潜る月
目の前でヒラヒラと手を振られて、宮村は不機嫌そうにMIYAMURA製のヘッドホンを取った。デジタル時計を見ると、まだ中休みの最中だ。耳の奥には今まで聞いていたボーカロイドの高い声がまだ残っている。いつの間にか女子のクラスメイトに周りを囲まれていて、その内の一人が彼女に話しかけた。
「いま、今まで見たことないものについて話してるんだけど。宮ちゃんは何かない?」
「私?何でも見たことあるわ。今の時代、インターネットで何でも見られるじゃない。私は昨日、電気針を発射する銃で凶悪犯を捕まえる、おまわりさんの姿を目撃したわ。動画投稿サイトで」
「そういうのじゃなくって……。そういう画面を通さず、見たことないもの。ちなみに私は幽霊!」
分かるー。怖―い。と、周りがはしゃぐ中で宮村は言った。
「私、月を見たことない」
そう言うと、皆は押し黙った。
「宮ちゃん、それは……」
「おうち、お金持ちだもんね」
話をまた始めたかと思えば、今度はひそひそ話を宮村に聞こえるように話している。宮村はヘッドホンをまた装着し、五年一組の教室を出ると、次の授業先であるパソコン室に向かった。
チャイムが鳴って先生が入ってくると、本時の授業内容がそれぞれのパソコンに表示された。
「皆さん、もうすぐゴールデンウィークですね。夜になればスタンドライトを点けながら勉強をすることもあるでしょう。でも、ベッドに入ってライトの消し忘れに気づいたら、消しに行くのが面倒ですよね。そこで今日はプログラムを組んで、スタンドライトのオンオフをスマートホンから遠隔操作できるようにしてみましょう。はい、では二人組を作って」
女子はみんな女子同士で組んでしまったので、余ってしまった宮村は先生から男子と組むように指示があった。それが鈴木拓也だった。
「こんな学校の授業が何の役に立つかっつーんだよ。立って消せ、電気くらい」
背もたれに全体重を預けて、坊主頭を手でなぞる。
「そうかしら。こういう技術は意外なところで役に立つものよ」
「俺は銛のつきかたとか木登りが速くなる方法とかを教えて欲しいぜ」
宮村はプログラムを高速で組み上げていく。
「それこそ、何の役に立つのか分からないわ」
「は?役立つし。役立たねえとか意味分かんねえし」
「銛のつきかたや木登りが何の役に立つのよ」
「魚、取れる、美味い。木、登る、眺め良い」
「へえ。あ、そ」
「俺んちの近くの川でとれる魚、めっちゃ美味いんだぜ。でも、釣りじゃ量がとれなくてさ、泳ぎは得意だから潜った方が速いと思うんだよ」
鈴木は宮村に笑いかけた。
「そう」
「なんだよ、無愛想な奴だな」
出来あがったプログラムが入った基盤を渡すと、鈴木ははんだごてでスタンドライトに取りつけ始めた。宮村はプログラムをスマートホンとパソコンで同期させる。
「どうせ、遊んでばかりで勉強とかもしてないんでしょ?」
「俺の、家での様子を見たことあんのかよ」
「ない……けど、どうせそうでしょ」
「決めつけんなよ。あ、そうだ。今度一緒に川行くか?川辺で焚き火して魚食ったら、流石のお前も笑っちゃうだろうよ」
「美味しい魚くらい、家でも食べられるわ」
「そういうんじゃないんだよな。ま、月も見たことない無愛想お嬢様には分かんないか」
スタンドライトの電球が丸く光り、宮村の顔を照らしだした。
「……聞いてたの?さっきの」
「だってさあ、おかしくね?月を見たことねえって。夜に外出ればいいだけじゃん」
「それが出来ないから見られないの!」
宮村の指がスマートホンに触れると、スタンドライトは光を失った。先生に大きな声を注意され、ひそひそ声で話す。
「家に閉じ込められるの。夜になったら。私のことを面倒見てくれる黒石さんが、家中の窓を閉め切って、雨も降らないのに雨戸を全部締め切るの」
