92 対面2
目を瞑り、耳を塞ぎ、口を覆っても
僕は逃げられないのか
僕の影から
「手を引くって? 意味が解らないな」
梟はふっと眉尻を上げ、取り出した煙草に火を点けた。
「おや、言わないとお解りになりませんか? そこまで気の廻らない愚鈍な方とは思われませんが」
「俺の事を買い被り過ぎじゃないのか?」
梟は肩を揺すって含み笑う。
「まさか! カレッジ寮に移籍の話まであった優秀なあなたの事です。見くびりはしませんよ」
銀狐はひょいと首を竦め、にっと笑みを返す。
「ちょっと待って。それは僕の話なの? 手を引くってどういう事?」
僕は動揺してドキドキと高まる鼓動に負けないように、早口で二人の顔を見比べながら訊ねた。
「手を切るって約束しただろう?」
「約束? きみが勝手に言っただけじゃないか!」
僕は口の中でもごもごと反論するしかない。
あんなの約束なんて言えるものか! 脅しじゃないか!
「それに、あの時一緒だったのは彼じゃないもの」
「解っているよ」
銀狐の金色の瞳が鈍く光り、微かに歪められた口元から吐息が漏れる。
「僕は彼の保護者から彼の事を頼まれているんです。彼にこれ以上不埒な関係を強要するのは、終わりにしていただきたい」
保護者……?
「きみにはきみの事を真剣に想ってくれる大切な人がいるだろう?」
念を押すように僕に告げた、銀狐の目元が優しく緩んだ。
梟は表情を変えないまま、煙草をゆっくりと吸っている。
「少し席を外してくれないか? こいつと二人だけで話したい」
すっと伏せていた瞼を持ち上げ告げられた願いに、銀狐は軽く頷いて立ち上がり、店の奥の席に場所を移した。
その彼の背中を目で追いながら、梟はくっと笑った。
「お前もとんでもない奴を連れて来たな。あいつに聴いてもしやと思ったが、取り越し苦労で終わってくれなかったな」
「とんでもない奴……?」
「言ったろう? ボビーにヤード、スコットランド・ヤードの事さ。あいつの家系は警察畑なのさ。あいつもやたら正義感が強くて面倒見がいいから、ついたあだ名が警察官だよ」
警察官の家系……。
「親がヤード勤めって訳でもないんだがな。確かあいつの親父は、重大不正捜査局の偉いさんだったはずだ」
「それで……?」
鳥の巣頭は僕の事を、彼に話したのだろうか?
すーと血の気が引いていく。梟は小刻みに震える僕の手を握って小声で訊ねた。
「バレたのか?」
「身体の痕を見られた。それから、お酒を飲んだのかって」
「あれは?」
僕は何度も首を横に振った。壊れた人形のように。
「俺がお前を送って行けば良かったな」
「え?」
僕を宿舎まで送ってくれたのは、梟じゃなかったの?
すっかり怖気づいてしまった僕の頭を、梟はにっと笑ってくしゃりと撫でた。
「そう心配するな。あいつが言っているのはあれのことじゃない。後の話は俺がつけるから、呼んで来てくれ。お前は向こうでお茶でも飲んでいろ」
僕は納得仕切れないまま立ち上がり、のろのろと銀狐の待つテーブルへ向かった。
薄暗い奥の席から眺める窓際に座る二人は、終始和やかに歓談しているようにしか見えない。仲の良い先輩、後輩同士のように……。
席を立った梟が僕のところへ来て顔を寄せ、
「また連絡する」
と、にっと笑い、ぽん、と僕の頭を撫でて行った。
梟が店を出た後、銀狐はカウンターに寄ると、新しく注文をし直してから僕のテーブルにやって来た。
「さあ、どうぞ」
銀狐は僕に紅茶をくれ、皿の上に幾つも載ったベーグルサンドをテーブルの真ん中に置いた。
僕はちっともお腹は空いていなかったけれど、勧められたものを断ると彼が気を悪くするかと思い、その中の一つを手に取り一口千切り、口に入れた。
「幾らだった? 払うよ」
食べてから気が付いて彼にそう訊ねると、銀狐は首を横に振った。
「彼のおごり。僕が賄賂ですかって、冗談で訊いたら僕にじゃなくて、きみにって。食事する予定だったからって」
僕たちは黙々とベーグルサンドを頬張り、お茶を飲んだ。彼は、コーヒーを。
「きみはいつもコーヒーなんだね」
何気なく訊ねると、彼は唇の先をちょっと持ち上げて微笑んだ。
「うちの銀ボタンくん、コーヒーを淹れるのがとても上手くてね。それで僕も好きになったんだ」
突然大鴉の話題を出され、僕は戸惑って目を伏せた。
「きみは紅茶が好きだね」
視線を上げると、銀狐は僕に話し掛けたというよりも、じっと物思いに耽っているような、そんな遠い目をしてどこという訳でもなく、店内を眺めていた。
「彼、やはり一筋縄ではいかない人だね」
僕を一瞥し、ため息を漏らす。
「きみ、セディがきみの為に幾ら使っていたか解っているの? きみは金銭的に困窮している訳でもないし、特に贅沢が好きと言う訳でもないだろ。きみのその様子じゃ、きみはそのお金を受け取ってはいないみたいだ」
代わりにジョイントを貰っていた……、なんて言える訳がない。
「どうなの? セディが彼に支払ったのは、ラグビー部がきみに対してした事の口止め料兼慰謝料だって言われた。でも当人のきみは、そのお金を受け取っていないんだろう?」
畳み掛けるように言い、金の瞳が獲物を狙う狐のように僕を見つめる。
「子爵さまは、幾ら払っていたの?」
「七万ポンド」
余りの金額に僕は目を剥いた。
「有り得ないよ、そんな大金……」
「全くだね」
銀狐は吐き捨てるように呟いた。
「『子爵さま』か……。きみは一度もセディを名前で呼ばなかったそうだね」
どこか責めるようなその口調に、僕は目を伏せ俯いた。皿の上の食べ掛けのベーグルが惨めな僕を嘲笑う。
「きみって本当に解らない子だよ」
銀狐は顔をしかめて大きくため息をついた。
スコットランド・ヤード… ロンドン警視庁。ボビーは警察官を意味するスラング。




