78 六月 銀狐
忘れられた記憶の閃光
繰り返される
螺旋の渦
創立祭当日ともなると、寮内も朝から浮き足だっていた。みんなが浮かれて喋っている間、僕だけが、一人黙々とトーストを齧っていた。僕はクリケットの試合には出ないし、芸術系の課外授業も取っていないので特にすることもない。今年は両親も来ないから、ゆっくりとこの祭りを楽しめる。
大鴉がクリケットで滅法強いって噂だったから、一学年の試合を見に行こう。それから、午後から鳥の巣頭がボートの儀式に出るからそれも見に行かなくちゃ。
さっさと食べ終えて食堂を出た。鳥の巣頭はもうとっくに寮を出ているし、一度部屋に戻って時間を潰した。
クリケットの試合は、トーナメント方式だ。大鴉はきっと勝ち進むに決まっているから、余り早くから行くと時間を持て余しそうだもの。かと行って、決勝戦を見越して行っても、きっと場所を取れない。お昼は鳥の巣頭と約束しているし、その前の試合を見れるくらいがちょうどいい。
僕が寮を出た頃には、フェローズの森の手前にある駐車場は既に父兄の車でいっぱいで、クリケット場までの道程は、のんびりと談笑しながら道行く父兄や、楽しげに笑いさんざめく生徒たちで溢れ返っていた。
人混みをぬって到着したクリケット場も同様で、既に始まっている試合を見学している人々で埋め尽くされている。例年よりも多いのではないだろうか。
まだ若干柔らかな、午前の陽差しに照らされ輝く緑のフィールド上の選手を見て、何故だか身体が竦んだ。
「バウンダリーを超えたぞ!」
「ハーフ・センチュリーだ!」
白い彼?
ピッチに立つ、白い彼の記憶が脳裏を掠める。
観客席が沸き立っている。割れるような歓声に取り巻かれ頭が真っ白になる。
じっとりと汗ばんでいる。煩いほどの声援の中に立ち竦んでいるのに、何も聞こえない、ような。
違う……。あれは、大鴉だ……。
視界が急に暗転した。意識が途切れる間際に、誰かに呼ばれた気がした。
瞼を持ち上げた僕の視界に一番に入ってきたのは、生徒会役員の赤いウエストコートだった。鳥の巣頭だと思った。だって、僕の頭は、誰かの膝の上に載っていたのだもの。頭上には白い帆布。硬いベンチに横になっている。医療テントだろうか?
「ああ、気がついた?」
そいつは呑気な声音で僕を見下ろし、微笑んだ。
身体を起こそうとした僕の胸を押さえ、軽く眉をひそめて頭を振る。
「もう少し横になっているといいよ。貧血? びっくりしたよ。きみ、急に倒れるんだもの」
どうしてだか楽しそうに微笑んで、僕を見て目を細めている。
どこかで会った?
「すみません……」
僕は何とか思い出そうとしたが、まだ頭がどくどく脈打っていて上手く働かない。
「おい、病人なら救護班を呼んで来てやろうか?」
インド訛り!
こんなみっともない処を彼に見られるなんて!
僕はこの見知らぬ生徒会役員に擦りつけるようにして顔を隠した。大鴉に、無様に倒れ伏している自分を見られるのが嫌だった。
彼がいる、と言う事は、ここはカレッジ寮のテント?
恥ずかしさで、ますます顔から火を吹きそうだ。
「おやおや、」
膝を借りている奴が、身を揺すって笑っている。
「それより、ガラハット寮のテントに行って、副寮長を呼んで来てくれる? 今ならいるはずだから」
くすくす笑いながら明るい声が告げた。
鳥の巣頭の友人?
僕は廻らない頭を必死で掻き廻し、記憶の中のこの顔を探した。身体を強張らせたままじっとしていると、長い指先が僕の顔に掛かった髪を払うように梳いた。
「彼、もう行ったよ。彼のこと苦手なの? それとも、その反対?」
揶揄うような声が頭上から降ってくる。僕は唇を引き結んだまま、何も答えなかった。
「マシュー!」
鳥の巣頭だ。今ほどこいつの声を聞いて安心した事はなかった。この永遠にも似た牢獄のような時間から逃れ、僕は頭を持ち上げた。直ぐに鳥の巣頭が背中から支えに廻ってくれる。
「ありがとう、副総監」
副総監? あの、フェローズの森で遇った奴の片割れか?
僕は真っ直ぐに背筋を伸ばし、こいつに顔を向けた。
「ありがとうございました」
「噂に違わず、身体が弱いみたいだね。そんなことで、生徒会の激務が務まるのかな?」
にこにことした笑みを張り付かせたまま、観察するような瞳を僕に向ける。狡猾そうな処が蛇に似ている。でも彼ほど冷血そうには見えない。
そう、狐。獲物を見つけて舌なめずりしている狐の目だ。
シルバーブロンドに薄い茶色、というよりも金色の瞳。しなやかな雰囲気も、綺麗な銀狐みたいだ。
僕はもう姿勢を崩し、鳥の巣頭にもたれ掛かりながら、そんな事を考えていた。
「いつもはこんな事はないんだ。部活動もちゃんとこなしているし。ね、マシュー」
そんな事より僕は座るか寝転びたい。頭がクラクラするんだ。
眉を寄せ、縋るように鳥の巣頭を見つめると、こいつは怒ったように唇をへの字に曲げ、僕から視線を逸らした。
「この数日の事なんだよ、体調が優れないのは。本当だよ」
うん、その通り。きみのせいだ。きみが僕を一人ぼっちにするからだよ。
僕は霞む視界に目をぎゅっと瞑った。本当に立っていられなかったのだ。
「彼、辛そうだよ。もう少し休んで行くといいよ」
銀狐の手が僕の両腕を掴んでベンチに座らせてくれた。そして、また僕は前のように横になっていた。彼の膝を借りて。どこか朦朧とした僕の頭上で、鳥の巣頭と銀狐の会話が交わされている。
確かに聞こえているのに、それはどこか、とても遠くのようで、僕はその言葉の意味を捉えることが出来なかった……。