「どうして」
「黒石さんはいたずらっぽく、スナイパーに狙われないためっていうけど。多分、本当はマスコミに撮られたり、一般人に盗撮されてSNSとかに晒されないため」
「はあ?そのくらい、いいじゃねえか。俺だったら、テレビに出られてラッキーって思うぜ」
「あなたはそうでしょうけど、今どき何がパパの会社を壊すか分からないわ。娘にどんな寝巻を着せてるんだ!ってことでも悪口書けるでしょうね」
宮村が顔を伏せると、長い黒髪が顔に影を落とす。スマートホンを適当に触って、スタンドライトを点けたり消したりした。
「お、おい。泣くなよ」
「泣いてないわ。なんだか、あなたがちょっと羨ましくなっただけ」
「お、俺は金持ちのお前の方が羨ましいけどな」
「いいわよ、慰めなんて。下手ね」
チャイムが鳴った。先生は次の準備をするためにさっさと教室を出て、児童達も後に続く。宮村と鈴木がパソコン室に残された。鈴木は、ポケットにハンカチを入れてこなかったことを少し後悔して、言った。
「……俺が見せてやろうか?月」
「鈴木君が?無理よ」
「大丈夫だって。一晩誘拐してやるよ、お前を。でさ、一緒に見ようぜ」
「……そう、それは楽しみね」
「あ、不可能だって思っただろ。絶対やってやんよ」
鈴木は歯を見せて笑いかけ、宮村はやっとの思いで愛想笑いを返せた。
下校の時間になって校門を出ると、黒塗りの車が止まっていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
スーツ姿に髪を後ろでまとめた、キャリアウーマンのような風采の女性が後部座席のドアを開けて待っている。宮村はその女性にランドセルを渡すとさっさと乗りこみ、車を出させた。
「お迎えありがとう。黒石」
対面する黒石はランドセルを大事そうに抱えている。
「いかがでしたか、本日の学校は」
「遠隔操作式のスタンドライトを作ったわ。鈴木君にあげたけど」
「それはそれは。さぞ退屈だったことでございましょう。宮村エレクトロニクスの社長の娘にとっては」
「まあね」
宮村はスマートホンを取り出して画像表示アプリを開いた。今日集めた画像のファイルを開くと、沢山の月の画像が画面に映し出される。赤い月、青い月。大きい月、小さい月。どれもが綺麗であったけれど、そのどれも目にしたことがなかった。
「ねえ、黒石」
「なんでしょう、お嬢様」
「パパは今日帰ってくるのかしら」
「……いえ、残念ながら。まだアメリカからお戻りになっておりません」
「そう……」
「しかし、お食事の時間は合わせられるようで、タブレット越しに一緒にお食事をおとりになるそうですよ」
……父の本物を見たのはいつが最後だろう。映像のパパはいつも笑っているけど、画面の外ではどんな顔をしているのかしら。日記アプリに手で呟いているうち、車は家に辿り着いた。雨戸は既に閉まっている。外の池の周囲を走ってガレージの中まで車は乗り入れると、重たいシャッターが閉まる。宮村はガレージ内玄関から家の中へと入った。
「では、夕食は十九時に」
「分かったわ」
「どちらでお召し上がりになりますか?」
「そうね……今日は屋内池の傍にするわ」
「承知致しました」
ノートパソコンを自室から持ちこんで、屋内池の傍のベンチで宿題をする。学校で指定された、授業を補完する動画を見終わって、簡単なレポートを先生のメールアドレス宛てに送ると、小さな石橋の上から池の中を覗き込む。手入れのされた、苔一つない池の底にはライトが埋まっていて水面を照らしている。魚は一匹も泳いでいなかった。
「お嬢様、夕食のご用意が出来ました」
対面に立てかけられた、タブレットの液晶画面は父の笑いの表情を映しだしていた。
「そろそろお休みになられては?」
黒石は薔薇を花瓶に挿しながら言う。
