70 提案
廻り続ける因果の環
天が地に
地が天に
くるりくるりと、めくるめく
マクドウェルと名乗った男は、言葉の通りに直ぐに席を立って行ってしまった。
ウインドー越しのその姿が通りの向こうへ完全に消えると、やっと張り詰めていた梟の緊張が解けて安堵の吐息がついて出ていた。
僕の視線に、梟はくいっと片眉を上げる。
何も訊くなよ、暗にそう言われている様な気がして、「朝食を買って来ます」と立ち上がった。「コーヒーもな」、梟は僕に十ポンド札を握らせた。
トレイを持って席に戻ると、もういつもの梟だ。
にっと笑ってコーヒーを受け取ると、学校の事をいろいろ訊いてきた。自分から言い出さなくても、梟は生徒会の辞任劇のことは既に知っていた。やっぱり、さすがは梟だ! でも、
「そんなに凄い奴なのか、そのソールスベリーの後見している奨学生ってのは?」
梟の方から大鴉のことを訊ねられ、僕は答えに詰まってしまった。
「どうだろう? よく判らないよ。子爵さまは、わざと携帯にウイルスが仕込んであったって言うけれど、それだって憶測に過ぎないもの。学校中に迷惑が掛かるのに、あそこまでするなんて……」
「ソールスベリーならそれくらい平気でやるさ。全く、あいつがエリオットを見捨ててくれて、安心していたらこれだものな」
梟は腹立たしげに眉根を潜めた。
「……前に、監督生が事故で死んだだろう? お前、覚えているか?」
そう言った梟の煙水晶の瞳が、一瞬すっと暗く重い影を引いたので、僕は神妙な顔をして小さく頷いた。忘れようにも忘れられる訳がない。ジョイントのせいであの頃の記憶はかなり曖昧だけれど、あの悲惨な事故の記憶だけは、未だに生々しく残っている。
「そいつは、ソールスベリーの一番の親友だったんだ。奴が転校したのは、キングスリーが死んだからさ。親友を殺した学校に、生徒会、そんなものは御免こうむると、あんな派手な真似をしてエリオットに後足で砂を掛けて出て行ったんだ」
「派手な真似?」
「知らないのか? カレッジホールの正餐会さ。こう、自分の腕をナイフでかっ捌いて、血の滴る腕を高々と挙げてな、」
梟は、自分の左腕を人差し指で切る真似をして掲げてみせる。
「青い血に価値なんかなく、貴族の証は、ノブレス・オブリージュを全う出来るかどうかだ、って声高に宣言して、学校を退学したんだよ」
知らなかった……。
僕は寝耳の水の話に、目を見開いて聞き入っていた。
「つまり、それって……?」
「高貴の血筋に胡座をかいて、本来の義務を忘れ、正しい行動を取らない腐った連中とは同席出来ないってさ」
なんて、激しい人なんだろう……。
子爵さまは、勿論知っていたはずだ。それなのに、僕には教えてくれなかった。子爵さまの言っていた意味がやっと解った。彼について行かなかった臆病な自分……、て。白い彼の潔癖なまでの正しさに、ついていけなかった子爵さま……。
「でも、でも、あの人の死は事故だったのに……」
僕は混乱しながら、否定するように頭を振った。白い彼が親友の死にショックを受けていたのは解る。でも、だからといってそれが学校や、まして生徒会のせいだと考えるのは、どう考えても行き過ぎだ。
「言ったろう? キングスリーはドラッグ根絶の為に、俺たちを追い掛けていたんだって」
一段と声を落とし、囁くように告げた梟の抑揚のない声に、僕は、はっと息を呑んだ。
「だから、子爵さまは……」
梟は、皮肉げに唇の端を歪めた。
「今になって……」
これは、白い彼の意思?
僕たちの学校を退学し、今はケンブリッジ大学に通いながら自分の会社を起こしている白い彼。その彼の過去の亡霊が未だに僕たちの学校を支配している。
そんな気がして、ぞくりと寒気がした。
僕が未だに捨てられないジョイントを、あっさりと捨てた子爵さま。白い彼だけを真っ直ぐに見つめる深緑の瞳が瞼裏に浮かぶ。油断すると、また涙が零れ落ちそうだ。
僕は、まだ手をつけていなかった、チキンサンドのベーグルにかぶりついた。
梟が、くしゃりと頭を撫でてくれた。たったそれだけのことで、僕は涙を堪えることが出来た。
梟は僕が食べ終わるまで、煙草をふかして待っていてくれた。
ちゃんと、言わなくては。
「ねぇ、僕はどうすればいいんだろう?」
「次年度か?」
頭の良い梟には、いちいち言わなくてもちゃんと解っている。
梟は、暫くの間目を細め、考え込んでいるようだった。深く吸い込まれない紫煙がゆらゆらと漂っている。
「マシュー、お前、ジョイントを売らないか?」
梟の口にした余りにも想定外な言葉に、僕は呆気に取られ、すぐには返事をすることが出来なかった。
青い血(blue blood)… 血筋が良い、貴族を意味する。
ノブレスオブリージュ…高貴なる者には、それに伴う社会的責任と義務があるという概念。




