87 浴室で1
僕の知らない僕を
きみは知っているから
きみの知らないきみを
僕は見つけ出す
案の定、僕は翌朝起き上がれなかった。日曜日で良かった。講義を休まないですむ。もっとも、今日中に回復出来ればの話だが……。
頭も、身体もどんよりと重かった。久しぶりのジョイントだったからだろうか? いやによく効いたもの。それとも、何か混ぜてあったのかもしれない。
朝食を食べに食堂へ下りて行かなかった僕を心配して、銀狐が食事を運んで来てくれた。脚が悪いのに一階の食堂まで往復させて、なんだか申し訳なかった。
「ありがとう。ごめんね、手間をかけさせてしまって」
「そう思うのなら残さずに全部食べることだね」
銀狐は、さらりと銀の髪を掻き上げて言った。
僕はどうにか上半身を起こし、ベッドヘッドに凭れてサイドボードに置かれたトレイからティーカップを持ち上げ口に運んだ。
「きみ、結構図太いのかな? それとも昨夜のこと、覚えていないの?」
開け放った窓の傍に椅子を置き、腰掛けていた銀狐が唐突に訊ねた。
「昨夜? 僕、何かしたのかな?」
僕は未だにぼんやりとした頭の中を覗き込むように顔をしかめた。蛇の家に行って、それから、ジョイントを吸って、それから……。ここに戻って来た記憶すらないのだ。
銀狐は、僕を見据えてくすくすと笑った。
「なるほどねぇ。きみを送って来た人、彼がきみの先輩だね? 僕も覚えがあったよ。生徒会役員だった人だ」
「あ、うん」
「きみのこと、心配していらしたよ。だから僕が、きみが寝付くまで傍についていたんだ」
「そうだったの……。ありがとう」
微笑んでお礼を言うと、彼はまたくすくすと可笑しそうに笑った。
吹き込んで来た風が、彼の銀の髪を掻き散らす。銀狐はその風に頬を晒すように向け、嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり、気持ちいいな」
彼が、そのまま風に乗って飛びたがっているように思えて、僕は急に不安に駆られた。
「窓を閉めてくれる? 寒いんだ」
銀狐はちらっと僕を見て、黙って窓を閉めた。
僕は顔を伏せて、黙々と朝食のトーストを食べる事に専念した。
大鴉が木から飛び立つ処を見るのは好きなのに……。
だって、銀狐には羽がない。
大鴉と同じ黒のローブを着ていた時だって、彼のローブが羽のように翻ることはなかったもの。
僕が食べている間中、彼はガラス越しの空を眺めていた。
「きみ、甘ったるい匂いがする、何の匂いなの?」
僕が食べ終わったのを見計らって、銀狐は僕に視線を戻した。少し、不愉快そうに。
「この匂い、何だったかな。覚えがあるんだけど……」
ジョイントの匂い……。
僅かに眉をひそめる彼の表情に、僕は凍り付いた。背中を、つーと冷や汗が流れる。
「コロン、先輩のコロンだ。家に遊びに行ったから」
ますます不愉快そうに銀狐の眉根が寄った。
「へぇー……。シャワー、浴びて来た方がいいんじゃないの? かなり甘い匂いが染み付いているよ」
と、言われても、立ち上がるのも辛いのだ。こうして、上半身を起こしていることさえも……。
でも、銀狐の「覚えがある」というその言葉が気に掛かった。
子爵さまや、ボート部にいた生徒会メンバー、梟の引き合わせてくれた、その他の生徒会役員の顔が脳裏を駆け巡る。銀狐にこの匂いとジョイントを結びつけて、気付かれるのが怖かった。
僕は引き攣った顔に無理に笑みを作って頷いた。
浴室まで、壁を伝うようにして歯を食い縛って歩いていった。銀狐には、僕を助けて支えてくれることは無理だって解っていたから。でも彼は、何度も立ちくらみを起こし、立ち止まって顔をしかめる僕の傍についていてくれた。
休日の昼近くとあって、運良く個室のバスタブが空いていた。銀狐が湯を張ってくれた。
ゆらゆらと漂い、薄らと白く拡散されていく湯気に、安堵の吐息が漏れる。半分ほどお湯が溜まったところで、ここに来るまでに随分と張り詰めていた僕は、ほっとして服を脱ぎ捨て、バスタブに滑り込んだ。銀狐が、戸口に凭れたまま僕を見ていたことも忘れて……。
「きみの先輩って、随分と情熱的なんだね」
ふっと顔を上げると、銀狐が僕を見て冷ややかな笑みを浮かべていた。
「え?」
「それとも、お相手は一人じゃないのかな?」
言われて初めて、この身体に残る沢山の痕に意識が向いた。
「きみも、僕の身体に痕を残してみたいの? 構わないよ、きみなら」
パシャリ、とお湯を撥ね、僕は、にっこりと銀狐に手を差し伸べた。彼は何故だか驚いた様子で、あの金色の目を見開いて僕を凝視していた。