「そんな時間かしら」
時計を見ると二十二時を過ぎたばかりだった。屋内池のベンチで電子書籍を読む手を止めて、屋内池の循環する水をぼんやりと眺める。
「ねえ、その薔薇って本物?」
「いえ、造花ですが」
「黒石は本物の薔薇って見たことあるの?」
「それはもちろん……いや、意外とないですね」
黒石は薔薇の茎を、花瓶の低さと調和するように切った。
「ねえ、私、外に出たいわ」
「駄目ですよ。スナイパーに狙われたらどうするんです」
「窓から外を眺めるだけでもいいの」
「お嬢様」
たしなめるように静かに言った黒石に、宮村はもう少しだけ起きておくことで反抗することにした。
黒石が立ち去って、もう一度屋内池の底を眺める。水底の丸い光が顔を照らす。水面に映る、不機嫌そうな自分の顔に溜息を盛大について言った。
「ああ、本物の月を見てみたいわ」
あれはなんだろうか。魚が一匹もいないはずの屋内池に黒い影が潜んでいる。水底のライトを次々に遮って、静かに水中をこちらに潜水してきていた。影の長さから察すると、宮村自身と同じくらいの全長だろうか。息継ぎもせずに近づいてくる影に、脊椎が震える。
「まさか、あれがスナイパー?」
宮村は、こんなに近づいてくるスナイパーはさぞかし腕が悪いんだろうと思いつつ、スマートホンを握りしめ、まさに一一〇を掛けようとした時だった。
潜る水から坊主頭が浮き上がり、男が水中眼鏡をとって頭に付けた。
「お迎えに上がりました、不機嫌お嬢様。さあ、月を見に参りましょう」
「鈴木君!」
鈴木は池の縁に足をかけて陸に上がり、深く息を吸った。
「ファンタジーを演出するのも肉体労働だぜ」
「どうやって、ここに?」
「え?外の池とつながってたけど」
「そんな……」
この家の防犯はどうなってるのかしらと思いつつ、宮村はタオルを渡す。
「さんきゅ」
鈴木は海パン以外の部位を拭き始めた。
「本当に来てくれたんだ」
「おう。もちろんだぜ」
「ちょっと、白馬の王子様みたいで嬉しいかも」
「本当は海パンの小学生だけどな。……じゃ、約束通り、お前を誘拐するぜ」
親指を挙げて格好をつける鈴木に宮村は尋ねた。
「で、どうやって出ていくの?」
「え、玄関からお邪魔しましたって」
「はあ?馬鹿じゃないの?」
「馬鹿ってなんだよ、馬鹿って言う方が馬鹿なんだよ」
鈴木の投げたタオルが宮村の顔に直撃し、それを払うと声高に言った。
「見つかるわよ!」
「見つからないようにお前がナビゲートしろよ。お前の家だろ!」
「誘拐される人が、犯人の脱出をナビゲートするなんて聞いたことないわ!」
「じゃあ、お前が最初だ。良かったな!」
「しっ!静かに!」
「なんだよ」
複数人の足音がひたひたと、段々大きくなってきているのが聞こえた。ざわめきだって向かってくる。
「まずいわ。誰か来る」
「え、もしかしてもう見つかった?宮村、どうしよう」
「ああもう」
宮村はベンチに駆け寄ると、ノートパソコンを開いた。
「何してんだよ、こんな時に。パソコンじゃ助からねえぞ!」
「黙ってて!あんな授業でも役に立つことがあるのよ」
キーボードの上を宮村の手が滑る。出来たプログラムをインターネットに潜らせた。
「お嬢様!ご無事ですか!」
黒石は半裸の男と、不敵に見つめる主人の顔をはっきりと見た。
「ごめんなさい。黒石」
宮村がエンターキーを打つと、どこかで何かの電源が脱力するような音がして、全ての光源が無くなった。近くで沢山のお手伝いさんの悲鳴が聞こえる。
「お嬢様と男を追え!」
「何も見えません!」
宮村はスマートホンの画面の明かりを最小限に設定すると、鈴木を仄暗く照らして腕を引っ張る。
「こっちよ。裏庭から外に出ましょう」
「分かった」
鈴木がそう言うと、宮村の体を抱っこで抱える。
