52 控室
大空に黒い翼が舞い
鋭い爪が
ウロボロスの腹を裂く
窓から見下ろすテムズ川は、その身を凍らせ畝ねるように蛇行する。灰色の空の下の、灰色の川。その川縁に沿うように立ち並ぶ冬枯れた樹々。
僕は窓枠に腰掛け、その色のない風景を、同じように冷え切った心持ちで眺めていた。
もうじき始まるクリスマス休暇の前日に、恒例のクリスマスコンサートがある。そのコンサートに行くかどうかを、僕は随分と迷っていた。たかが学校の生徒の発表会に過ぎないのに、チケットは既に売り切れて、プレミアまでついているという。と、言うのも、あの天使くんと大鴉のせいだ。
天使くんも、ヴァイオリンの名手として名を馳せていた兄と同じように音楽の才能に恵まれているらしく、その才能で入学したはずの音楽奨学生を押し退けてソロを勝ち取った。
そのせいか最近の天使くんは、あんな事があったとは思えないほど生き生きしている。
まぁ、そう思うのは僕だけかもしれないけれど。傍目には、ビスクドールのように可愛らしいその顔を、お人形らしく微動ださせずに澄ましているようにしか見えないだろうから。
天使くんは授業が終わってから日没までの僅かな時間に、フェローズの森の辺りをうろついていることが多かった。一人の時もあったし、友人らしき子と一緒の時もある。大鴉を探しているのだと、すぐに解った。
だって、僕もそうだったから……。
いくら探したって、そこに彼はいないよ、天使くん。
だってね……。ほら、やっと来た。
僕は、窓から寒々と凍る林を見下ろした。葉の落ち切った大樹に留まる、大きすぎる鴉を眺めているだけで、顔がほころんでくる。
あの大鴉は陽が落ちるまで、ただ何もするわけでもなくあそこに留まり続ける。いや、陽が落ちてもまだいるのかもしれない。僕には見えなくなるだけで。
幾重にも重なる枝に交じり、彼はあそこで羽を休める。そんな彼を、僕は眺めているのが好きだった。
ただそこにいるだけの孤高の大鴉は、僕にはとても自由に見えた。
毎日のように来ていた大鴉が、余り来なくなった。例のクリスマスコンサートのせいだ。あの大鴉、他の教科は完璧でも、音楽だけはからっきしだという噂だったのに、ここにきていきなりコンサートの出場権利を勝ち取ったのだ。
あの白い彼が手ほどきしたのだと、専らの噂だった。彼は選抜試験で、白い彼そっくりの演奏をしたと。
白い彼はヴァイオリン、大鴉はフルートにも関わらずだ。卓越した技術で評価の高い白い彼に負けない完成度だと、音楽主任のお墨付きで大鴉は選抜生に選ばれた。
天使くんにしろ、大鴉にしろ、白い彼の周りにいる連中には、神は二物も三物もお与えになるらしい。神様は本当に不公平だ……。
僕の至福の時間まで、こうやって奪っておしまいになる。
大鴉のフルートを聴きたい気もするし、どうでもいい気もした。
僕は、人間の彼ではなく、あの林の樹の先端に留まる大鴉を見ているのが好きなのだ。彼が、ふわりと飛び立つ瞬間を見るのが好きだった。夕闇に溶けるような黒いローブ。風に舞う翼。消え入るように樹々の狭間に飲み込まれる羽ばたき。
彼は僕の夢の産物……。出来ることならそう思いたかった。
天使くんを、その黒い翼で守る大鴉には何の興味もない……。
迷った末、僕は鳥の巣頭に引っ張られてコンサートに行った。友人が演奏するから花束を渡すのだそうだ。
天使くんのピアノも、大鴉のフルートも、前評判に違わず素晴らしかった。でもそれだけだ。
黒いローブを脱ぎ、燕尾服姿になった大鴉はただの一生徒に過ぎない。
鳥の巣頭が舞台袖で花を抱えて演奏終了を待っている間、僕は手持ち無沙汰と軽い目眩から、人気の絶えた控え室の並ぶ廊下で待つことにした。延々三十分はあるオーケストラ演奏を立って聞いているなんて冗談じゃない。僕は電気の消えた曲がり廊下の端に置かれたベンチに腰掛けた。客席で待っていてと言われたけれど、隣に座っている田舎鼠が煩わしい。昏がりだと思って、僕にべたべた触ってくるのだもの。
「泥棒!」
突然響き渡った悲鳴のような高い声に、腕で支えるようにして伏せていた顔を上げた。誰もいないはずの廊下に足音が高く響く。
僕は死角になる壁に隠れるようにして、声のする控え室に耳を欹てた。一瞬、視界に入った人は、見間違えでなければ、あの白い彼だったからだ。
白い彼と、その連れらしきもう一人は、臆することなく控え室に踏み込んでいった。
白い彼らしい良く通る低い声が、天使くんの名を呼んだ。
「こいつが、父さんのフルートを盗んだんだ」
天使くんだ。あの子がこんな感情剥き出しで怒るなんて。
僕は驚きながら聞き入っていた。
天使くんは、しきりにその父親のものらしいフルートを、その場にいる誰かが盗んだのだと訴えている。
「誰が、泥棒だって? 父はもうこれを奏でることはできない。眼鏡にかなう相手がいれば僕の好きにしていいと言われて、これは、僕が、彼に、あげたんだよ。それを、僕が父から盗んだって言いたいのかい? それとも僕の大切な友人が盗んだとでも?」
聞こえてきた、相手を見下すような、冷ややかな白い彼の口調に僕は耳を疑った。冷静沈着、寛大で優しい白い彼、子爵さまの誉めそやす、あの彼の言葉とは思えなかった。
パシッ、と皮膚を打つ音と、押し殺すような、けれどくっきりとした声が響いた。
「楽器を粗末に扱うなよ。狂暴なやつだな」
「きみはこのフルートはいらないんだろう? なら構わないじゃないか。この礼儀知らずの小憎たらしい顔を、ぐちゃぐちゃにしてやりたかったのに。……どけよ」
その余りに冷酷な響きに、僕の方こそ凍りつきそうだった。僕の知る白い彼、子爵さまから聴いていた白い彼の面影などどこにもない。
僕は息をするのも忘れて、成り行きに耳を欹てた。
「ヘンリー、どうして判らないの? きみはこの子に対して怒っているんじゃないだろ? きみが怒っている相手は、子どもの頃の自分だろ? この子の容貌が、昔のきみを思い起こさせるからって、それはこの子のせいじゃないよ!」
また別の声だ。多分、さっきの白い彼の連れ。高めの叫ぶような声だったから、よく聞き取れた。けれど、白い彼のくぐもった呟きが聞き取れない。
「これ以上、この子を傷つけないで。それはきみ自身を傷つけているのと同じだよ。…………。幼かったきみを、誰も守ってくれなかったのなら、僕が守るよ。きみがこれ以上幼いきみを傷つけないように、僕が守るからね」
とても哀しげな声だった。
決して僕に向けられた言葉ではなかったのに、これは白い彼に向けられた言葉だと解っているのに、その彼の言葉が心に突き刺さった。
僕は込み上げて来る嗚咽に、震えながら口を抑えた。泣き出してしまいそうな自分が信じられない。
「どうして、きみが泣くんだ?」
白い彼が僕に訊ねた。違う……。そんな訳がない……。
「きみが、すごく、傷ついた顔をしているからだよ」
涙を含んだ声が、一言、一言区切って、白い彼にそう告げた。




