7 スノードロップ
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている――
そう言ったのは、誰だっけ?
僕はとっくに淵の底。探したって見つかりはしないよ
それからの一週間は目まぐるしく忙しかった。
学年代表の仕事は殆どが雑務だ。朝晩の食事前と就寝時の点呼。連絡事項の伝達。喧嘩の仲裁から紛失物の届出まで――。
とてもじゃないが、馬鹿馬鹿しくてやっていられない。
さすがに鳥の巣頭は手馴れたもので、そんなつまらないゴミ掃除をてきぱきとこなしている。
自分で自分の後始末もできない幼稚な奴らが、僕の名を呼んで部屋のドアを開ける。僕は眉を八の字にして鳥の巣頭を見る。あいつは「まかせて」とそそくさと立ち上がる。
相変わらず、鳥の巣頭は当たり前のようにこの学年を仕切っている。飲酒うんぬんに関しても、庇いこそすれ、誰一人あいつの事を悪く言う奴はいなかった。生徒総監の弟だからやっかまれて陥れられたのだ、と皆口々に憤慨している。
そうなると、棚からぼた餅の代役の僕が良く思われないんじゃないかって?
ところが、僕が新学期初日に倒れたせいで、皆、やたらと僕に同情的。僕が、突然任された学年代表の重責を気に病んで倒れたと思ったらしい。
学年代表になったって、僕は何でも鳥の巣頭に任せていたから、表面上何も変わりはしなかった。だって、面倒臭いだろ。どうでもいいことを、いちいち、いちいち……。
とにかく僕は、学年代表。日頃の雑事は自分の学年の中だけで、報告は三学年の下級組代表にすればいい。寮長に会うこともない。
穏やかに日々は過ぎていった。ただ、寮長と各学年代表が集まり話し合う、月末の寮定期集会だけが気が重かった……。
集会日当日がやって来た。
あの日と同じ土曜の午後だ。場所も同じ。
行きたくない。考えるだけで息が苦しかった。
午前中の課外授業を終え、足取りも重く寮に向かう僕を、灰色のトラウザーズに赤のウエストコートを着た見知らぬ顔が呼び止めた。生徒会役員の上級生だ。
「きみがマシュー・モーガン? 一学年生各寮代表に集合が掛かっているの、聞いていないの? あまりに遅いから迎えに来たんだ」
「え! すみません。知りませんでした」
僕は心の中で舌打ちした。帰ったら鳥の巣頭に文句のひとつも言わなくては。
「前の子と交代したばかりだからかな。手違いがあったんだね、きっと」
その人は、慰めるように優しく笑ってくれた。
連れてこられたのは、川沿いにある林だった。来月実地される奉仕活動の下見と打ち合わせなのだそうだ。また掃除だ。この学校、掃除ばかりだ。僕は心の中で嘆息し、それでも、集会に出られなかった口実ができた事に安堵していた。
吹き上がってくる冷たい川風に首をすくめ、僕は周囲を見廻すこともなく俯いて、この上級生に従っていた。灰色の空は重く辺りは薄暗かった。目にしたところで気が重くなるような、いつもの風景でしかなかったから。
「可愛い顔をして、やってくれるじゃないか」
聞き覚えのある声に、驚いて面を上げた。
鳥の巣頭の兄の、生徒総監が憎々しげな笑みを浮かべて僕を見ていた。僕は意味が解らず、きょとんと立ち尽くしていた。僕を先導していた上級生は、彼の背後の木にもたれてじっと成り行きを見守っている。
「その顔で俺の弟を騙して、ずいぶんお見事に嵌めてくれたものだな、って言ってるんだ」
大きな手で顎をぎりりと掴まれた。首が引きちぎられそうだ。僕は恐怖で目を見開いて、この憎悪に燃える青い双眼を凝視する。
いったい、こいつは、何が言いたいんだ?
ダンッと突き放され、僕は凍てついた土の上に転がっていた。地面には、そこかしこで芽吹き始めたスノードロップが、その白い頭をうなだれている。今の、僕のように――。
生徒総監はポケットに手を突っ込んだまま、蔑むような目つきで僕を見下ろしている。声を上げることすらできなかった。
「見ろ」
はらり、と僕の前に何かが舞った。おずおずとそれを拾い上げる。
僕と、鳥の巣頭の写真だった。あの日の、あの空爆シェルターでの。
裸の僕を抱きしめている鳥の巣頭。あんな薄暗い部屋だったのに、ずいぶん綺麗に写るものだな、と僕は変な事に感心していた。
「俺はあいつが可愛いからな、生徒総監の地位なんて糞くらえだ。こんな事であいつを退学にさせる訳にはいかないからな」
僕はぼんやりと頭を傾げた。何が言いたいのか、まるで判らなかったのだ。
「だがな、俺は良くても周りの連中が納得しないんだよ、こんなやり方で俺が引きずり下ろされたんじゃあな」
ザクリ、と、ゆっくりと大きな歩幅で僕の前に歩みよる。腰を屈めて、憐れみのこもる瞳と、正反対の歪な笑みを浮かべて僕の顔を覗き込む。
「お前のところの寮長、俺の後釜に座った生徒総監さまが、お前を好きにしていいって、おっしゃったんだ」
僕の視界に、そこかしこで、葉が落ち切り、枯れた枝を幾重にも伸ばす樹々の乾いた幹にもたれて、遠巻きに僕たちを眺めている上級生たちの姿が、今更ながらに飛び込んできた。
「でも、お前にだって言い分があるだろ? 俺はこれでも公平な男なんだ。だからな、チャンスをやるよ」
くっくっ、と目の前の男は肩を揺すって笑った。ラグビーで鍛えた、広くがっしりとした体躯を屈めて。
「兎狩りだ。お前が、兎。猟犬は五匹。五分やる。逃げ切れたら、お前の勝ち」
絶望的な想いで酷薄な青い瞳を見つめ返した。形だけは鳥の巣頭によく似た、でも全く違う色を宿したその瞳を――。
「始めるぞ」
太い、よく通る声が響き渡る。
逃げ切れるなんて欠片も思っていなかった。
ラグビー部の連中の瞬足に勝てる訳がない。
それなのに、僕はもつれる脚を必死で動かし闇雲に木立の中を駆けぬけていた。研ぎ澄まされた冷気が頬を打つ。大地から盛り上がる根が僕の足をとり転がそうとする。
ここは寮の窓から見える木立だ。北にぬければ寮に出られるはず――。
スノードロップを幾多踏み潰し、転がるように走り続けた。
嗤い声が追いかけてくる。
もうすぐそこまで迫っている。
地面に引き倒された僕の瞳に、スノードロップの白が映る。
この花の、花言葉は、希望と慰め――。
必死で手を伸ばし、僕は、芽吹いたばかりの、この可憐な花を、握りつぶした。