「わっ何?」
「これではぐれないだろ。ナビゲートしてくれ」
「うん。いいわ」
「これが本当のお嬢様抱っこ、つってな」
「馬鹿を言ってる場合じゃないわ」
宮村は進行方向の床を照らし、鈴木は思いきり走った。いくつもの扉をくぐりぬけている間も宮村を呼ぶ声が聞こえる。
「お嬢様!どこですか!」
「返事をしてくださーい!」
「あっちだ!走れー!」
声のする方向がバラバラになり、暗闇でぐるっと回りこまれているような錯覚に陥る。しかし、屋敷が全て雨戸で塞がれているのが幸いして、追手は視界を確保できないままだった。
「あの扉を抜ければ裏庭よ!」
「やったぜ!宮村。最高だ!もうすぐ月を見せてやるからよ!」
「楽しみだわ!」
勢いよく開いた裏庭の、芝は夜露に濡れていた。空は雲一つない快晴であったが、月は家に隠れて見えない。塀のすぐ外にある街灯の明かりを背に、スーツを着たキャリアウーマン風の人物が立っていた。髪は背中でたなびいている。鈴木は宮村を下ろした。
「どこにお出かけですか?お嬢様」
「黒石!」
「お家の中に入りましょう」
「嫌よ!」
「おい、いいじゃねえか。ちょっと散歩に行くくらい」
「それこそ駄目に決まってるでしょう。補導されたらどうするんです!」
「あと一時間なら、大丈夫だわ。お願い。見逃して!」
「半裸の男と二人で深夜徘徊など、補導される時間じゃなくても問題です!」
「なあ、ちょっとだけだからよ!」
鈴木が近づくと、黒石は何かを構えた。
「お、おいあれ銃じゃないか?」
「あれは……テーザー銃だわ。MIYAMURA製の電気針銃の試作品」
「いいのかよ、あれ!」
「ガスガンを発展させてるから、違法じゃないけど脱法ね」
黒石はテーザー銃の照準を鈴木に合わせ、にじり寄る。
「二人とも、両手を頭の後ろに当てて、地面に伏せてください」
「嫌よ!鈴木君。私の後ろに隠れて」
「でも!」
「黒石は私を撃てないはず。早く!」
「すまん!」
宮村は鈴木の前に出て、両手を広げて立ち塞がった。
「人質を盾にするとは、卑怯な誘拐犯ですね」
「なんだと!」
「鈴木君!挑発に乗らないで!」
「何故、私の主人を守りたい思いはお嬢様に届かないのでしょう」
「ごめんなさい、黒石」
更に、一歩にじり寄る。
「本当は昼間もお守りしたいから、私立の学校に通わせになった方がいいと宮村様にご忠告申し上げましたのに。せめて夜は守らせて頂けませんか?」
「お気づかいありがとう。でも、嫌よ」
「何故です?」
「月が見たいからよ!」
宮村と鈴木は一歩退く。
「月?そんなもの、スマートホンで見ればいいじゃありませんか。赤い月、青い月。大きい月、小さい月。肉眼で見るよりも画像の方が綺麗ですよ?」
もう駄目だ。宮村はそう思った。確かに今まではそれで満足してきたじゃないか。何を今さら躍起になっているんだ。頭の中の知識は全て液晶画面を通して仕入れてきて、それでいい成績を取って、良い学校にいける。大人になるまでの間に、一度は何となく月も見れるかもしれない。……それでいいや。
「そういうんじゃないだろ!」
「鈴木君!」
「なんか、そういうんじゃねえんだよ。そうじゃなくてさ、本物が見たいんだよ、俺らは!汚くてもさ、子供騙しなんかじゃない、すげえ物を見たいんだよ!この目で!切り身じゃない、ひれのついた本物の魚が泳いでいるところとか、鳥がそれを捕まえようと飛んでるところとかをそういうのを見て、凄いなって笑いたいんだよ」
「必要を感じませんね」
「おい、大人ってのは、子供のそういうときの笑顔を奪うのが仕事なのかよ!クソ野郎!」
「口を慎みなさい!」
黒石が引き金に手を掛けた瞬間、視界がぶわぁっと明るくなった。電気が復旧し、暗闇に慣れた目が眩む。
「おい宮村、こっちだ!」
