８３ 七月 レセプション１
雨の叩く湖面のように
消えては現れる
記憶の波紋
僕は狐に摘まれた気分だった。
蛇には、生徒会の面々は自意識過剰で我儘、横暴な連中が殆どだから、気を付けるように言われていた。実際アヌビスがそうだったから、僕はその言葉を疑った事はなかった。言われた通り、上級生に声を掛けられた時は蛇の名を出して関わらぬように逃げていた。
梟は、僕が生徒会に入る為の準備として、幾人かの役員に引き合わせた。そして、僕は個人的にそいつらの相手をする事で、アヌビスにされたように、いきなり襲われたりする事を避ける事が出来ていた。そう、思っていた。
休学から戻って来てからは、寮内では鳥の巣頭が神経を尖らせて、僕をそっとして入院の事は尋ねないようにと寮生を言い包めてくれていたし、僕も同じように、校内で出来るだけ他の生徒と関わらないように気を付けていた。だって、どうして休学していたのか、とか、何の病気か、とか、しつこく訊かれたら厄介だったから。
それに、怖かったのもある。僕は三学年で彼らよりも年上なのに、体型では明らかに劣っていたから。だからこそ舐められないようにと、彼らと馴れ合わないできた事も僕に友達が出来なかった理由の一つだ。
結局、僕の憂慮は正しかったと、証明されてしまったけれど……。
それなのに、初めて対等に向き合った生徒会のメンバーは僕の考えていたものとも、僕が今まで出会ってきた生徒会役員の誰とも違っていた。何度かあった役員会で、彼らは優しく僕に対して親切だった。余りにも想像していたのと違う現実に、僕は戸惑うばかりだ。
そして彼らが親切であればあるほど、全てが嘘臭く、僕は彼らが信じられずに、ますます息苦しくなった。
洗面台の鏡に映る自分の姿をじっと眺めていた。どのくらいそうしていたのか、判らない。
青白い肌に大きな瞳の幼い顔がそこにあった。細い首、狭い肩幅、華奢な骨組み……。
幼い頃から人形みたいだとよく言われていた。人形のように愛らしいと。人形のように成長しないままの自分が、鏡に映し出されている。
同い年の連中に比べると、僕だけが成長が止まってしまったように見えた。まるで女の子のような、母に似たこの顔を初めて疎ましいと思った。
鏡の中の僕に、天使くんの面影が被さる。
天使くんも僕と同じ中性的な面差しをしているのに、入学当初の事を思うと、ぐんと背丈が伸びている。彼の時はちゃんと動いている。僕とは違う。
僕だけだ。僕だけが取り残されたまま……。
鏡に両手を伸ばして、見えないように覆った。
視線を落とすと、洗面台に流しっ放しの水にやっと気付いて蛇口を閉めた。
気が重い。そのままベッドに身を投げ出した。
ノックの音から大して間を開けずにドアが開く。鳥の巣頭だ。起き上がるのも億劫だった。
「マシュー、支度は出来た？」
裸のままベッドに寝ている僕を見つけて、鳥の巣頭は顔を赤らめて目を背けた。
今更だろう……。
僕はいらいらと身体を起こした。
「シャツを取って。トラウザーズも」
「マシュー、急がないと。もうそろそろ集合時間だよ」
シャツを差し出したこいつの腕を引っ張って、首筋に腕を廻す。
「まだいいだろ？ レセプションは夕方からじゃないか」
夕刻からの卒業セレモニー、その前に行われる卒業生保護者を招いてのレセプションに、生徒会役員、監督生が接待役として会場を手伝わなければならない。新役員になる僕も、手伝いに駆り出される。生徒会役員としての初仕事だ。
またあの中に入って、僕だけが笑い者にされるんだ。
堪らなく情けない思いが突き上がってくる。僕は鳥の巣頭に廻した腕に力を込め、優しく唇を噛んだ。
「ねぇ、僕、緊張しているんだ……」
そのまま頬に、首筋に唇を滑らせる。こいつの首を覆う高いウイングカラーを指先で捲り、柔らかなうなじを吸い上げた。
「駄目だよ、マシュー！」
真っ赤になった鳥の巣頭は慌てて頭を仰け反らせた。
なんだ、すっかりその気になっていた癖に。
「見えやしないよ」
そんな僕の言葉なんか聞こえないように、こいつは洗面台に駆け寄って鏡を覗き込んでいる。
「マシュー！ 悪ふざけが過ぎるよ！」
僕は聞こえない振りをしてトラウザーズに脚を通す。
「ネクタイ、結んでよ」
素肌にシャツを羽織り、顎を突き出した。鳥の巣頭は諦めたように嘆息し、僕のシャツのボタンを留め、ネクタイを結んだ。
ベッドに腰掛けたまま、僕はもう一度、こいつの首に腕を廻す。
「ねぇ、ヘアワックス持っている？」
口に出してから僕はぷっと吹き出してしまった。こいつが鳥の巣頭だってこと、忘れていた。
どんなヘアワックスを使ったって、どうにもならない髪をしているってことを！
「ごめん。でもどうして？ きみ、いつもそんなもの、使わないだろ？」
訝しげに、そしてちょっと恥ずかしげに顔を伏せたこいつを見上げて、僕はさらりと自分のプラチナ・ブロンドを掻き上げてみせた。
「僕は幼く見えるだろ？ 髪を撫で付けた方がきちんとして見えるかなと、思ってさ」
駐車場に近いクリケット場にテントが張られ、卒業生とその保護者が続々と集まって来ている。卒業生は胸元に華やかなブートニアを飾り、誇らしげな顔で保護者や先生方と談笑している。その間をぬうようにして、僕たち新役員はトレーに載せたシャンパンを配って歩くのだ。結構な重労働だ。
鳥の巣頭は今年度の役員でもあるから、そんな雑用なんかしていられない。生徒会役員として、来賓の方々の相手を務めている。
「きみ、シャンパンを貰えるかな？」
慌てて振り向いた僕は、トレイを落としそうになった。僕の震えがトレイからグラスに伝わり、カチャカチャと音を立てる。
「生徒会役員就任おめでとう」
軽く身を屈めて自らグラスを持ち上げ、子爵さまは優しい声で囁いてくれた。
僕は消え入りそうな声で、「ご卒業、おめでとうございます」とだけ告げた。子爵さまの胸元を飾る白いカトレアのブートニアを見つめたまま、顔を上げることが出来なかった。
僅かに視界に入った子爵さまの口元はにっこりとしていた。そして、直ぐに呼びかけてきた誰かと肩を並べて行ってしまった。
すっと腕が軽くなる。両手で持っていたトレイがない。振り返ると、僕の横に銀狐が立ち、僕の持っていたトレイを片手に載せていた。
「きみ、落としそうだったから」
銀狐はついっと、僕について来るように視線で示して歩き出す。
銀狐は途中ですれ違った役員の一人にトレイを渡し、人混みから離れて木陰に僕を誘った。
樹の幹の裏に椅子が置いてあった。
「座って」
僕に椅子を勧め、自分は地面に腰を下ろし幹に寄り掛かる。僕は上級生を差し置いて椅子に座ることを躊躇して、椅子をずらし、彼の横に腰を下ろした。
「僕は脚が悪くてね。時々休まないと辛いんだ。一人でサボるのも何だからさ、付き合ってよ」
銀狐の声はなんだか優しくて、僕は、彼のことを怖いとは思わなかった。
