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61 ピアノ

 灰色の空に舞う黒い翼

 揺蕩う白い煙

 決して混じり合わない二つの幻影





 鳥の巣頭は僕を怒ったりしなかった。


 僕に呆れたのなら、もう放っておいてくれればいいのに……。


 怪我の手当てを終えても、鳥の巣頭は僕の部屋から動こうとしなかった。僕に、風呂に入ってジョイントの匂いを落としておいで、とだけ言って、自分は一人掛けのソファーに辛そうに座ったままだ。


「僕のベッドに寝転んでいるといいよ、身体、辛いんだろ?」

 僕は心配して言ってあげたのに、こいつはむすっとした顔のまま頭を振った。僕は吐息をひとつ吐いて浴室に向かった。




 部屋に戻ってもどうせまだあいつがいるのだ、と思うと腹立たしくて、わざとゆっくりと湯船に浸かった。こうしていると、ジョイントの夢から覚める時の、あの身体にずっしりと掛かってくる重力が幾分マシに感じられるから。


 僕たちは、どうしてこの肉の重さに耐えていられるのだろう? 僕は不思議で堪らない。精神はこの白い煙の助けさえあれば、どこまでも高く飛翔することだって可能なのに……。

 あんな下らない奴らですら、ジョイントの白い煙は愛で包んでくれるのに……。


 鳥の巣頭みたいな、馬鹿で頭のカチンコチンに凝り固まった奴には、解らないんだ。


 神に近づくことが人として生まれてきた意味だというのなら、この重たくて汚い肉体を引きずるようにして生きているよりも、たとえ、この身体に多少の損傷を及ぼそうとも、ジョイントの力でこの檻のような身体の縛りを解き放ち法悦を得る方が、よほど神の御意志にかなっている。




 ゆるゆると揺れるお湯の中で、僕は身を捻り窓を覗く。灰色の冬空を。代わり映えのしない陰鬱な空。僕の光は白い煙に導かれるというのに、あいつは意地でも邪魔をする。


 その時、白樺の林を、黒い影が過ぎった。……ような気がした。


 片羽の大鴉が僕を嗤った。


 飛ぶのに、そんなものなど必要ないよ、って……。




 部屋に戻ると、鳥の巣頭はもういなかった。

 僕は安心してベッドに横たわった。


 お腹が空いた。ジョイントを吸うとお腹が空くんだ。

 あの大空を飛ぶから、お腹が空くんだ。





 学校に戻ってからも、僕と鳥の巣頭はぎくしゃくしたままだった。ボート部の先輩方は、さすがにもう僕と遊ぶ気はないようだった。

 また振り出しだ。

 僕が着々と敷いた布石を鳥の巣頭がぶち壊す。いつもそうだ。あいつは僕の疫病神。そのくせしたり顔で僕の生活の全てを支配しようとするんだ。自分が僕の面倒を全てみてあげているような顔をして。


 大嫌いだ……。





 でも、もう一度あのパブに行きたくて、僕は鳥の巣頭に声を掛けた。あんな怖い地区の小汚い店に、一人で行く勇気なんてなかったから。




 大鴉はもう、僕の部屋から見える川沿いの林に翼を休めに来ない。代わりに新入生の一団がツリーイングしている。どいつもこいつも大鴉の真似をして、ロープを引っ掛けた木の枝にみっともなく登っている。あんなもの見たって面白くもなんともない。木から降りる時だって、おっかなびっくりで伝い降りるだけ。大鴉みたいに見事なまでに美しく飛ぶ奴なんて一人もいない。


 ピーチク煩いこの小雀らのせいで、大鴉はこの林に来なくなったんだ!


 確かめたかった。天使くんが、まだあの店にいるかどうか。僕の大鴉に近づいたりしていないかどうか。




 休日の外出時は私服の着用が推奨されているのに、あの時の新入生は制服だった。休み明けで気が緩んでいるかもしれないし、気になるんだ、と言うと、鳥の巣頭は驚いたように目を大きく見開いて僕の顔を見つめ、それからぱぁっと嬉しそうに笑った。

 久しぶりだ、こいつのこんな笑顔。


「そうだね、きみの言う通りだ。少し前にもあの辺りの地区で恐喝事件があったんだよ。見廻りがてら行ってみようか」


 鳥の巣頭はうきうきと背筋を伸ばす。


「そんなふうに、下級生のことを心配してくれていたなんて、ちっとも知らなかったよ」

 そうして、また以前のように饒舌に喋り始めた。




 名家の子弟ばかりが通う有名私立校である僕たちの母校は、街の不良どもに目をつけられやすい。

 もともと外出時は制服着用だったのを、公立校の連中や、地元のならず者とのトラブルを少しでも避けるようにと、休日時の私服着用を許可して欲しいと進言したのはソールスベリー先輩なのだそうだ。特に、まだ学校にも不慣れで狙われやすい下級生のうちは、上級生が外出に付き添って警護するように規則で定めるよう申し出、規則化したのも彼の派閥の功績だと、鳥の巣頭は、まるで自分の手柄でもあるかのように自慢げに喋っていた。


 こいつ、いつの間に白い彼の信奉者に成り下がっていたんだ? でも、


 その彼が後見をする大鴉は、毎夜その危険な区域で遊び歩いている……。


 この事実に、鳥の巣頭はきゅっと口元を引き締めて厳しい表情を示した。




「なんとかしないとね」


 どうせ取り締まったって、あの大鴉のことだから、ひらりひらりと飛び立って逃げるに決まっている。それよりも天使くんだ……。未だに大鴉を追い掛け回しているのか、その方が気になった。





 答えは案の定だった。

 天使くんは、相変わらず壁際の古びたピアノを弾いていた。

 前に来た時よりも音が明るい。


 僕にはそれが腹立たしくて堪らなかった。


 その日は空いていたから、僕たちは窓辺の席に座った。鳥の巣頭はカレーを頼まなかった。壁の黒板に白いチョークで大きく売り切れの文字が書かれていたから。



 僕たちは紅茶を注文し、暫く顔を見合わせたまま黙ってその場に座っていた。刻々と、ステンドグラスが一部嵌め込まれた窓ガラスの向こうが、薄らと広がる闇に沈んで行く。窓外を通り過ぎた一団に、鳥の巣頭は緊張した面持ちで立ち上がり掛ける。僕はこいつの腕を掴み、耳元で囁いた。


「馬術部の先輩がいる。僕がここに残って様子を探るから、彼を送ってあげて」

「でも……」

「きみじゃ警戒される。それに、これ以上新入生が巻き込まれたりしたら、大ごとになり兼ねないだろ? 送って、すぐに迎えに来て」


 カラカラーン、と勢いよくドアが開く。どやどやと踏み込んで来た一団を一瞥することもなく、鳥の巣頭はピアノを弾いている天使くんに歩み寄り、天使くんは素直に頷き立ち上がった。


 暫く店の主人と喋っていたその一団は、がやがやと騒がしく喋りながら厨房に続く扉を開け、階上に上がって行った。足音と、階段の軋む音が僕の席にまで大きく響き、届いていた。


 でも、その中の一人がにやっと笑い、顎をしゃくって僕に合図をするのを、僕は見逃さなかった。

 馬術部の先輩ではないけれどね。だって、馬術部から生徒会に入った人なんていないもの……。




 鳥の巣頭と天使くんが店を出るのを見送ってから、僕はこの店の主人に声を掛けた。


「ご主人、二階にも部屋があるのですか? さっきの一団に友人がいたもので。僕も上がっても構わないでしょうか?」







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