72 四月
その弱さが
僕を縛りつける
鎖
いつの間にか眠ってしまっていた。
気が付いたらとっぷりと日が暮れていた。僕は鬱屈した思いを抱えたまま起き上がり、ドアの取手を引いた。
案の定、鳥の巣頭が蹲っている。ドアを開ける音に反応しないなんて、こいつも僕と同じ様に眠っていたのだろうか。
しゃがみこんでこいつの顔を覗き込もうとしたら、抱え込んだ膝の上に埋め込むように置かれた首筋が、微かに震えているのが見て取れた。
弱虫の鳥の巣頭、すぐにいじける……。
その情けない背中を抱きしめてやった。白いうなじにキスを落とした。
びくりと痙攣して、こいつはおずおずと頭をもたげて振り返った。
「マシュー、」
「中に入れよ。こんな処でみっともないよ」
僕のきつい声音に、こいつの唇がへの字に歪む。でも、立ち上がった僕に続いて、部屋に入ってドアを閉めた。閉めるなり、飛びついてきて僕を抱き締めた。
「ごめんよ、マシュー」
「もういいよ」
鳥の巣頭は酷い奴だ。いつもこうやって僕に甘える。
そんな泣きそうな顔をして震えるのなら、僕を怒らせるような事を言わなければいいのに。
……こいつは、頭がおが屑だから判らないんだ。
あんな冷たい廊下にしゃがみこんで、すっかり冷え切ったこいつの頬を両手で挟んで、ぎこちなく動く唇を喰んだ。
「憐憫なんかじゃない。きみが好きだよ、マシュー」
知ってる。
きみはいつだって、その言葉で僕を縛る。僕みたいな奴を好きになるのは自分しかいない、って、そういう意味だよね?
きみの言葉の一言、一言が、どれほど僕を切り刻んできたか、きみには一生掛かっても解りはしない。
なんたって、きみの頭はおが屑だからね……。
「もう、黙って」
だから、僕はこいつにキスをする。こいつを喋れなくする為に。こいつにこれ以上、僕を好きだと言わせない為に。
オックスフォードから学校に戻った。さすがに試験のことで頭がいっぱいだったから、梟の提案は一時お預けだ。梟も、試験が済んでからで構わないと言ってくれていた。
毎日学舎と寮の往復だ。つまらない毎日。
でも、大鴉に出遇う回数が増えた。だから、全くつまらない訳でもない。
だって、大鴉は、僕と同じGCSE試験を受けるって言うんだ。一学年生の癖に! 前倒し受験にもほどがあるだろ!
とは言え、うちの学校では、かなりの人数が二学年生の内にこの試験を前倒しで受験する。さすがに一学年生で、と言うのは聞いた事がなかったが。
「あの例のカラスの子、ケンブリッジ大学に入学が決まっているらしいよ」
中庭の芝生の上を突っ切って行く奨学生の一団を見遣りながら、鳥の巣頭が囁いた。
「今年はGCSE、来年はAレベルを受験して、二年でこんな学校は出て行ってやるって公言しているって。……傲慢な奴」
知っている。
試験対策用の補習授業を受ける様になって、鳥の巣頭からだけでなく、あの大鴉の天才ぶりは嫌でも耳に入るようになっていた。
それに、もう一つの噂も……。
「きみ、まだあのパブにカレーを食べに行っているの?」
鳥の巣頭はひょいっと肩を竦めた。
「きみも行く? 今人気なのは、桜のスコーン。期間限定だよ。たまには息抜きに行こうよ」
それも噂に聞いた。
オックスフォードで梟に顧客リストを貰ってから、試験明けにスムーズに引き継ぎができるように、僕は少しずつリストの奴らと親しくなるように努力しているんだ。
鳥の巣頭だけじゃない。誰の口からでも出て来るのが、まずは大鴉の噂話だ。彼の考えたパブの新メニュー、週末は混んでいて直ぐに売り切れてしまうって話だった。
寮内ではこいつに邪魔されても、授業は全く別だもの。親しくなるきっかけくらい、自分でなんとか出来る。こいつさえいなければ。僕は休暇前よりもずっと前向きに日々を過ごしているんだ。梟のお陰でね。
「行きたいな。一緒に行ってくれる? そうだな、明日でも構わない?」
「構わないよ! 電話して予約を入れておくよ」
同じ授業を取っている連中とは、まだ一緒に出かけるほどには親しくない。それに、あんな地区に行くならこいつと一緒の方が安心だ。
スコーンなんかどうでも良かったけれど、何はともあれ確かめたかった。
あの大鴉……。
鳥の巣頭が、いきなり腕を小突いた。何事かと横を見ると、こいつはぽかんと口を開けて、学舎に挟まれたカレッジ寮を見上げていた。
釣られて見上げた三階の窓枠に、黒いローブがはためいるのが目に飛び込んできた。
大鴉!
次の瞬間、ローブはひらりと空を舞っていた。黒い羽が、風を含んで大きく膨らみ、芝生の上にふわりと降り立つ。
大鴉は振り返ると、窓に向かって声を張り上げていた。
「チャールズ! そんな豚の飯なんか食えるかよ! 俺は人間だぞ!」
「おい! そこを動くなよ! 反省室に突っ込んでやる!」
窓から身を乗り出しているのは、カレッジ寮の寮長だ。直ぐに引っ込んで廊下を走る姿が、窓越しに微かに映る。
「ばーか。誰が大人しく待つかよ!」
大鴉はちらりと、窓の連なる煉瓦造りの寮を眺め、あっと言う間に走り去ってしまった。
「カレッジ寮長に同情するよ」
一瞬、大鴉を捕まえるのを協力するべきかと、迷いをみせ行きかけた鳥の巣頭だったが、まず追いつけないと踏んだのか、大きくため息をついて呟いていた。
「本当にね」
僕は、くすくすと笑いながら頷いた。




