを考えて、なるべく大人し目に見える服の袖に腕を通す。そして久々に靴下を履きながら、ふと今更ながらにこう考えた。
どうして、あの人は狂ってしまったのか、と。
――*――
家から十五分ほど歩いた山の中、この島を守る寺がある。何百年も前に中国の偉いお坊さんがこの島に流れ着いて建てた有り難いお寺である、というのは小学校や中学校でそれこそ何百回と聞かされた話だった。島の人を埋葬している所だが、人が集まるのはお祭りや葬式、そして年末年始だけ。普段は年老いた住職さんとその奥さんしかいない閑散とした所だ。
でも今日は十数人の島民が、まだ速報が出て1時間も経っていないのにもう集まっていた。そこにいた村役場に勤める錦戸さんがさっそくお父さんに挨拶を交わしてくる。
「道田さん、おめでとうございます」
「いやあ、おめでとうございます」
なんだかお正月みたいだね、と花実と一緒にくすくす笑った。でもそれ以外にいう言葉が無いのだろう。この場にいるみんなは口々に「おめでとう」と言い合った。
「逮捕されても死んだ人は帰ってこないのに」
隣にいたおばあちゃんがボソッとつぶやく。それに対してお母さんが、バツが悪そうに頷いた。でも今日は喜んでいいのではないか。いや、絶対喜ぶべきだ。
「おめでとうございます」
「あっ……塩屋さん」
お寺の前で喜ぶ人たちの中に塩屋のおじさんがいた。普段は漁師の中でもうるさ型なのに、今は存在自体が薄れたかのようで、目に見えてやつれていた。とても気の毒だった。
このお寺にはこの事件でまだ葬式をしていない坂じいと塩ばあの遺骨が保管されている。おじさんは事件が終わったことを塩ばあに報告しに来たのだろう。
「これで、これでやっと母の葬式を挙げられます」
「……これで本当に終わったのですね」
か細い声で話すおじさんにお母さんが声をかけると、見る見るうちにその目から涙があふれてくる。家を燃やされて自分のお母さんを殺された苦しみは、おじさんにしか分からない。私たちはかける言葉が無かった。
おじさんの様子にお寺の境内は静まった。先ほどまでの喜びに満ちた空気は消えて、おじさんの嗚咽の音が充満している。いたたまれなくなった私は、そそくさと集団を抜けてさい銭箱に辿りつき、百円玉をカランと入れた。そして心の底から祈った。
(坂じい、塩ばあ、安らかにお眠りください。そしてもう二度と、こんなことは起きませんように)
以前、ある新人賞に投稿した小説です。アルファポリスの第2回ホラー・ミステリー小説大賞に応募するために、投稿いたしました。
不快になる描写があるかもしれません。それでも良ければ、どうぞお付き合いください。