85 夏期スクール
月光の照らす
白い道
澱んだ水面に
白い未知
退屈で緩慢な日々が過ぎ、僕はオックスフォードへ移った。宿舎まで母が送ってくれた。車の中で、母はずっと鳥の巣頭の事ばかり喋っていた。
あの錆色の唐変木が、あなたの息子なら良かったのにね!
僕は愛想笑いを浮かべ、適当に相槌を打っていた。下手な事を言って黙り込まれるのも、泣かれるのも、どちらも鬱陶しかったから。
宿舎で割り当てられた部屋へ向かうと、僕の部屋の前で銀狐が待っていた。彼は、年代物の宿舎の白い漆喰壁に挟まれた、重厚な雰囲気のあるドアに凭れていた。
ざわざわと、多くの生徒が自分の部屋を探して行き交っている飴色の廊下で、そこに立っているのは彼だと一目で判った。際立って上品で、年齢に見合わない静謐な雰囲気を持つ彼は、この古めかしく威厳のある建物にしっとりと馴染んで見え、母もそんな彼を驚いたように見つめていた。
銀狐は、あの張り付いたような笑みを浮かべて、僕の母に至極丁寧な挨拶をした。鳥の巣頭の友人で生徒会副総監の肩書きまで持つ彼は、すっかり母のお気に召したらしい。そうそう、おまけに彼は、怪我が原因の入院で余儀なく降ろされたとは言え、僕には叶わなかった奨学生でもあった。
母が帰った後、彼はあの不愉快な人を馬鹿にしたような笑顔を浮かべて僕を見ると、
「目の覚めるような美人だね、きみの母親。きみは彼女似なんだね」
と、当たり前の事を言った。僕の髪も、瞳の色も、顔の作りもスラブ系の母譲りだ。
「神経が細やかそうなところも良く似ているね」
「そうかな?」
何を以て彼がそう思ったのかは知らないが、その通りだ。母はとても繊細で神経質な人だ。そして僕も、神経質だとよく人に言われる。
僕が気のない返事をしたせいか、銀狐は母の話から離れ、この宿舎の規則の話をし始めた。
「夕食まではまだ時間がある。談話室でお茶でも飲もうか」
僕は移動で疲れているから、と断ろうかと一瞬迷ったけれど、彼のこの金色に光る有無を言わせない瞳が怖くて、仕方無く彼に従った。
一階の談話室にはセルフサービスの紅茶やコーヒーが常備してあって、利用者は自由に飲むことが出来た。
銀狐が使い方を教えてくれた。ティーバッグの紅茶は、保温ポットのお湯を注いだ後ソーサーで蓋をして蒸らすのがコツらしい。そして二、三回軽く振って取り出す。
彼が入れてくれたお茶は、僕がティーポットで淹れたものより美味しかった。
「きみ、どうしてここのカレッジ・スクールにしたの?」
壁際に沿って置かれた色褪せたソファーに並んで腰掛け、お茶を啜っていた僕に銀狐が訊ねた。彼の口調はいつも揶揄うような、馬鹿にしているような、そんな嘲笑を含んだ声音に聞こえる。
僕はどうしてそんな事を訊かれるのか意味が解らず、
「どうしてって、初めは先輩の紹介で……」
と、言葉を濁す。梟のことを彼に話したくはなかった。銀狐は監督生の多いカレッジ寮の出身だもの。梟がいた頃の生徒会は、監督生ととても仲が悪かったから。
「ケンブリッジのスクールに行けば良かったのに。そうすれば、夏期休暇中でも、うちの銀ボタンくんに逢えたのに」
僕は怪訝な思いで銀狐を見つめた。月光の瞳がにっと嗤う。
「聞いているだろ? うちの……カレッジ寮の国際奨学生のトヅキ、九月から銀ボタン決定だよ」
僕は黙ったまま頷いた。大鴉にケンブリッジ大学から声が掛かっている話は聞いていたし、並み居る奨学生を押し退けての銀ボタン授与に、誰も異議を唱える人はいなかったという噂も知っていた。
だからといって、ケンブリッジにいるというのは結びつかない。彼はこの夏季休暇中、本国に帰省しているものと思っていたのだ。
「知らなかったの? 彼のお兄さん、ケンブリッジの学生だからね。彼も夏中あそこにいる。彼、数学科の研究室に参加しているんだ」
僕は、自分の顔がみるみる赤くなるのを止める事が出来なかった。
どうして彼は、こんなふうに大鴉のことを僕に教えてくれるのだろう?
「僕は、彼と面識があるわけじゃないし、関係あり、ません」
声が震えた。自分で「関係ない」と言葉にした時、ズキリと胸が痛んだ。
「ふーん、そうなの?」
また、面白がっているように口角を上げる。
「僕の誤解? それなら失礼。そうは見えなかったものだから」
くすりと笑うその口元から僕は視線を落とし、手の内のティーカップをじっと見つめた。僕の動揺を映し揺れる金色の水面さえ、彼の瞳の色に見える。僕はもう飲む気すら失せて、ティーカップをローテーブルに置いた。
それから銀狐は鳥の巣頭の事や、生徒会の事を当たり障りのない範囲で訊ねた。だが僕の頭の中は、さっき彼が教えてくれた大鴉の情報でいっぱいだ。動揺の方が大きかったとは言え、僕の知らない彼の事を知れた事で、心の底に嬉しさがじんわりと滲んでいた。
もっと大鴉のことを訊きたかった。でも、面識がない、と言った手前どう切り出していいか判らない。迷いながら、チラリと銀狐を見上げた。きちんと纏められたシルバー・ブロンドに、ふわりと覚えのある爽やかな香りを意識した。
「あの、ヘアワックスをありがとうございました。あれはどこのメーカーのものですか? 探したけれど見つからなくて。あの香りがとても気に入っていて、同じものが欲しいのに」
ふと思い出して訊ねると、銀狐はまたもやくすりと笑った。
「ああ、あれ? 探しても見つからないと思うよ。あのヘアワックス、うちの銀ボタンくんに貰ったんだもの。日本製なんだ。英国じゃ売っていないよ」