鈴木が手を引いて走る。
「待て!」
明るくなって、人の気配が活発になったことが感じられる。じきに裏庭に沢山の人が集まるだろう。走った先にはケヤキの木が立っていて、塀に隣接していた。
「この木を登って塀を乗り越えられそうだ」
鈴木はするすると素早く木を登っていく。
「宮村も登ってこいよ!」
「え、でも登れない……」
「は?……おいおい、だから木登りの授業が必要だっただろ?」
鈴木が枝にぶら下がって足を伸ばし、宮村はそれを掴んで登り始める。
「おい、早くしろ!」
「分かってるわよ!」
なんとか登って、三メートルの塀に足を掛けたとき、息も切らさず黒石が追いついた。変わらず、テーザー銃を構えている。宮村は思わず鈴木に抱きつく。
「降りなさい!今すぐ」
「ここまできて、嫌に決まってるだろ。おばさん!俺達は月を見に行くんだ!」
一呼吸置いて、バチンという鳥肌の立つ嫌な音が闇夜にこだました。見事、鈴木の頭に当たって、塀の向こうへと落ちていく。抱きついた宮村と一緒に。
「お嬢様!」
黒石が叫んだ時にはもう遅く、姿は見えなくなってしまった。すぐさま塀の向こうで鈍い音がした。
「鈴木君!」
宮村の下敷きになった鈴木は目を閉じ、呼吸が荒い。
「大丈夫?鈴木君。お願い、目を開けて!」
渾身の懇願が功を奏したのか呼吸は深く整い、ゆっくりと目を開けた。
「はあはあ。親父のゴーグルが守ってくれたぜ」
頭を見ると、頭に付けた水中眼鏡に小さな針が刺さっていた。宮村は胸を撫で下ろして脱力する。鈴木は親指を立てた。
「やったな」
「うん!」
「追いつかれないうちに、早く行こうぜ!」
鈴木は宮村の手を握る。そうして手を引かれ、誘われるがままについて行った。
鈴木が案内したのは宮村家からすぐ近い、川を渡る石橋の上であった。家と家の重なりが無くなって、宮村は初めて月を見た。遠くにあるはずの月は、思っていたよりも明るく大きく、スマートホンの液晶画面で見ていたよりもずっと雄大に感じた。
実体験の感動が体の内側を駆け巡る。さざめくような血の流れが、体中の鳥肌を生み出して、自分が今、現実を生きているんだと実感させた。可笑しくないのに笑いが段々こみ上げてくる。瞬きで、一瞬でも月を見ている視界を遮られるのが苦痛だ。
「これが、本物なのね」
「そうだよ」
瞬きをやめて、乾いた宮村の目から一筋涙がこぼれた。
「お、おい。泣くなよ。うつるだろ」
「泣いてないわ。笑ってるの」
このままずっと、こうしていたい。そう願っていたけれど、なんだか月の様子がおかしかった。純粋な白さを湛える月が赤みを増し、次第に陰っていく。
「え、何。何なの?何で暗くなっていくの?」
「月食だ……」
鈴木は茫然と答えた。
二十分と経たないうちに、二人を照らしていた月は地球の影に潜り、赤黒く消えていった。
「……まさか、月を見たいとお願いして誘拐されたのに、皆既月食を見せられるとはね」
「すまん」
「どうしてくれるのよ!」
「踊ろう」
「は?」
「月が出るように、お願いする踊り。この間、釣りの帰りに親父が教えてくれたんだ」
「ちょ、ちょっと!」
鈴木が強引に宮村の手を引っ張ると両手を組み、ジャンプをしたり、体を揺すって荒々しく回った。
黒石が二人の元に辿り着いたのはそれから十分後のことである。探し回って息を切らした先に見たものは、皆既月食に向かって楽しそうに舞い踊る二人の小学生の姿だった。折角の皆既月食なのに月よ出ろと舞い続ける二人に思わず笑ってしまった。
黒石はこっそり写真を撮ると、アメリカの宮村の父にメールを送る。すぐさま返ってきたメールの文言は娘を夜に外出させたことに対するお叱りの言葉だったが、添付された写真のファイルを開けると、満面の笑みを浮かべる宮村の父の姿がスマートホンの液晶画面に表示された。